それは元親が初めて郡山城に入り、元就の奥を目にしたときであった。
奥は逃げるでも命乞いするでもなく、城で静かに元親を受け入れた。
元就の奥にしては可憐な、だが元就を思わせる凛とした態度で佇み、その眼は真っ直ぐに元親を見据えていたのを覚えている。

「貴方様が、長曾我部様ですか?」

「おうよ。お前さんは毛利の奥だな」

「はい、名前と申します」

そう言って、名前は深々と頭を下げた。
無駄のなく丁寧な態度に、教養の深さを感じられる。このような場で冷静でいられるのだから、度胸もあるのだろう。

「…毛利のことは聞いたか」

「はい」

どうやら、自分の夫の顛末を知っているようだった。
武田の若虎に敗れた元就は、消息不明らしい。
念のために元親も部下に捜索させたが、幾日経っても結果は変わらなかった。

「なら話は早い。お前はもう自由だ。里に帰るでも、仏門に入るでも好きにしな」

「…はい」

元親がそう言うと、名前は顔を曇らせ、目を伏せた。
武家の女として覚悟していたことであろうが、敗将の妻とはそのようなものである。
元親の場合、他に比べ優しい処分なくらいだった。

「――あの」

名前が声を発し、元親の方をゆっくりと見上げた。
先程より力を失った目で、躊躇うように言う。

「ここに居ても、よろしいでしょうか」

「構わねえけどよ…どういうつもりだ?」

「元就様を、待っていたいのです」

名前からの申し出に、元親は驚きを隠せなかった。
海を挟んで覇権を争っていた間柄、毛利家の事情はだいたい把握している。

名前は吉川家と毛利家の同盟のために嫁いできた政略結婚だった。
人を駒としか思わぬ元就は、周囲の予想通り名前と形だけの婚儀を行い、夫婦らしい生活は全く送っていなかったと聞く。

てっきり毛利家を離れる口実ができ、喜んでいるものだと思っていた。
それが何故元就を待つと言うのか、元親には全く理解できなかった。

「皆さん、勘違いなさっているのです。私と元就様は夫婦であって夫婦でありませんでしたが、私は元就様を恨んだことなんてありませんよ」

「…毛利に、妻として扱われていなかったのにか?」

直球でぶつけると、名前はそれに少し怯んだ。
自覚はあったらしい。

「それに毛利が帰ってきたって、あいつは今回のことで改心するようなガラじゃねえぜ。また仮面夫婦を続けるのか?」

「それでも構いません。元就様には安芸を守るという大きな使命があります。そのために感情も私情も殺しておいでなのです。…それを理解し支えずして、何が妻ですか」

最後の一言に、名前の並々ならぬ決意を感じられた。
要するに夫が考え成すべきことのためには、自分は不幸せでいいという考えである。

箱入り娘でほやほやしていても、一国の主の妻たる覚悟をしっかり理解しており、その姿勢に元親はもはや感服であった。
この女には敵わない、と元親はガリガリと頭を掻く。

「…俺の負けだ。ここは好きに使え」

「ありがとうございます」

「けどな――毛利の死体が出てきたら、考え直せよ」

再び深々と名前が頭を下げる名前に、元親は声のトーンを下げて言った。
こんな遣り取りをしたところで、当人が死んでいたら意味がない。
元親自身も信じたくないが、現に元就は消息不明なのである。

しかし顔を上げた名前は、またも元親の予想に反した顔つきをしていた。

「元就様は生きていらっしゃいます。だって、そんな気がするんですもの」

そう言い切った名前に、元親は今度こそ何も言うことができなかった。




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