「お嬢」
本格的な夏を迎える一歩手前
若干蒸し暑いような生温い風を受けながら、私は副業を終えて真っ直ぐ四木さんの絵画販売店(見せかけ)へ脚を運んだ
私はこの粟楠会という極道とは縁もゆかりも無かったのだが、趣味の絵画集めのために関わりを持つようになって以来、ここの代表である四木さん(30代前後の痩躯の♂)と仲良くさせてもらって、今では彼の秘書のような雑用係のような役割を本業としている
♂♀
「ねぇ、その"お嬢"っていうのやめてくれない?」
「どうして?」
「なんか距離を置かれてる気分」
極道のくせに礼儀正しくて優しい彼を、私が好きになるのにそう時間はかからなかった
「では、何と呼べば?」
「名前で」
「名前?」
「ん、下の名前で呼んで欲しいな」
ちょうど私の背後辺りにいる彼を振り返ることなく、目の前にズラリと並んだ絵画を眺めたまま言うも、しばらく沈黙が流れてしまった
イジメすぎたかなぁ、と不安になりながら一枚の絵に手を掛けた時、小さく息を吸う音が耳に入った
「理沙」
声に振り返ると、顔を赤くして棒立ちしたままの彼がいた
自分より年上の、大人の男のその姿に、私は思わず吹き出す
純粋な恋愛は不器用そうだなぁと思ってはいたが、まさかここまでとは、と驚愕した
でもそれは同時に、もしかしたら彼も私と同じように好いてくれているのではないかと思えた
「ふっ、はは、ありがとう」
「どうして笑うんです」
「なんか可愛いかったから」
少しムッとした表情ですぐ側の椅子に腰掛けた彼は、赤面したまま俯いて一人将棋を始めてしまった
「私の名前知らないのかと思ってた」
「そんなこと、あるわけない」
「そう?…で、何か言いたかったんじゃないの?」
窓から入り込んだ強めの風が、彼のシャツの襟を揺する
彼は、思い出したようにフッと柔らかく笑って私を見た
その優しい表情に、私は息をするのを忘れた
殺気を削がれた猛禽類
「好きだと言おうとしてたんですよ」
「なにを?」
「理沙を」