七海はその日、初めて無断欠勤というものをした。さっきからジャケットのポケットで震え続けている携帯電話には、会社からの不在着信が何件も入っているだろうが今そんなものはどうでもよかった。駅を経由する時間が惜しくてタクシーを拾い、渋滞にはまったのを見るやその場で降りて走り出す。頭に直接響く心臓の音も、背中を伝う冷たい汗も、そんな煩わしいものを全て振り払うように、ただただひたすら地面を蹴った。



朝家を出て会社へ向かう途中、ポケットの携帯電話を鳴らしたのは高専時代の先輩だった。その珍しすぎる着信元に、数秒は黙って着信画面を眺めていたものの、一向に切れる気配がないため観念して通話ボタンを押す。何か急用だろうか、今更……呪術師でもない自分に?
てっきり、開口一番「出るのが遅い」とか何とか文句の一つでも飛んでくるかと思いきや、電話の向こうにいる相手は至極静かだった。七海、と数年ぶりに自分の名前を呼ぶ声は確かにあの人のものだったが、こんな話し方ができたのかと驚くくらい、それは静かで落ち着いた声だった。

『急に悪いね。取り乱さずに聞いてほしいんだけど』
『昨日の夜、名前が任務で重症を負った』
『硝子が徹夜で治療に当たってるけど、それがなかなか終わらなくてさ』
『名前から、最近七海と会ってるって話聞いてたから、オマエにも連絡しといた方がいいかと思って』
『もしもってこともあるから、来れるんだったら来いよ。……大事な同期だろ?』

ブツリと電話が切れてからも、七海の頭の中では五条の声が壊れたレコードのように何度も再生されていた。名前が、任務で重症を負った。もしもってことも…あるから……。
気がつけば、七海は会社とは真逆の方向へ走り出していた。始業まであと三十分を切っている。社会人になってからかれこれ四年、無断欠勤はこれが初めてだったが、こんなにも簡単にできるものなのかと頭の隅で驚いた。この天秤はあまりにも明快で、七海は自分の中でのあの会社の価値に…その軽さに、この頃薄々気づき始めていた。というより、とっくに気づいていた事実をようやく認め始めたのだった。
人の密集地を抜け、またタクシーを止めて郊外の道をしばらく進めば、数百メートル先に呪術高専の校舎と敷地が見えてきた。しかし、敷地内に入ってからも正門まではまたそれなりの距離があるわけで。今日ばかりはこの辺鄙な立地とやけにだだっ広い敷地が憎い。

「…もう二度と、戻ることはないと思っていたんですがね」

七海はタクシーを降りると、もうすっかり手放しかけていた記憶を頼りに医務室への道を急いだ。





カタ、と音を立てた扉の方へ名前が顔を向けると、そこには息を切らした同期の姿があった。ベットの上で目を丸くする彼女に、七海は浅い呼吸を整えながらツカツカと一直線に近づいていく。

「……ハァ…家入さんの治療、終わったんですね…」
「七海!?…あ、五条さんが『後で七海呼んどくよ』って言ってたの、冗談じゃなかったんだ!?」
「……」
「ご、ごめん。心配させたよね…イテテテ」
「!いいから寝ててください」

起き上がろうとしたものの、呻き声を上げて固まった名前に七海があわてて駆け寄る。その肩を持ってそっと寝かせてやりながら、薄い患者衣の首や袖口から覗く部分がどこもかしこも包帯だらけなことに気づいた。ありがとう、と言う右頬にも痛々しい打撲の跡が残っていて、思わず黙り込むと、彼女は困ったような笑みを浮かべる。

「硝子さんに治してもらったからもう平気だよ。こんなに包帯巻く必要ないのに、大袈裟だよね」
「…たった今、ずいぶん痛がってたように見えましたけど」
「へっ!?…それはまあ…私の我慢が足りないからで…」
「我慢してるんじゃないですか」
「な、七海のいじわる……!」

ぐっと力が込められた彼女の左手は、恐らく自分を殴ろうとしたのだろうが、数センチ持ち上がっただけでそれはパタリと布団に沈んだ。名前が涙目になっているあたり、今の動きだけでもかなり痛かったらしい。
反転術式を駆使する家入硝子の腕は相当なものだが、まだこれだけの怪我が残っているところを見ると、彼女の手が他に回らないくらい大きな傷を……それこそ致命傷になるような重傷を、数時間前の名前が負っていたのだろうことは容易に想像できた。五条もそれを見て「もしも」だなんて不吉なことを口走ったのだろう。

満身創痍でベットに横たわる名前の姿は、ここ最近目にしていたどんな彼女よりも弱々しくちっぽけで、この手を取ったら崩れてしまうんじゃないか、と思うくらい七海の目には脆く映った。……ついこの間だって、偶然街で名前を見かけたのだ。ショーウィンドウの前で、ぼんやり立ち止まって次の季節に移いはじめた服を眺める姿に、わざわざ声を掛けることはしなかった。連絡先は知っているのだし、また会えるだろうと当然のように考えていた。たった数日後に彼女が死んであのとき見た姿が最期になるかもしれない、なんて、もちろん到底思いつきもしなかった。
こうして強引に日常を引き剥がされる感覚が、いとも簡単に全てを奪っていくこの世界が、七海は心底嫌いだった。灰原の時だってそうだ。前日の晩に家族と電話で笑いあっていた彼は、翌日の晩には冷たくなっていた。朝に「早く起きろ」と部屋へ駆け込んでくることも、任務に発つ前に「今日も頑張ろうな」と鬱陶しいくらい背中を叩かれることもなくなった。自分の日常から、突然ページが抜け落ちたように、灰原がいなくなった。

「……もうあんな思いはしたくないと、そう思って呪術師を辞めたのに」

この選択は間違いだったんでしょうか。
気がつくと、ぽろりと口から言葉が溢れていた。弱っている彼女の前で情けない、と思うと同時に、名前と再会してからずっと喉につかえていたものがようやく取れたような気がした。逃げ出した後の迷いや後悔が、無いわけがなかったのだ。まして…目の前の彼女は変わらずこの世界に向き合い続けて生きている。その姿を違う世界の出来事だと割り切ることが、見て見ぬふりをすることが、自分にはもうできないことを知ってしまった。

名前は、ベットの上で七海を見上げながら、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。暗い顔で黙り込んでいる同期の頭の中が、めずらしく手に取るように分かった気がしたのだ。

「七海は、間違ってなんかないよ」
「…どうしてそう言いきれるんです」
「それは……まあ、私のエゴというか」
「?」
「あの…怒らないで聞いてね?」

怪訝な表情を浮かべる七海に、名前は苦笑しながらぽつぽつと話し始める。正直…七海が呪術師を辞めると聞いたとき、何で、と思うのと同じくらいほっとした自分がいたのだ。だって七海は元々私よりも強くて、たとえ彼が命の危機に瀕したとしても私にはそれを救う力が無いことは解りきっていた。それは灰原という同期を一人失ってからずっと、私の中に居座っていた不安だった。
これは単なるエゴだ。自分に七海を守る自信がなかったから、彼が少しでも安全なところへ行ったことに勝手に納得して、勝手に安心した。

『もっと強くなりたいよ。大切な人たち…全員守れるくらいに』

名前の話を聞きながら、七海は数ヶ月前に彼女と居酒屋で酒を飲んだときのことを思い出していた。大切な人たちを守れるくらい強くなりたいと、名前はそう言った。たとえ自分が呪術師を辞めようが辞めてなかろうが、その「守りたい大切な人たち」に自分は含まれているんだろう。けど。
そこまで考えて、七海は自分の中にふつふつと浮かび上がったいくつかの事実に驚いた。自分を守るという名前の言葉に……少なからず憤りを感じていること。そして、とうに逃げ出して今の自分にはそんな力無いくせに「彼女をこの手で守りたい」なんて、そんな身勝手な願いを持ちあわせていることも。

「……エゴですね」
「はは…そうだよねぇ…」
「いえ、今のはアナタではなく自分に対してです」
「?」
「…守られてばかりいては、格好がつかないという話ですよ」

吐息混じりの言葉に、ぱちぱちと目を瞬かせた名前がどんなことを思ったのか。七海にはまだ分からなかった。ただ確信をもって言えるのは、呪術師はクソで、呪術師の世界も彼女をこうして傷つける呪霊も一切合切すべてがクソだということだった。けれど自らの利益ばかり追求させる会社もクソだ。部下に詐欺まがいのことを指示する上司も、そしてそんなクソみたいな場所に逃げ込んで、大切な人が命を落とそうとしている時に気づかずのうのうと生きていこうとした自分も、皆みんなクソだ。

七海はフゥと大きく息を吐き出すと、そのまま名前に背を向けて歩き出した。会社も上司もクソではあるが、彼女の無事は確認できたし、何よりお客に罪はないのだから仕事に戻らなければならない。あと一時間後には、昨日取った新規顧客のアポイントメントの時間が迫っていた。
扉の前まで歩いたところで、彼女の方を振り返る。まだ先程の言葉の意味を考えあぐねているらしい名前の様子に、七海の頬は自然と緩んだ。

「また明日、見舞いに来ます」
「えっ別にいいよ!というか、今も仕事抜けてきたんだよね?ごめん…」
「名前さん」
「ん?」
「どうやら私は、アナタのことが心底大切らしい」
「…………へ、」

ポカンと口を開けた彼女に、では失礼しますと言って七海が部屋を出る。「……えっ?!?」と馬鹿でかい叫び声が背後から聞こえた気がするが、その答え合わせはまた明日することにしよう。
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