鹿狗は、診療所の戸締まりをしようと玄関のタタキに降りたが、人影が見えたので、今日は終わりだ、と戸を開けて告げようとした。
その人影は鹿丸だった。普段ならまだ仕事中の時間だ。
「…早退けか?」鹿狗が問うと、鹿丸は無言で頷いた。
仕事用のトンガった靴を脱ぎ、部屋に上がったかと思うと、着替えて出てきた。
いつもは仕事柄、黒く艶のある髪を下ろしている鹿丸が、
暗い廊下の突き当たりの、蛍光灯がついた鏡の前で、黙って髪を結わえている。
何か、神聖な儀式のようにさえ思える静けさが鹿丸を包んでいて、ただならぬ雰囲気を鹿狗は感じた。
「…行くのかよ」とだけ息子に声をかける。
「…ああ。行ってくる。」
鹿丸が玄関で靴をはいていると、背後から、そら、持ってけ、と何かを渡された。
「…たしになるか分からねえが、持ってりゃ役に立つはずだ。」
「…親父…俺は…」鹿丸が何か言おうとすると、鹿狗は息子の肩を掴んで言った。
「…お前が誰の為に動こうと、俺は構わねえよ。
お前は、お前の信じる道を行けばいい。」
鹿丸は鹿狗を真っ直ぐ見た。
お互いの口許が、少しほころぶ。
察しのいい親には敵わねえ、と言いたげな顔を見て、鹿狗は思った。
(…こいつ、いつの間にか男になりやがった。)
鹿丸は診療所をあとにした。
[*prev] [next#]
[page select]100
top