彼の姿を見間違えるはずがなかった。
ただ、彼は高専時代の真っ黒な制服とは正反対の色味のスーツを着ていたし、右手にはブリーフケースを、左手にはこれから昼食にするのであろうテイクアウトの紙袋を抱えた「いかにもサラリーマン」という格好をしていたものだから。私は彼の名前を発するまでに数秒を要してしまった。

「…………七海?」
「…それ、さっさと祓ったらどうです?」
「え?ああ、うん…そうする」

右手で掴んでいた呪霊に呪力を込めれば、それは瞬く間に霧散した。なんてことない低級呪霊である。空っぽになった手を下ろしてチラリと前方を見ると、そこにはまだスーツ姿の男が立っていたので私はしばし途方に暮れた。…ど、どうしよう。取り逃した呪霊を追って市街地の近くまで来てしまったものの、ここはまだ人通りの少ない裏路地のはずだ。だから帳も下ろさなかったのに…まさか彼がこんな所にいるなんて。
黙り込んだ名前を見て、七海は彼女の考えていることが大体読めたのかハァと溜息を吐いた。それからブリーフケースを持つ右手を上げて、今自分がやってきた方向を指す。

「この道、得意先から会社に戻るときの近道なんですよ」
「…なるほど」
「まさかアナタが呪霊を追って駆け込んでくるとは思いませんでしたけど」
「それは大変申し訳ありませんでした」

七海に向かってパンッと両手を合わせる。ここは、居合わせたのが非術師ではなく高専時代の同期だったことに安堵するべきところなのかもしれないが、彼も今や一般人だ。数年ぶりに再会した七海は相変わらず賢そうで、ちょっぴり神経質そうで、その落ち着いた声も少しキツめな切れ長の瞳もあの頃から変わってはいなかったけれど。呪術師を辞めて数年経った彼の周囲には、何か、私が触れてはいけない穏やかな空気が流れているような気がした。
昔馴染みとはいえ、こんなところでまた私みたいなのと関わり合いになるのは彼にとって迷惑だろう。まして私は今任務の真っ最中、全身真っ黒な「いかにも呪術師」といった格好の上、あちこち走り回ったせいで埃まみれだ。…そう考えると、キチンと身嗜みを整えた七海の前にいるのが急に恥ずかしく思えてきて、私はくるりと勢いよく彼に背を向けた。

「そ、それじゃあ私はこれで…」
「っ待ってください」
「うわっ!?」

一歩前に出たところで、ぐんと右腕を強く引かれて私はバランスを崩しかけた。驚いて後ろを振り返ると、七海は自分でも驚いたというような、何ともいえない表情を浮かべたまま私の腕を離して「すみません」と言う。そのまま互いの顔を見合わせて数秒後、七海はその気まずい沈黙を破るように、左手に持っていたそれをガサリと差し出した。

「これ…どうぞ」
「へ?」
「その調子だと、今日はまだロクに食べていないんでしょう」

名前さんもパン好きでしたよね。そう言って半ば押しつけるように渡された紙袋を受け取れば、七海は満足したように私に背を向けてスタスタと歩き出した。パン…?彼の言葉を繰り返したところでハッと気づき、あわてて紙袋の中身を確認する。そこにはフランスパンにハムとカマンベールチーズが挟まった、美味しそうなカスクートが一つ。
ぱっと顔を上げた頃には、その背中はもう大通りの雑踏に紛れて見えなくなっていた。私は開きかけた口を閉じ、代わりにまた手元の紙袋へ視線を戻す。これ、七海のお昼ごはんだよねぇ絶対…。そういえば、このカスクートはパン屋で買ったもののようだけど、高専時代はよくコンビニで彼が買ってたっけ。ふとそんな懐かしい記憶がよみがえって、私はそれを大事に抱え直しながら口元を緩めるのだった。



「七海、それ何?」
「…カスクートです」
「へえ〜美味しそう!」
「何だかオシャレで女子が好きそうなパンだな!今度アイツに買っていってやるか」
「え、なに、灰原彼女いるの?」
「いや妹だ!」
「何だつまらん…ねえ七海、ひと口ちょーだい!私もパン好きなんだ」
「(嫌と言ったら拗ねるんだろうなこの人は…)どうぞ」
「七海ー!僕にもくれ!」
「嫌ですよ。アナタ米派でしょう」
「そーだそーだ!」
「なっ……まぁ米は譲れないな」
「諦めんの早」
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