眠れるまで好きを数えてあげる

 愛してるって、言えよ。突然家にやってきたと思えば、彼はそう呟いて私を抱きしめたのである。酷く不安になり、思わず抱きしめ返した。何も言わない私にしびれを切らしたのか、それとも、深い意味はなかったのか、

「なまえは俺が俺でないとしたら、どうする」

と、私を抱きしめたまま弖虎はため息をつく。私を抱きしめている、弖虎の腕の力が強くなる。どこか不安げな動作に、私まで震えそうになった。しかし、彼の不安がどこからくるものかがわからない。何に怯えているのだろうか。

「よくわからないけど、弖虎は弖虎でしょ」

違うの?と背中を優しく撫でると、弖虎は嬉しそうに、「だよな、ハハ」と笑った。
ほっとしている、安心しているような声だった。弖虎は急に身体を離すと、「上がっていいか?」と訊ねてくる。そういえば、私たちは玄関で立ちっぱなしなのだった。

「弖虎」

靴を脱いだ後、洗面所へ律儀に向かい、手を洗う彼の背中越しから声を掛ける。弖虎と私が、鏡に映った。鏡越しに弖虎と目が合う。んだよ、と弖虎は問いかける。鏡越しに映る弖虎の顔は、少し疲れているように見えた。なんだかとても、物悲しい。

「愛してるよ」

弖虎はそれを聞くと、ハァ〜と長い溜息を吐き、大量の水を出して手を洗い出した。それからうがいを始める。水を吐きだす弖虎を眺めながら、彼の言葉を待つ。弖虎は濡れた口を手で拭うので、タオルを渡したけれど、断られてしまった。それから私に向きなおった弖虎はずかずかとリビングへ向かう。まるで弖虎の家であるかのようだ。慌てて後をついていく。弖虎はソファにどかっと腰を掛け、立ちっぱなしの私を見つめる。私が動かない事に苛立ったのか、弖虎は前髪をがしがしと掻くと、ソファの隣を叩いた。座れ、と目で語っているので、弖虎の隣に腰掛ける。
こうして弖虎がこのソファに座るのも、ずいぶん久しぶりの事だ。以前家に来たのは、いつの事だったろう、と考えていると、弖虎が口を開く。

「なまえは、なまえだよな」
「…うん?」

弖虎の眼はひどく真面目で、澄んでいた。言葉の真意を探していると、弖虎はニッと笑う。真面目な顔はもうない。急に弖虎は身体を私に近付けると、軽く触れるだけのキスをした。少し顔を離した弖虎の眼は、綺麗で、全てを見透かされているような気がしたが、私のすべては弖虎に渡してあるようなもので、何も隠している事はないし、別段不安がる事はない。にもかかわらず、その美しさが怖いと思った。それでも、いい目をしているな、と羨ましさを感じる。

「今日の弖虎は変だね」
「ンだよ」

変、と言うのは失礼だったかもしれない。ごめん、と謝るとなまえこそオカシイ、と言われてしまう。たしかにそうだ。うかれているのかもしれない、久しぶりに、弖虎に会えたから、触れる事が、出来たから。あのさァ、と弖虎は私を見つめたまま言う。

「俺だって愛してるよ」

そう言って笑う彼は、年相応の少年だった。そのことに、幾何の安心を得る。人並の幸せを得る権利は、誰にだってあるのよ、と誰かが言っていた言葉がふと頭を過ぎった。なぜだろう。
嬉しくて、さらさらの黒髪を撫でると、目を細めて、弖虎はまた私に触れてくるのだった。もう一度、言って。言葉が自分でも驚くほどするすると流れた。弖虎はいっしゅん驚いたような顔をしたが、やはり笑って私の髪の毛をかきあげ、ぐっと顔を耳元に近づける。唇を耳元に寄せながら、弖虎は言うのだ。優しい声で、私が安心する言葉を。

おー!と歓声を上げた弖虎は、波際まで駆け出した。
「弖虎、靴!靴!」
靴を履いたまま海の中に入りそうだったので、思わず呼び止めると、弖虎は振り返りもせず、靴を脱ぎ、また駆けた。彼にしては珍しくズボンは膝上までのものを穿いていたので、弖虎はそのまま海に入る。すっげー!と大きく、嬉しそうな声が響く。海岸には弖虎と私と、あと遠くのほうに犬の散歩をする老人しかいない。あのおじいさんの元まで、弖虎の声が届いているかもしれなかった。
珍しく、長いこと私の家に居た彼だったが、急に「海へ行こ〜ぜッ」とにこにこして言うものだから、はるばる海まで来たのだった。
視線を弖虎に戻すと、足を滑らせたのかバシャンと大きな音がし、ギョッとする。
「大丈夫!?」慌てて波際まで駆け寄るが、足に波が当たりそうになり、そこから先へ進めない。踏ん切りがつかず、ううろうろとしていると、海から弖虎は顔を出した。
「ははは、すっげェ…しょっぱい」
弖虎は張り付く髪の毛をかき上げ、嬉しそうに笑う。その姿を見ていたら、自然と笑みがこぼれた。年相応の笑い方が出来るのだ、彼だって。そうさせてくれなかったのは、大人たちだ。
「なまえ!」
と弖虎が手を伸ばすので、深く考えずに握り返すとそのまま引っ張られてしまう。ギャッ!と可愛らしくない叫び声を上げながら、弖虎の腕の中に収まる。その際、足を海の中に入れてしまったので、靴は濡れてしまった。あー、と残念な声をもらす私をよそに弖虎はケラケラと笑っている。
「弖虎、海くさいよ」
「ハハ困ったな…着替え持ってきてね〜んだけど」
とさして困ったように言わない。弖虎に抱きしめられている部分が湿っていくのがわかり、着替えはないけれどタオルでどうにかなるだろうか。
その時ふいに弖虎が私の首元に顔を寄せた。なまえ、と呼ばれ、うん、と相槌を打つ。
「会えてよかった」
まるで今にも死んでしまいそうなことを、言う。潮くさいまま、私たちは別れの挨拶をしていると思うと、ひどく面白い。
「帰ってくるよね」
「さァ…帰してくれっかな…」
弖虎は強く私を抱きしめてくる。子供のようだと、背中に手を回した。彼は子供なのに、周りが子供らしく扱わない、かわいそうだと思う。そもそも周りの大人たちは彼を人として扱っていないのだ。人間なのに、スペアとして、貴重な素材として、彼の一部を取り込んでいるから、だから彼として見ていない。それは怖いことだった。自分が自分であるのに、誰かの代わりとしてしか見ていないのである。
「弖虎が帰ってきたら、一緒に泳ぎたいな」
「いいな、それ。昔さぁ、飛行機が墜落してよ…海の中に落ちたからさ…岸まで泳いだんだぜ」
「そこまで泳げないよ私」
俺も、あんなに必死で泳ぎたくね〜よッ、と弖虎は笑った。


「なまえの水着かぁ、カワイイんだろうな」
弖虎がそう呟くので、痩せなくちゃ、と先を見据えた。可愛い水着が似合うような、綺麗な体にならなくてはいけない。
せめていまだけは、楽しいこと未来あることを考えていたかった。ん、と弖虎が一人頷き、私から体を離して、私の手を掴む。そのまま浅瀬からザブザブと出ていく。裸足の弖虎は砂が足につく感覚が面白いのか、笑っている。私は私で、びしょぬれのサンダルを思いながら彼に引かれるまま歩く。
「やべー、海のニオイだ」
靴をはきおわった弖虎はそう言って笑った。はやく彼がふつうの少年として、生活出来るように、世界が、労ってくれればいいのに。
ふと今しがた入っていた海を振り返る。どこまでも広がる海は、静かに波を打っていた。波の音が私たち二人だけの空間に広がる。

このままどこかへ連れていってくれればいいのに。それが出来ないことは、よく知っている。だからこそ、空想してしまうのだ。
どこかへ、一緒に行けたら幸せだろうと。





20130324〜0331
タイトル「彗星03号は落下した」さま
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