すきってこと?

誰もいない放課後の教室は、なんだか少しこわい。
ふとそんな事を考えたら、こわさはどんどん増幅して、忘れ物を掴むと(明日の試験で使う教科書であった)、廊下を飛びだした。
廊下には案の定誰も居ない。窓から差し込む夕日が白い床を照らしている。燃えているみたいだ、と窓の外を見て目を細めた。
音楽室からは、吹奏楽の練習する音が聞こえてくる。私はその音楽に心底ほっとして、それでもこういう日に限り生徒や先生とすれ違わない事が怖かった。いつも勉強して友人と笑っている、学校なのに。時間が変わると、こうも異空間になってしまうのだろうか、不思議だった。
階段を何段か飛ばして降りると、足を踏み外した。それで、私はそのまま地面に激突していく。
痛い、と思ったのは地面に頭をぶつけてから感じた事であった。私が落ちただけで、辺りはシンと静まり返っているのが余計にみじめだし、薄暗く感じる。
ゆっくり起き上がる私に、
「大丈夫?」
と声がかかった。思わずぎょっとしてきょろきょろと辺りを見渡すと、いましがた私が降りてきた階段の―つまり上の階から―踊り場に、人が立っていた。
あ、と声を上げるよりはやく、その人物は怪我してない? と言いながらあっという間に私の目の前までやって来る。
精市くん、と私が声の主幸村精市くん―同じクラスメイトにして、幼馴染である―の名前を呼ぶと、彼はわけもなく、ウンと頷いた。その様子に、少しほっとする。それから私は、彼を名前で呼んでしまった事に頬を染めるしかない。ふと、精市くんは唇を開く。

「君はいま帰りなの?」
「あ、うん、忘れ物、取りに来た帰り」
と、教科書を見せると、ああなるほどね、と精市くんは頷いた。

「さっき凄い勢いで落ちたけど」

精市くんは私の足を見ながら語るので、私も自分の足を見て、ぎゃっと変な声を上げてしまう。
膝小僧のあたりには、ちょっとだいぶグロテスクに、血が出ていた。階段の角にぶつけてしまったのだろうか。

「保健室へ行こう」

精市くんは私の腕をつかむと有無を言わさずにつかつかと歩いて行くので、慌てて後を追う。
その背中の大きさに、少し驚きを感じた。
思えば、こうして精市くんに触れてもらうことも、長い事なかった気がする。
それは思春期を迎える辺りから互いにギクシャク、ううん私が一方的にギクシャクしていただけかもしれない。
まともに、精市くんの顔を見れなくなったし名前だって気軽に呼ぶ事が出来なくなって、居た。教室では幸村くんと、呼ぶのがつねだった。だから、さっきは驚いていたとはいえ、名前で呼んでしまった事が恥ずかしかった。それでも、自然と精市くんと呼べた事に自分で驚いている。

私と精市くんは無言で保健室までの短いのだか長いのだかわからない道のりを歩いた。
失礼します、と精市くんのぴしっとした声とともに保健室に入ったけれど、先生は席を外しているようである。

「勝手に使わせてもらおうか。座ってて」

辺りを見渡した精市くんは私を椅子に座るよう促すと、さっさと薬品棚の方へ行った。
そんな精市くんを眺めながら椅子に座る。壁のポスターは、古めかしいイラストで手洗いうがいについて描かれていた。虫歯のポスターを小学生の時に描いた事を、なぜだか思い出した。
そうこうしているうちに消毒液と、絆創膏などを持った精市くんが私の方へやって来る。

「靴下脱げる?」
「え、うん。……ま、待って、消毒くらい自分で出来るよ」

いいよ、やってあげるよ。と精市くんは笑った。部活でね怪我の手当は慣れてるんだ、と伏し目になる。
でも、と渋る私に精市くんは、俺がやってあげたいんだ、と私の目を見て呟く。そのしぐさに、なんとも言えない感情を抱いた。しぶしぶ靴下を脱ぐ私に、何かを思い出したような声を出した精市くんはちょっと傷口洗った方がいいよ、と言うので保健室の外にある水道場で足を洗った。


「君は、さっき俺の事を名前で呼んでくれたけど」

椅子に座る私の足元にしゃがむ精市くんが、消毒液を傷口に当ててくれながら語る。

「いつも名前で呼んでくれて、構わないのに」
「……そ、そうだっけ? いつも名前じゃなかった?」

上擦る私に精市くんは小さく笑った。絆創膏を綺麗に貼り終わった彼は、唇を開く。

「俺の事嫌いになった?」

精市くんとは幼稚園も小学校も同じで、小さい頃は一緒に遊んだし、テニスの試合に出る精市くんを応援しにも行った。
中学に上がって、なんとなく今までのような振る舞いをするのは気恥ずかしくなっていた。それから、私が精市くんを幸村くんと呼ぶようになった。
嫌いになったとか、そういうわけではなかった。小学生の頃のように、気軽に接する事が出来ればどんなに良いだろうと思っていた。

「違う、嫌いになんて」
「じゃあ、どうして」

顔を上げた精市くんのまなざしが揺れる。綺麗な瞳だった。その瞳が、揺れている。
思わず、ごくんと唾を飲み込んだ。精市くんにこんな表情をさせてしまっている。その事実に、どうしようもない、自分に対しての苛立ちとそれ以上に体を這いまわるのは、不思議な気持ちだった。自分ではわからない。気付いてはいけないような気がする。

「恥ずかしくて」

自分の声は、自分のものではないみたいだった。弱々しくて、精市くんに届いているか不確かである。
恥ずかしい事なんて、なんにもないよ。
精市くんは微笑すると、私の足首を軽く掴んだ。えっと素っ頓狂な声を上げる私の事など放っておかれたままである。
頭を少し下げた精市くんは、私のつま先に、顔を寄せる。
一瞬の出来事だった。
精市くんのくちびるが、私のつま先に触れた。

「恥ずかしい事なんて、何もない。そうだろう」

すっかり元通りに足を降ろされた私は、まっすぐとしたまなざしで私を見つめる精市くんの言葉に静かにうなずく。
にっこりと笑った精市くんが、美しい。

「綺麗になったね、精市くん」

思わず口に出していた私に、彼は不思議な顔をする。

「君のほうが、綺麗になったよ」

自然な言葉に、私の頬は真っ赤に染まって、そのすがたを見た精市くんは楽しそうに笑った。

20140824
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -