「ねえねえ悠仁」
「何?」
「コレ、塗ってほしいんだけど」

とある休日の昼下がり。暇だという理由で男子寮に上がりこみ、あろうことか自室にまでやってきた名前が差し出したのはサーモンピンク色のマニキュアだった。突然のお願いに、しかも同級生の男子高生にするような内容ではないそれに、悠仁は口をへの字に曲げる。

「ええ〜……自分で塗りなよ」
「残念ながら引くほど不器用なんだ私」
「釘崎に頼めば」
「野薔薇ちゃん、昨日から地方に出張でいないんだもん」
「……俺やったことねーよ?」
「悠仁は器用だからダイジョーブ!」
「何その自信……」

ハアと溜息を吐きつつも、マニキュアの瓶を受け取ってくれるのだから悠仁は優しいやつだ、と名前は思った。そのまますぐに塗り始めるのかと思いきや、彼がテーブルの上にあったスマートフォンを取って何やら操作し始めたので名前は首を傾げる。

「何やってんの?」
「『マニキュア 塗り方』で検索中」
「えー!?別にテキトーでいいのに」
「や、俺マジでやったことないからさぁ……あっこの動画スゲー分かりやすい」
「どれどれ」
「コレコレ」

隣に移動してスマートフォンを覗き込んできた名前に、悠仁は見やすいよう画面を傾けながら動画を再生し直した。三分程の簡単な説明動画が終わると、悠仁はウーン……と数秒唸ったあとにまた再生ボタンを押す。ふたたび流れ始めたそれを見つめる眼差しは、呪霊と対峙した時と同じ……とまではいかないがまさに真剣そのもので。ロクに調べもせずに放り投げた自分が馬鹿みたいじゃないか。食い入るように画面を見つめる同級生の横顔を眺めながら、名前はぼんやりとそんなことを思った。



「おっし!!やるぞー!!」
「お願いします!!」

三度目のリピート再生が終わったところで、悠仁はようやく顔を上げた。まずはマニキュアの瓶のフタを親指と人差し指でつまみ、筆先についたマニキュアの量をちまちまと調整していく。とても初心者とは思えない手際の良さに、名前が感心しながら右手を差し出すと、悠仁はその手を取って親指から慎重に塗り始めた。

「おお、うまいうまい」
「……そんなに見られると緊張すんだけど」
「や、私がやるより全然良いよ!さっすが悠仁!」
「あー……さっきの動画が分かりやすかったから」

真似してるだけだよ。中指の爪に迷いなく筆を滑らせながら悠仁はそう言って笑った。彼がすでに塗り終えた爪は、ムラのない綺麗なサーモンピンク色に染まっている。「悠仁、本当にすごいねぇ」あっという間に塗り終わってしまった右手を眺めつつ名前がそう言えば、向かいの同級生はぱちくりと目を瞬かせてから「……なんか、出会ってから今までで一番褒められてるような気がする」と何だか納得いかないような表情を浮かべた。

「次、左手な」
「お願いします」
「……名前、これからどっか出掛けるの?」
「うん。中学の時の友達とちょっとね」
「ふーん……」

もはや慣れた手つきで左手の親指の爪を塗り終わり、人差し指の爪に差し掛かったところでふと悠仁の手が止まった。おや?と内心首を傾げながら名前が顔を上げると、目の前の彼はなぜか落ち着きなくウロウロと視線を泳がせている。

「どしたの悠仁?」
「そ、それってさ……えーと……」
「何よ」
「……デート?」
「ぶっ、えっ、違うよ!!」
「うわっ動くなって!はみ出した…」
「あ、ゴメン。…………いや、あの、相手は女の子だし」
「あっそーなんだ」
「うん……」
「……」
「……」

互いが口を閉ざし、沈黙が流れる。悠仁の手のひらの上、名前の人差し指の爪からはでろりとマニキュアがはみ出してしまっていた。……あ、除光液持ってこなきゃ。気まずくなった空気を破るように名前が立ち上がろうとすれば、その手首を悠仁が掴む。

「わっ!」
「……ごめん。変なこと聞いた」
「や、ううん……全然……」
「ただ」
「?」
「……彼氏だったら、嫌だなと思ってさ」

いつの間にか、悠仁はちょっと不貞腐れたような顔で名前を見上げていた。その目には、立ち上がりかけた彼女の頭から足の爪先まで全身が映っている。普段見慣れている黒一色の制服とは違う、明るくて可愛らしい色の私服を着た同級生。おまけに今自分が塗ったばかりのサーモンピンク色のマニキュアが、何だか生々しいくらいに名前を「女の子」らしく見せるのだった。
名前はそんな珍しい彼の様子に、立ち上がろうとした動きを止めてその場に座り直した。ふたたび二人の間に沈黙が流れる。先におずおずと口を開いたのは、名前の方だった。

「あの、もしかして……」
「……」
「……やきもち?」
「そー……デスネ」
「悠仁って私のこと好きだったの?」
「……うん……あーー俺、カッコ悪!!!」

パッと名前の手首を離した悠仁は、そのままガバリと自分の頭を抱えて叫んだ。うお、と向かいで若干引いている名前に構うことなく悠仁は両手で顔を覆いながら「何でこんなビミョーな感じで言っちゃってんの俺……」等と呟いている。その顔は、見ているこちらが恥ずかしくなるくらい真っ赤だった。

「ゆ、悠仁……?」
「……いや、名前も名前だからね!?」
「えっ!何、私!?」
「好きじゃなきゃそこまでやんねーから!」

ビシリと悠仁が指差す先、そこには綺麗に彩られた名前の爪が並んでいる。彼女はそんな自分の爪と真っ赤な悠仁の顔とを見比べて、彼の言葉の意味を噛みしめて、ようやくじわじわと顔に熱が集まっていくのを感じた。自分が今こうして悠仁のところへやって来たのは、もちろんその手先の器用さを買っているからではあるが、何より彼は……この突拍子もないお願いを訳もなく聞いてくれるだろうという予感があったからだった。その理由が、彼が自分に抱いている好意故だとハッキリ気付いたのは、今が初めてだったけれど。

気がつけば茹でダコのように赤くなっている名前に、悠仁はやっとかと呆れた気持ちになった。それと同時に、彼女の気持ちはどうなのだろうという不安や期待がむくむくと膨らんでいく。心配そうにこちらを見つめてくる同級生の顔を見返しながら、名前は火照る頬をそのままに「悠仁も悠仁だ」と心のなかで溜息を吐いた。

「な、なぁ名前……」
「ねえ悠仁」
「へ」
「今度デートしようか」
「えっ!?」
「そのときはまた爪塗ってね」
「あ、うん………いや自分で塗りなよ」

×