こわくないよ

 和男くん!と呼び止められ、和男が振り返ると声の主はやはり女だった。女は、気さくな笑みを浮かべているので桑原も笑ってみせたが頭の中では必死に記憶を探していた。様々な女と肉体関係を持つ桑原は、いちいち女の顔を覚えていない。それで、平素ならば適当に話してその場をやりすごすのだが今日の彼は必死で目の前の女を思い出そうとつとめている。なぜ必死かといえば、今日はまだ一度もセックスをしていないので、どうにかして目の前の女を誘いホテルへ行くためであった。セックス依存症の彼にとって、心のよりどころは性行為である。
名前がわからない。顔も見覚えがない。しかし女は自分を知っている。塾講師という仕事の帰りだった桑原は、少し疲れていた。仕事は苦ではないが、はやくベッドに横になりたかった。出来ればセックスして寝たかった。そういうわけで、手っ取り早く、目の前の女の手を掴む。女は驚くが振り払おうとしない。桑原は自分の容姿が長けている事を知っているので女に困ることはなかった。この女も例外ではなく、頬を紅潮させている。女はかわええな、あほうで。と桑原は思う。貶しているわけではない。ただ体の付き合いを自由に出来る女は素晴らしいと考える。
ホテル行こか、と真面目に言えば女は潤んだ瞳で桑原を見つめ、困ったように笑う。ほらなチョロい、と桑原は心の中で思った。だから星人とのセックスは無理矢理出来て最高なのかもしれない、とぼんやり思う。ともかく、この女のことは抱いていれば思い出すかもしれないと気軽に思っていた。例えばからだのさわり心地などから、わかるかもしれない。しかし女が手に力をこめたので、ゆっくり見つめると、
「和男くん、私のこと忘れてる?」
背中に冷水を掛けられたようにひやっとする。女は相変わらず困ったように笑っているが、少し寂しそうにも見えた。その表情があまりにも悲しそうだったので、桑原は素直に頷く。すまんなと謝ると、女は和男くんらしいと笑う。俺らしいとはどういうことや、と桑原は苦笑する。
「なまえ。名字なまえだよ」
桑原は一瞬考え、アッと声を上げる。なまえちゃん!?嘘やろ、と目の前の女なまえを見て驚く。なまえは小学生の頃の同級生だ。そもそも大阪の人ではなく、東京から親の仕事の都合でやって来たものの、中学に上がる前、東京へ帰っていった。そのなまえがなぜ大阪に居るのだろう。
彼の疑問をすばやく汲み取ったのか、
「今は私の仕事の都合でこっちに来てるんだ」
「へえ」
「和男くんは、変わらないね。すぐわかったよ」
桑原はなまえのすがたかたちをよく見る。言われてみれば、小学生の頃の面影を見る事が出来た。化粧をすると女はここまで変わるのか、と感心する。
「なまえちゃんは綺麗になったなぁ」
なまえは嬉しそうに目を細めて、ありがとうと微笑む。女の笑い方をするなまえを見て、空白の時間を知らないことが悔しいと、桑原は思う。昔、好きだったと本人に伝えたらどんな反応をするだろうと考え、桑原は先程の発言を忘れてほしかった。
「それで和男くん、どうする?」
「なにがや」
「…行く?ホテル」
桑原は目の前がチカチカした。俺も俺だがなまえもなまえだ。それなりに時間を共にしたとは言え、小学校だけの付き合いである。今日に至るまでの空白を埋めるすべを桑原は知らなかったし、好きだった女の子を簡単に抱けるとは思えなかった。思い出が強すぎたのである。
「アホか!」
桑原は叫ぶ。あまりにこの女は警戒心を知らない。ホテルへ行こうと簡単に言って、いいよと言う女になっていたとは!桑原は説教したかった。自分の事を棚に上げて。
「ナシやナシ」
桑原が手を振り払おうとするが、ガッシリとなまえが掴んで離さない。なまえの目はギラギラとしていた。怒っているのかもしれない。

「私とじゃセックス出来ないの」
「うわなまえちゃんの口から卑猥な言葉聞きとーない!言うな」

根本はそれだった。可愛らしい思い出を大切にしたいだけなのだろう。昔の思い出を生々しいものにしたくなかった。なまえは口をあんぐり開け、信じられないと呟く。しかし桑原も葛藤していた。とにかく誰でもいいからセックスをしたい。しかし綺麗な思い出のあるなまえとは出来なかった。

「だ、だいたい俺とすんの嫌やないのか」
頭をかきむしりたくなる衝動を抑えながら、訊ねれば、
「和男くんのこと好きだったから」
そんな事を言われて、抱きたくない人がどこにいる。好きならセックスしたって構わないだろと声を大にしたかったが、だからこそしてはいけないと考えた。痺れを切らしたのかなまえはご飯でも食べに行こう、と駅へ向かって歩き出すので足取り重くついていく。セックスしたい。出来ない。あーはやく帰りたいもう寝る方がええんちゃう、と桑原は顔を押さえながら考えた。だいたい手を繋ぐという恋人らしいことを桑原は長いことしていなかったので、変に緊張する。セックスする女はいつもセックスだけで、デートだとかそういったむず痒い事は大学を出てから暫くしていなかったと苦笑した。

「和男くんモテるでしょ」
「まあそれなりにやなぁ」
隣を歩くなまえの姿が眩しかった。揺れる髪の毛、胸のライン、スカートから伸びる足などを見ているとどきどきしてしまう。慌てて目を逸らした。
お寿司食べたいなとまぶしい笑顔を向けるなまえを見つめながら桑原は思う。ながい空白の時間を少しでも埋める事が出来るだろうか。もし、もし埋まるのなら、新しい関係を築いてもいいのでは、ないだろうか。桑原の口は勝手に、俺も寿司がええなあ、と呟いている。

20130716

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