爪が剥がれた私の手を見たとき、七海は何も言わず、ただ眉をひとつ動かしただけだった。それだけだったのに、どうしてか、こちらに向けられた顔がひどく傷ついたように見えたことを今でも憶えている。

「家入さんの所へは?」
「これから行くところ」
「……大丈夫なんですか?」
「うん、いや、痛くて死にそう」

痛い、と口にした途端ぽろりとひとつ涙が溢れた。どうやら張り詰めていた気が緩んだらしい。七海は黙ってポケットからハンカチを取り出すと、その上にそっと私の手をのせた。流れる血でハンカチが赤黒く染まっていくことに、私が口を開くよりも早く彼の手が背中へ添えられる。「早く行きますよ」背中を支える手があたたかくて、私をうながす声が優しくて、頷いた拍子にまたぽろぽろと涙が落ちていった。



次に片目を潰したときは、なぜやめないんですか、と聞かれた。私はただ「やりたいからだよ」と答えた。やりたいというか、これ以外に自分のできることが分からないからやっているのだけれど、そこまで言う必要はないだろうと思い口にしなかった。

「そうですか」

半分になった視界の中で、七海はそれ以上何も言わなかった。ただ、すっかり爪の生え変わった私の手を取って、それを静かに握っているだけだった。



片腕を失ったときに「もうやめませんか」と言われた。それから、私と一緒に暮らしませんかとも。その提案も、七海の心も、もうずっと前から知っていた私はすんなりとそれを受け入れた。私はもうこれをやめても、彼のために生きるということができるんだ。それが今許されたんだ。そう考えたら、なんだか急に安心してしまって、ふと身体の力が抜けた私を七海は当たり前のように受けとめて、それから強く、強く、抱きしめた。



爪も、目も、腕も、何一つ失っていなかったはずの七海が足だけになって帰ってきた。私には、なぜやめないのかも、もうやめないのかも、言わせてくれる暇を与えてくれなかった。でもどうしてかな、ずっと心の中で私は彼に問いかけ続けていて、この終わりを、どこかで知っていた自分がいたような気がして嫌になった。



その夜、夢を見た。目も腕も両方揃っている私と、五体満足で立っている七海が向かい合っている。出会った頃は当たり前だった互いの姿が、今となってはひどくちぐはぐに思えて、笑ってしまった。

「急に足だけになるから、びっくりしちゃった」
「すみません。何の挨拶もなしに」
「……まあ私も、人のこと言えないんだけど」

七海に出会っていなければ、私はきっととおの昔に人知れず死んでいたに違いない。そんな他人事のようにぼんやりした確信が、それはもうずっと昔から、私の中にあったのだった。

「私は、七海が生きてれば、それでよかったのになぁ」

口にしてから、ああそうだったのかと思う。向かい合う七海は、特に驚いた様子もなく「私もそう思っていましたよ」と言った。アナタが生きていればそれで良いと、思っていましたよ。それは今まで見たことのない、何のしがらみもない笑顔で、私はそんな顔を彼が生きているうちに一度も見ることができなかったことが、悲しい、と思った。

「……私、七海がそんな顔で笑えるって知らなかった」
「当然でしょう。あんな、死んだ方がマシなくらい苦しい世界で、笑えるわけないじゃないですか」
「死んだ方がマシなんだ」
「死んだ方がマシですよ」

そんなことを平然と言ってのける七海に、私はちょっと呆れた顔をする。死んだ方がマシなんて、今の七海に言われたら救いがないにも程があるじゃないか。ただでさえあなたがいなくなった世界は救いがないというのに。アナタは頑張って生きてください、とか、生きてれば良いことありますよ、とか、ちょっとくらい背中を押してくれたっていいじゃないか。
そんな私の心を察したのか、七海は一旦口を閉じると、それからちいさく溜息を吐いた。

「何も言いませんよ、私は」
「は、薄情者……」
「私に呪われたいんですか?」
「うん」

迷う素振りもなくすんなり頷いた私を、七海は目を丸くして見つめた。何度か、ためらうように彼の口が開いたり閉じたりする。ようやく喉を震わせた声は、やけにか細くて、その表情はひどく傷ついたように見えて、ずいぶん前に、爪が剥がれた私の手を見たときの彼をふと思い出した。

「……私は、これまでアナタを十分呪ってきました」

なぜやめないのかと尋ねたときも、もうやめないかと半ば強引に提案したときも、「彼女を守るため」なんて格好のつく建前を掲げながら、自分はただ無慈悲に彼女の道を絶っただけなのではと頭のどこかで思っていた。こういう生き方しかできない人間をずいぶん見てきた。自分も例に漏れずその一人だった。それなのに、自分は自分のエゴで彼女から生き方を奪ってしまったのではないかと、いつもどこかで自分を責める声を聞いていた。

「私は、アナタを、奪われたくなかった。引き止めておきたかった。生きたまま、もうどこにも行かないよう……失わないよう……」

だから、もうアナタは自由なんですよ、と七海は言った。まるで懺悔でもするかのように俯いた彼を、私はいつかの日に私を抱きしめた彼みたいに抱きしめた。……自由って何だろう。このあたたかさを失うことだろうか。もうこの匂いで胸を満たすことができないことだろうか。あなたがいない世界でも、私が心から幸せになって、心から笑えるようになるってことだろうか。

「そんな自由、いらないよ」

朝起きたときに珈琲の匂いがするのが好きだった。おはようと笑うことも、いってらっしゃいと手を振ることも、初めのうちは気恥ずかしかったけれどそのうち愛しくなった。私は私の幸せを願うよりも、あなたの幸せを願う方が幸せだった。あなたが私から自由を奪ったというならば、私はその不自由を心底愛していたのだった。
途切れ途切れにつむいだ言葉は、最後には声にならず涙となって七海のシャツを濡らした。これは所詮夢なのだから、いくら彼の服を濡らしても構わないと思った。とはいえ生前の彼も、よく泣く私の手を引いては、涙に濡れるのも構わずに抱きしめるのが常だったことを思い出した。

七海の手が、そっと私の肩を掴んで体を離した。見上げれば、いつだって私をこの世界に引き止めてくれた瞳が、相も変わらず私を見つめている。まるで本当の本当に最後みたいに、穏やかな眼差しが悲しかった。その唇からこぼれる言葉を、受け取れば終わりだと分かっているのに、一音たりとも聞き落としたくはなくて、私は耳を塞ぐこともできずただただ涙を流していた。

「では、不自由でいてください」

これからもずっと、アナタは不自由でいてください。それが私の呪いです。
彼の手が私の肩から離れた。徐々に白んでいく世界が、この夢の終わりを告げている。「わたしのこと、わすれないでいて」もうずいぶん掠れてしまった声で囁けば、七海はきょとんとした顔をしたあと「……アナタがそれを言いますか」と呆れたように笑った。笑ったときに目尻に浮かぶ皺が好きだった。そんなことを思って、最後までそんなことを思う自分がおかしくて、重なる唇に笑みを浮かべながら、私は静かに瞼を閉じた。



夢から醒めて、部屋には私一人だった。世界はまるで始めからそうでしたよというように振る舞うけれど、私はあいかわらず半分しかない視界で見えない石に躓くし、腕がない片身の不自然な軽さによく均衡を失ってふらついた。そして彼を失って半分になった心臓は、私をよく泣かせてよく立ち止まらせた。それは音もなく静かで美しい夜明けだったり、目に焼けつくような激しい夕焼けだったり、時には日常のほんの些細な、たとえば昨晩作ったカレーが今朝とても美味しかったとか、そんなことだったりもした。
私は不自由だった。けれどそれが私を支える唯一だった。次に彼に会うことができたなら、私はもうその手を決して離すことはないだろう。彼は笑って許してくれるだろうか、それとも、子供ですかと呆れた顔をするだろうか。手を握り返してもらうかわりに私は彼が望む場所へどこへでもついていこう。それは近所のコンビニでも、彼のよく行くパン屋でも、海の向こうにある名もない浜辺でもいい。私の全てをかけて彼の自由を叶えよう。そうして私は、二人の不自由を永遠に愛すのだ。

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