※リーマン時代の同僚彼女



ただいまぁ〜と玄関からご機嫌な声が聞こえる。リビングに入ってきた彼女はふらふらとおぼつかない足取りでキッチンへ向かうと、流し台でマグカップを洗っていた七海の腰に手を回しぎゅっと抱きついた。……これは相当酔っているな、と七海はため息を吐きながら、洗い終えたマグカップを水切りかごに置いてペーパータオルで手を拭く。

「おかえりなさい」

言いながら、一旦離れてほしいという意味で彼女の手を軽く叩くが、もうそんな意を酌む理性も残っていないのか腰に回る手は緩む気配がない。離れてください、と今度は口に出してみるも、んん〜と鼻にかかった甘ったるい声が返ってくるだけで背中に感じる体温は変わらなかった。

「……そのまま寝ないでくださいよ」
「だいじょーぶ」
「目つむりながら何言ってるんですか」

彼女の腕のなかで七海がじりじり身体を回すと、彼女はそのまま七海の脇腹にべったりとくっついた。まるで磁石のようだ、と七海は思う。彼女の閉じた瞼とつむじを見下ろしながら、七海はこのまま引き摺って寝室までつれて行くのがいいか、もういっそ抱き上げて持ち運んだ方が楽だろうか、なんてことを考えていた。

「そういえば……帰りはどうやって来たんですか?」
「おくってもらった」
「誰に?」
「あー……ななみが知らないひと。あなたがやめてから異動してきたから」
「へえ」
「……な、なに?」
「別に。ああ、疑ってるわけではないので安心してください」

頭上からの視線が痛かったのか、彼女はゆっくりと瞼をあけてバツの悪そうな顔をした。自分で口にしてから、私が気分を害するかもしれないと心配になったらしい。相手が男かどうかもこちらは知らないというのに……まあ、今の態度から察するにその相手は男なんだろうけど。しかも彼女の守備範囲に入る程度の。

「……いちおー言っとくけど、なにも無いからね?」
「五年も付き合っていて、このくらいで動じませんよ」
「ななみあいしてる〜〜」
「……」
「でもこれからは気をつけるねぇ、あの人、さいきんやけにしごと手伝ってきたりごはんさそってきたりしつこかったから……」
「…………は?」

七海に言われたとおり離しかけた腕を、今度は反対に強く掴まれて彼女は驚いた。おそるおそる顔を上げると、先ほどまでは一ミリも動いていなかった彼の表情がなんだか恐ろしいことになっている。

「なな……?」
「……どうしてわざわざアナタに好意がある男に送られてくる必要が?」
「き、きがついたらタクシー乗せられてて……」
「というか、その誘いもタクシーも彼氏がいると言って断ればいい話でしょう」
「断ってるよ!!……かれし、いるって言っても……あきらめてくれないんだもん…………」

じわじわと、最後には目に涙をためてうつむいた彼女の姿に、さすがの七海も言いすぎたと気づいて掴んでいた彼女の腕を離す。話を聞くかぎり、彼女自身に非はないのだ、相手がもう二度と話しかけてこなくなるくらいバッサリ非情に断ってほしいところではあるが……大方、相手の男は自分にひどく自信がある男で、彼女に相手がいたとて奪えると思い込んでいるのだろう……近いうちに、元同僚たちに手土産でも持っていきながら直接釘を刺しにでも行こうか。
ぐすぐす鼻を啜る彼女を前に、七海は少し黙ると、その細い腰に腕を回してひょいと彼女の体を持ち上げた。

「えっ!う、な……?」
「そんなに酔ってたら風呂も危ないですし、さっさと着替えて寝てください」
「へ?……し、シャワーだけでも」
「してもいいですけど、心配なので私がやります。それでもよければ」
「……」

いじわる、としぼり出すような声が七海の耳元で聞こえた。普段は比較的ハキハキと明瞭に話す彼女が、アルコールのせいかはたまた羞恥のせいか弱々しく泣きつくような声を出すのは……正直に言うと、情事の最中の彼女を思い起こさせてとても体に毒だった。
寝室のドアを開け、彼女の体を冷たいシーツに寝かせると、七海はその上に覆いかぶさった。手をついた横にある彼女の顔は少しふてくされたような表情を浮かべていて、それに気づいた七海は、触れかけた唇を静かに引く。

「嫌ならやめます」
「いや、じゃない、けど」
「けど?」
「…………五年もつき合ったら、動じないってゆったじゃん」

ふいと顔をそむけた彼女の言葉に、七海は目を丸くする。確かについさっき自分はそう口にしたし、疑っているわけではないから安心しろとも……相手の男が彼女に気があることを知る前ではあるが…………ああそうか、そういうことか。
「それは建前です」と言えば、ちらりとこちらに視線を戻した彼女は「……はあ?」と眉根を寄せた。

「五年もつき合ってる相手に、たてまえ使うなバカ」
「初めはちゃんと本音でしたよ」
「?どういう……」
「……私は自分で思っていたよりずっと、」

アナタを独り占めしたいと思っていた。
最後まで言葉にするのはさすがに気が引けて、その代わりというように七海は唇を重ねた。ちゅっちゅっと軽いキスを何度か繰り返してから深く口付けて、咥内を濡らしながら彼女の薄いブラウスの下に指を這わせる。アルコールで体温が上がっているせいか、他人の指先をいつもより冷たく感じるらしく、脇腹やあばら骨をなぞるたびに一瞬強ばるように身体が震えるのが艶かしかった。

「だいすき」

はあ、と浅い呼吸の間に透明な糸がたれる。二人分の唾液まみれになった彼女の口元を、七海が体を支えている方の手で拭ってやれば、その唇がちいさく動いた。……ああ、どうして、この人はこんなにもすっかり自分のものなんだろう。それがたまらなく愛しいと思う、手離すなんてもってのほかだ、そんな自分が……何年経っても彼女に関して心を動かさずにいるなんて、到底無理な話である。
また飽きずに唇を重ねてから、彼女と同じ言葉を口にした。ぱちぱちと瞬きした彼女は、めずらしい、と照れたように口をへの字にした後で、両手を伸ばし七海の頭を思いっきり抱きしめるのだった。

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