俺は鏡に向かい、硝子の向こうに立つ男に問いかける。
「お前は誰だ」      「お前は誰だ」 「お前は誰だ」
「お前は誰だ」 「お前は誰だ」   「お前は誰だ」
「お前は誰だ」     「お前は誰だ」    「お前
「僕は『日生光』――日生家の跡取りの『日生光』だ」
 それは魔法の呪文だ。鏡の中の男は本物以上の彼らしさで微笑む。
 罪を犯すことを畏れるくらいなら、今俺はこうして生きていなかっただろう。言い訳をするつもりはない。ずっと、俺は自分でそれを選んで生きてきたのだ。
 俺の最初の記憶は、朝市の風景だ。ひどく空腹で、周りも碌に見えちゃいなかった。ただひたすら目の前にあるパンや、焼いた肉や、もうもうと湯気を立てる鍋をじっと見つめていた。腹が減っていた。
 あれを食べたい、そう思った時、屋台のすぐ裏に影が見えた。出し抜かれまいと、俺は指をさして叫んだ。
「泥棒がやってきたぞ!」
 わっと騒ぎになった。果物屋の親父が恐ろしい形相で後ろを向いた瞬間、後ろから誰かが囁いた。
 今だ、と。
 俺は目の前にあった林檎を掴んだ。そしてそのまま走って逃げた。それが俺の覚えている最初の嘘、最初の盗み、最初の――……。


「――――っ!」
 鮮明な夢から逃げるように目覚めた。すばやく周囲を確認するのは、しばらく必要の無かった俺の癖だった。
「光さん?」
 横でまどろんでいた彼女が、半身をベッドから起こして手を伸ばす。サテン地のシーツは素肌に心地よかった。頬を撫でるてのひらを掴んで、くちびるを押し付ける。
「ごめん。寝てた?」
「ええ。ぐっすりと。お疲れだったのですね」
「…………紗夜に生気を根こそぎ吸い取られたからね」
 茶化して言うと、彼女は頬を赤らめて拗ねて見せた。
「申し訳ありません。ですが、私が淫乱みたいな言い方をされるのは心外です。私は駄目だと言ったのに、光さんがあんなことをしたのでしょう」
「それは君が魅力的だから」
「もう」
 俺を軽く押し退ける振りをした後、彼女は俺に向かって目を閉じた。可愛いおねだりに、俺は喜んで彼女にキスをする。彼女は快楽に貪欲だ。飽くことなく毎日のように行為をねだる。
「光さんがこうしたんですよ?」
「では、責任を取って一生可愛がりましょう?」
 彼女はもう俺なしでは生きていけないだろう。わかっていて溺れさせた俺は残酷で利己的だ。俺はいつか彼女を手放す。それも、ごく近いうちに。
「光さん」
 彼女がキスをねだる。俺は黙ってそれに応じる。
 と、そのときだ。携帯端末に着信を知らせる電子音が鳴った。
「ちょっとごめん」
 俺は彼女に断って、体を起こしてベッドを降りる。すばやく操作し、送られてきたメールの内容にほくそ笑んだ。
 それは俺が密かに動かしていた日生家の資産が、無事売却された知らせだった。転がり込んできた巨額の金は所定の口座へ移され、その後あちこちを経由して綺麗になってから俺の手元に戻る。今や日生家の財産は、この家と土地以外は殆ど他人の手に渡っている。俺は金だけでいい。不動産も美術品も、世界中には持っていけない。
「何か良い知らせですか?」
「ああ」
 俺は携帯端末を閉じた。彼女を振り返って微笑む。
 これも持っていけない宝だ。いずれまた、人の手に渡る。
 諦めの良さも嘘吐きには必要な資質だ。


 本物の日生光が本格的に動こうとしている。その事を知った俺は、いつでも雲隠れする用意を完了させていた。偽物のパスポートと観光ビザ、当面の資金、道具のあれこれ。日生家には置いておけないそれらの隠し場所は、あの止まった時計塔だった。
 木は森の中へ。嘘はより大きな偽りの中へ。
 内部へ入った時に調べたのだが、あの時計塔は壊れてなどいなかった。発条も、歯車も、何もかも正常だ。なのに止まっている。
 だから人々はそれを壊れたのだと判断した。しかし止まったとて時計塔は鳴鐘町の象徴であり、破壊することはできない。それに加えて不可解な事故や噂が人をうまく遠ざけた結果、ここは俺にとって格好の隠れ家になったのだった。
 彼女を家に送り届けたその帰り、俺は夕闇に紛れて金色の鍵を携えて塔に忍び寄った。壁の中に模様に似せて巧妙に隠された扉を開き中に入ろうとした、その時だった。
「そこで何してるんだよ」
 はっとして振り向いた瞬間、男は言った。
「お前は誰だ」
 金色がかった赤い髪。整った目鼻立ち。負けん気の強そうな眉と口。襟首を掴まれ、とっさに掴み返した。
 ウロボロスの蛇のように、どちらが最初か分からなくなる。
「『日生光』」
 声を発したのは俺だった。
「僕は『日生光』だ」
「『日生光』は僕だ!」
 叫んだ本物を、俺は一瞬で塔の中に引きずり込んだ。扉を閉める。一瞬で暗くなった視界に、本物が一瞬こちらの姿を見失った。好機を逃さず、当て身を喰らわせる。意外と丈夫だったようで、彼は一度では倒れなかった。
「お前……っ!」
 よろめきながら立ち上がろうとした顎を蹴り上げる。彼は仰け反って硬い石の床に倒れた。
「やれやれ。いくら同じ顔だといっても、君とはくぐった修羅場の数が違うんだよ」
 嘲りながら吐き捨て、俺は転がった本物の腹を爪先で軽く蹴飛ばした。
 首もとからタイを外し、とりあえずそれで彼を縛る。ここを嗅ぎつけられたのは想定外だった。こうなったらからには急いで脱出しなければならない。
 縛り上げた本物の日生光を奥に隠そうと、その肩に手を掛けた。
 その瞬間だった。
「!」
 何か、影のようなものが目の端を捕らえた。俺は素早く振り返る。だが、何もない。溜息をついて、本物に向き直ったそのとき、後ろから誰かが囁いた。

 殺してしまおう。

 本物の日生光が死んでしまえば、もう脅かされることはない。二年かけて築き上げてきたすべては、飛び出した本物ではなく俺の功績だ。あの甘ったれた坊やになにが出来た? 同じ容姿、同じ声、だが能力は俺の方がずっと上だ。あの坊やが手に入れた物をどうして俺が手に入れられない理由がある?
 確かに、殺人のリスクは高い。一度でも疑われれば、大きなリスクを抱え続けることになる。だが俺は嘘吐きで、他人から多くの物を盗んできた。間接的に命すら奪った。今更手を汚すことに何の躊躇いがある。
 何の、
 迷いが。
「…………紗夜」
 俺は静かに立ち上がった。
 壁伝いに巡らされた螺旋階段を登る。
 登るほどに闇は深くなり、時が過ぎるまま気温も下がっていく。
 冷たい闇の中を俺は進んだ。登っているのか降りているのかよくわからないまま、靴音が響く。
 彼女を失わないために手を汚すことを望むのか。
 彼女を愛するからこそ手を汚すことを厭うのか。
 違う。
 俺が生きるために、幸せを手に入れる為に嘘を吐くのだ。
 嘘を吐き続ける為に、嘘を真実にしてしまえば良いのだ。
 やがて闇に目が慣れた頃、階段が途切れた。制御室、俺の秘密の隠し場所だ。俺は扉に近づき、奥に隠した古い鞄を掴んだ。中には逃走用の道具が入っている。丈夫なザイルと折り畳みのナイフ。その二つを掴もうとして、俺は振り返った。
 その正面には死神が立っていた。
「!」
 俺は息を飲んだ。
 死神の影は白かった。
「……蒼」
 随分久しぶりに呼んだせいか、声が掠れた。
 それは本当に、蒼だった。記憶を失くした、金の髪と蒼い眸の外国人の青年。幻想的な衣装に身を包み、闇の中に佇む彼の姿は、もはやあの古書店で店番をしていた青年のものではなかった。
「何故、君がここに?」
「私は、死神だ」
 相変わらずのわけのわからなさだ。皮肉のひとつでも言いたくなって、俺は口を歪める。
「君が死神というなら、ちょうど良い命がひとつここにある。あそこに倒れている『日生光』――本物の日生光の命を奪うと良い」
 彼は黙って一歩を詰めた。足音はしなかった。
「お前には借りができた」
「借り?」
「そうだ。お前が遠野紗夜の心を奪ったから、私はこうして死神になることができた」
「そりゃあ良かった。じゃあ」
「だが、私が命を奪うのは日生光ではない」
 死神は青白い指先を持ち上げ、俺の後ろを指さした。
「遠野紗夜だ」
 カチン、と何かが噛み合う音がした。ざっと塔の底から、風が舞い上がってくる。
 ――ディン……ドン……。
 ――……ディン、ドン、ディン……。
 俺はゆっくりと上を見上げた。びりびりと大気の震えが、塔の石壁に反響する。
 ――ディンドン、ディン、ドン、ディン……ドン……ディン……。
 十年の間、鳴らなかった鐘の音は恐ろしいほど澄んでいた。
 まるで一瞬にして時を飛び越えて来たかのようだ。
 手を下ろし、死神は白い頭巾で顔を隠した。
「この時計塔は、遠野紗夜の為に止まっていたものだ。かつて死神を縛った言葉は力を失い、幻想は解けた。遠野紗夜は、あと数日の内に死ぬだろう」
「蒼!」
 俺は叫んだ。幾重にも反響する。
 高く、
                     低く、
   まるで
        別の誰かの
                 ような
                         声が


  『私は世界で最も美しい言葉を探しているのです』


 気がつくと、蒼の姿は消えていた。
 幻だったのだろうか。半信半疑で踏み出した靴の先に、硬い何かが当たった。俺は屈み込み、それを拾った。
 薄く、大きく、硬い。それは一冊の絵本だった。タイトルを読むには、ここは暗すぎた。俺は絵本を抱え、螺旋階段を下りた。深く深く、闇は地の底へ続くかに思われた。だがそんなはずはなく、床に辿り着いた俺は、手探りで倒れたままの男の腕を掴んだ。
 男を塔から引きずり出すと、俺は扉に鍵をかけた。本物の日生光は、きっともうすぐ気がつくだろう。俺は鍵をポケットに仕舞い、歩き出した。
 住宅街の坂を上り、いくつかの角を曲がる。何度も送ったその道を、外灯の明かりが導いた。メゾネットの塀を越え、壁を伝い昇り、俺は美しい姫の眠る窓辺にたどり着いた。
 中をそっと窺う。眠っているものと思っていたのに、彼女はまだ熾きていた。しどけない寝間着姿で、ぼんやりと虚空を見つめている。俺は窓ガラスを軽くノックした。すると、ぱっと振り向いた彼女が驚いて立ち上がる。
「光さん!」
 音を立てずに窓を開けると、紗のカーテンが甘い薔薇の芳香にふわりと膨らんだ。
「一体どうし――……」
 彼女が話しかけるのもかまわず、俺は紗夜を押し倒した。彼女は混乱していた。恋人とはいえ、こんな夜中に押し込まれたらそれはそうだろう。何も言わず、ただこちらを案ずるばかりの彼女の眸を見て、俺はゆっくりとその髪を撫でた。世界にたったひとつの宝を愛でるように、花を慈しむように。
 彼女はいつものように笑い、他愛ない話をした。
「……光さんは今日は何をしていたのですか?」
「僕? 僕はね……」
 彼女に何を言えるだろう。あの幻想と呼ぶには残酷すぎる時間を。
「まあ、君が知る必要もない他愛もないことだよ」
 嘘とも呼べない誤魔化しをして、俺は彼女の首筋に鼻面を埋めた。
甘い香り、蠱惑的な彼女自身の匂いがした。ずっと嗅いでいたいような安心する匂い。獣のような激しい情動に任せて、俺はその白い首筋に次々と痕をつけた。鼻にかかった甘い鳴き声を上げて、彼女は体をくねらせる。戸惑いながら、でも歓んでいるのがよくわかる可愛らしい喘ぎをもっと聞きたくて、反応を引き出したくて、俺は襟ぐりから強引に手を入れた。素肌が指に触れる。馴染んだ感触が心をざわめかせる。
「……ねえ、紗夜」
 血の透ける肌を、舌で感じる。どくんどくんと脈打っている。
 とてもあたたかい。やわらかい。昨日までと何も変わりはしない。
「このまま…………」
 言いかけて、俺は止めた。
 このままどうしようというのだろう。このまま抱いて、抱き潰して。滅茶苦茶に突き上げて、ドロドロにして、俺のものだと印せばいいのか。ぬくもりを感じて、呼吸を確かめて、彼女が死ぬはずないと唱えつづければいいのか。
 嘘を。
 俺は顔を上げた。闇の向こうに問いかける。お前は誰だ。お前は誰だ。俺は――『日生光』だ。
「この前、話していた高い塔にいるお姫様の話だけどさ」
「え?」
 急に態度を変えた俺に、彼女は戸惑った。俺は構わず続けた。
「もしも、塔にやってきたのが王子様じゃなかったらどうだったのかなぁって」
「……というと?」
 塔にやってきたのは、王子様に化けた盗賊で、お姫様を攫った先には豊かな国も大きなお城も食べさせてやるパンさえなくて、攫われたお姫様は裏切られたと泣くだろう。泣いてその身の果てるなら、彼女を塔から連れ出して、一体どこに幸せなどあるだろう。
 だが、それを告げてどうする?
「いや、やっぱりいいや。気にしないで」
 俺は首を横に振った。やはり、今更どうかしている。だが中途半端な態度に、彼女は困惑しながらもなにか気づいたようだった。
「そう言われると気になります」
「…………そうだな」
 深い眸の色が俺を見つめる。彼女が絡めて来るままに、繋いだ指を強く握った。彼女の意志を感じる行為、その全てが切ない。
「僕としては、このまま逃げるのはあんまり好きじゃないんだよね」
 それはほとんど独白だった。
「欲しい物は全て手に入れた。金も地位も恋人も。本当はどんなことをしてでも今の地位をまもることだって出来る。現に今までそうやって生きてきたし」
 俺は誰だ。
 俺は、誰だ。
「……光さん、何を?」
「それを全て捨てるのは少し勿体ないし、癪に障るよね」
「他に奪われるくらいなら、この手でいっそ全部壊してやりたいよ」
 夜闇に一瞬、光るものが頬から落ちた。今しがた付けたばかりの痕をなぞり、彼女の細い頸に手を触れる。
「ねえ、紗夜。塔の上にやってきたのが王子様なんかじゃなくて犯罪者だったら君はどうする?」
 ああ。
 今、君を、ここで殺してしまえたら。
 首に掛けた手に力を込めようとするのに、彼女は抵抗ひとつしない。だが、人形のように横たわっているわけではなかった。
「王子様は王子様だと思います」
 黒い眸を瞬きもせず、彼女は口を開いた。
「だって、正体がなんだろうと、塔の上にいる娘にとっては王子様なのですから」
「……本当に? もしかして、人だって殺してしまったかもしれないよ?」
「それでも王子様に違いありません」
 嘲笑を浴びせても、幻想に生きる少女の目に迷いは無かった。
 俺は、その目に映る自分を見つめた。
 Fasco――『日生光』になりきる策謀も、彼女との遊戯も、何もかもがもう破綻した。
「ふっ……」
 その瞬間、俺の中で張りつめていた何かがふつりと切れた。
「ははっ! あはははっ!」
 込み上げてくるものを抑えきれず、声を上げて嗤った。俺も彼女も等しく愚かだった。
「ははっ、騙された? 冗談だよ」
「冗談…………?」
「うん。そう嘘」
 俺はそう言って、彼女のすぐ横に倒れ込んだ。
「そうだ。君が好きそうな物語をしてあげるよ」
 嘘吐きな少年のお話。
 少年は嘘を吐くことを覚え、食べるものや着るもの、富や財産まで手に入れた。だが嘘を吐き続けた末の幸せは、容易く壊れた。男は何もかも手に入れ、少年から何もかもを奪った。
 告発した少年は、は俺自身だ。
 途中のどこかで選ぶ道は他にもあったのに、嘘を吐き続けたのは俺だった。
 話し終えると、彼女は涙を流していた。
「……まさか、泣くとは思わなかったな」
「すみません……」
 彼女はそっと自分で目尻の涙を拭った。
「いや、別に良いけど」
「どうしてか分からないのですが……涙が止まりません」
 静かに流れ続ける涙は、拭っても拭っても溢れた。やはり、俺は酷い人間だ。彼女が泣いて、こんなにも嬉しい。ぽんぽんと子供をあやすように撫でると、彼女は泣き顔を俺の胸にすり寄せた。
「紗夜」
 眠る彼女の頬に、そっとくちびるを押しつける。
「さよなら」


   ***

『二人は手を繋ぎながら、再び城へと向かった。
 しかし、幾ら歩けど城に着く気配はない。
 歩き疲れた死に神と少女は畔に佇み、湖を覗くと、
 そこに映ったものの姿に驚いた。
 湖に映った自分たちの姿。それは何らかわることのない、
 鏡映しの二人の姿。
 けれど、その背後にあるはずの美しく咲き誇った薔薇の花は
 全て枯れ果てて見えたのだった。
 「一体、どちらが本当の姿なのでしょうか?」
 少女が呟くと、今まで黙っていた薔薇達が一斉に騒ぎ始めた。
 「そんなもの、美しく咲き誇っている方が正しいに決まって
いるでしょう」
薔薇の花は身を揺らし主張した。
 「ならば、この湖に映ったものは一体なんだというのだ?」
 「貴方は自分の目で見たものを信じられないというの?」
挑発的な薔薇の言葉に、それならば、と死神は手を伸ばす。
死神が触れた途端、薔薇の花は枯れてしまった。
やはり湖に映し出された方が真実で、二人が目にしていたものが
 嘘だったのだ。
死神は手の中で枯れて粉々になった薔薇の花を見ながら呟いた。
「『嘘』か。それは美しい言葉とは違うのだろうな」』

   ***


「何だかなぁ」
 真夜中の訪問に、家主は至極迷惑そうな顔をしながらも渋々俺を中に招き入れた。こぎれいなマンションの一室だが、この業界の人間らしく必要な物は最低限だ。作りつけのクローゼットには、桐蔭学園の女子制服と、その年代の少女が着そうな服がいくつか下がっている。
 それらを着こなしていたはずの人物は、細いながらも引き締まった胸板にシャツだけをひっかけて、気怠げな顔で分厚い封筒を放って寄越した。
「やっぱり、僕としては、こんな面倒くさいことになる前に、とっとと金だけ奪って出て行けば良かったと思いますけどね」
「今更だよ」
「そうですけど」
 唯一の家具である安物のパイプベッドに腰掛けたまま、若い情報屋は不満そうに頬を膨らませた。腕利きで効率重視の彼にしてみれば、理解不能だろう。渡された封筒の中身を引きだし、札束を確かめる。ドルとユーロが半々。それから新しい身分証と、国際便のチケットが複数。
「それはそうと、君にひとつ頼みがあるんだ。頼まれてやってくれないか?」
「追加料金取りますよ」
「馴染みなんだ。そのくらいサービスしてよ」
 にっこり笑顔でごり押しすると、彼は諦めて肩を竦めた。
「……で、何ですか?」
「明日の夜、きっと全ての真実を知った彼女が僕を追ってくるだろう。その時に渡してもらいたいものがあるんだよ」
 俺はポケットから例の金色の鍵を取り出した。
「僕がいなくなった痕、この鍵を彼女に渡してやって欲しい」
 もうあの場所には戻れない。戻る気もない。
 賢い彼女のことだ。あそこに残したものを見れば、俺の正体を悟るだろう。そして、あの時計塔がもう止まってはいないことを。
 もうゲームは終わったのだ。
「自分で渡せば良いじゃないですか」
「そうだけど、きっと僕が渡しても信じてもらえないんじゃないかなと思って」
「あんたが嘘吐きだからですか」
「ああ、僕は嘘吐きな盗賊だから」
 彼は鼻に皺を寄せた。
「分かりました。頼まれてやりますよ。サービスです」
「どうも」
 俺は金色の鍵を、少年の手に受け渡した。ずしりとした重みが消え、てのひらには虚しさが残る。
 風が冷たくなってきた。俺はコートの襟を合わせ、両手をポケットに突っ込む。
「けど、彼女がもしも現れなかったらどうするんですか?」
「その時はその時さ。でも、彼女は来るよ。僕は神は信じないけど、運命ってやつは割と信じてるんだ」
 早く出て行けとばかりに手を振る彼に向かって、俺は嘯いた。
『初めて君を見たとき、『お姫様』がいるって、そう思ったんだ』
それだけが、俺が彼女に言ったたったひとつの真実の言葉だった。
 蒼の言葉が嘘ならば、彼女はこの町で今まで通り穏やかに暮らせるだろう。
 もしも――あの湖に映った薔薇のようにその身を偽っているのなら、だとしても遠い異国の地で果てるよりはいい。
 やがて黒一色だった空が白々としはじめ、明かりを消した外灯の影をゆっくりと照らし出した。最後の日がやってくる。俺は顔を伏せ、逃げるようにして白い朝の光の届かないところへ隠れた。


 夜を待つ間に夢を見た。
 俺は時計塔の前にいて、天へと伸びるその先を見上げていた。時計盤があるはずのところは何故か窓になっていて、俺と同じ顔をした男が薔薇の花を手にして佇んでいた。魔女はどこだろう、俺はふと思った。だが魔女の姿などどこにもなくて、俺達の見つめるその中で、薔薇は瞬く間に色褪せ、枯れた。
「やめろ!」
 俺は叫んで、塔の壁に飛びついた。鍵はもうない、彼女に渡してしまった。あれがあればすぐにあの塔の上に行けるのに。そうしたら今度こそ攫って行く。この塔から、この深い森の中から。
 俺は石の継ぎ目に爪を立て、必死に登ろうとした。けれど。
「これはもういらない」
 男はぐしゃりと薔薇を握りつぶした。砕けた花弁が血のように舞う。俺は叫んだ。叫びながら手が離れ、俺は塔から落ちた。


 びくっと痙攣した衝撃で俺は夢から覚醒した。
 心臓がどくどくと早鐘を打っている。夢の残滓を振り払おうと、俺は頭を振って起きあがった。
 腕時計で時間を確認する。日が沈むまであと少しあるが、移動するには良い頃合いだ。黄昏にすれ違う人を振り返ってはいけない、そんな迷信がこの国にはある。
 この町から出て行くには、検問を抜けるリスクを考えると陸路より海路のほうがいい。予定を早めたものだから、船の準備が間に合わずに遅れてしまった。
 隠れていた倉庫から抜け出し、俺は港へ向かって歩き出した。特徴的なレンガ道。西洋建築の影響を多く受けた町並みは瀟洒ながらどこか古風で、あちこち探検しながら歩くのは嫌いじゃなかった。
 着崩した制服で歩いた通学路。喫茶店、映画館、コスモスの丘。
 通り過ぎたものはもう戻らないから、美しく思う。いずれ追憶という名の嘘がこの町を美しいままにしてくれるだろう。
 時間と人の心が、真実を嘘に塗り変える。
 やがて風にむっとする潮の香りが混ざり、汽笛が響いてきた。黒くうねる海面が、遠くにぽつぽつと灯り始めた外灯の明かりを拾って、ごく淡く煌めく。俺は迷い無い足取りで奥へと進み、埠頭に立つ倉庫の影に隠されたクルーザーを見つけて乗り込んだ。
「間に合わなかったな」
 呟きが風に流れ、コートの裾をはためかせる。去る町を振り返ることはしない。そのはずだった。
「光さん!」
 振り向いて、俺は笑った。
 夜闇に溶ける黒檀の髪を振り乱して、咲き初めた薔薇色の頬を上気させて、彼女は俺の元へと駆け寄ってきた。
 綺麗な女だ。世界で一番綺麗な、俺のお姫様。
「やあ、こんばんは」
 彼女は怒っていた。それも、もの凄く。嬉しさに笑みが深くなる。
「こんな所にいて貴方はどこへ行くつもりだったのですか?」
「どこへも」
 俺は答えた。
 行ってしまうのは君のほうだ。
「私を連れて行ってはくれないのですか?」
「君が望むのならば」
 こんな時ですら、俺は呼吸するように嘘を吐ける。
「……貴方は、一体誰なのですか?」
「さあ、誰だろう。僕も知りたいね」
 俺ですら、俺の本当の名前を知らない。いや、そんなものないのかもしれない。俺には自分の名前がない。だからこそ他人になりすまし、人生を拝借する。
「ふざけないで下さい!」
「ふざけてなんかないよ。だって、元の僕には何もないんだ」
 俺は肩を竦めて見せた。
「せっかく、全て上手くいってたのにな。ゆっくりと時間をかけて、周りの信頼を集めるのにも苦労したのに、結局手に入れたのはこれだけだ」
 うそぶいて、足下にある鞄を蹴飛ばした。中には少しの現金と、仕事道具。いつも最後に残るのはこの程度だ。
「……本当なのですか?」
「本当に貴方は『日生光』ではないのですか……?」
「そうだよ」
 頷くと、心のどこかが軽くなった。
「初めてこの町に来た時、僕も驚いたよ。金持ちのばあさんがいるって聞いてたけど、その行方不明の孫が僕とそっくりだなんてね」
 同じ容姿、同じ声、それでいて能力は俺の方がずっと上だった。なのに俺には名前も、金も、名誉も、地位も、身分という身分全てがなかった。彼は全て持っていたのに、それを捨てた。
「だから利用してやろうと思った。これは神様が与えた僕へのご褒美なんだって」
 本物に近づくために髪を染め変え、容姿も趣味嗜好も全て変えた。偽物とばれた今でさえ、この喋り方は『日生光』のものだ。
「……私は『本物』の日生光のことはよく知りません」
「君と一緒にいたのはずっと偽物のほうだったからね」
「ずっと、騙していたのですね」
 俺は微笑んだ。
 さあ、最後のゲームだ。
「出会った時から?」
「僕と君が会ったのは、入学式の時だったね」
 中庭の桜はもう散り際だった。薄紅の花弁が雪のように降り注いで、まるで夢のようだった。あの時俺があの廊下を通りかかったのは、偶然ではなく、きっと運命だったのだと思う。
 俺は窓から身を乗り出し、中庭にいる彼女にこう声をかけた。
「『こんにちは、お姫様。こんなところで何をしているんですか?』」
 あの日の台詞をなぞってみせると、彼女は初めて顔を歪めた。
「……どうして私に近づいたのですか?」
「だって、君は『遠野』だろう? 君に興味があったわけじゃなくて、君の背後にある地位が欲しかっただけだよ」
「……貴方は最低ですね」
「そうだね。でも、その最低な奴の嘘に騙された奴らは馬鹿だと思うけどな」
「ええ。馬鹿です。とても愚かだと思います」
 黒い眸が爛々と燃えている。初めて見る顔だ。それもとても美しくて、俺は内心で見惚れた。
「だって、私はそれでも『貴方』が好きだから」
 俺は首を振った。
彼女が好きだという『日生光』は偽物だ。『俺』でも、ましてや本当の『日生光』でもない。
 偽物の恋だ。
「僕は魔法の呪文を唱えただけだ」
「いいえ」
「なにを根拠に?」
「私は貴方が『本物』の日生光でないことを知っていました」
「!」
 俺が何か言い返す前に、彼女が動いた。水際に立つ俺に向かって両腕を伸ばし、首に手を掛ける。そして強く引き寄せた。
 キス。
 何度も何度も交わしたそれは、深くなるまで時間は掛からなかった。柔らかな舌を突き入れ、吸い付き、互いに絡め合う。
 溶けて無くなりそうなくちづけを離して、彼女は問いかけた。
「ねえ、光さん。私のキスは、甘いですか?」
「ああ」
「嘘ですね」
 彼女は泣き笑った。
「甘いなんて嘘。とってもしょっぱかったはずです。私はずっとずっと、泣いていたのですから」
 俺は完璧などではなかった。何度も彼女の前でミスをした。
 辛かったパエリア。夏帆嬢の悪戯クッキー。紅茶の砂糖。
 彼女は断罪の言葉を振り下ろした。
「貴方は味を感じ取ることができない」
 俺は笑った。
 俺の舌は、嘘を吐けない。嘘は真実を隠す為に生まれる。本当の味を知らない俺の舌は、嘘を吐くことができない。
 彼女は俺の頬を優しく撫でると、返す手で自分の涙を拭った。
「私は……貴方が憎いです。それこそ、殺したいほどに」
 睨まれ、憎まれることすら心地よい。月光の下にあって、彼女は生き生きと美しかった。
 あの死神は幻想だったのだろうか。俺はそう考え、すぐに首を振った。ペテン師が偽りの希望に縋るようになるとは、世も末だ。
 嘘と真実の見抜き方は、誰よりも心得ている。
「むしろ、君がここに来た時は殺されるかと思ったよ」
「殺した方が良かったですか?」
「そこまで思われるのも悪くない」
「貴方は……」
 おどけてみせると、かっとして彼女は声を跳ねあげた。
「貴方は、私から何を隠したがっているのですか……?」
 もはや嘘を吐けない俺には、沈黙する以外になかった。
 嘘は、吐き続けなければならない。真実を覆う幻想は蝶の羽根よりも脆く、一度繕うことを止めればばらばらになってしまう。嘘で塗り固めたアイデンティティは崩壊した。だが、なんてことはない。最初からそこには何もなかったのだらから。
「君の体をくれないか」
 俺にはなにもないけれど。
「君の心をくれないか」
 僕は君の名前を呼ぶのには相応しくない男だけれど。
「君の名前をくれないか」
 ただ一人、君だけが俺を見つけてくれたから。
「君の全てが欲しい」
 手を伸ばして、彼女に触れる。その真っ黒な眸に、薔薇色の頬に、どんな砂糖菓子より甘いくちびるに、白く滑らかな喉に。
 彼女は、ただそこに居るだけで、俺の心を奪う。
 一目見た時から惹かれていた。心の底から手に入れたいと思った。その感情すら、俺は嘘を吐いた。ゲームだと、偽物の恋だと、本当の気持ちなどどこにもないものとして。
 指先は心の臓の真上を指した。
 もうすぐ止まってしまう、その命の源泉を。
「……わかりました」
 少女は、艶やかに微笑んだ。
「貴方が私を欲しいというならば、私は私の全てを貴方に差し上げましょう。けれど、お願いがあります。どうか、それを叶えていただけませんか?」
 彼女はどこまで知っているだろう。金色の鍵は渡されて、もうあの時計塔の時が止まっていないことに気づいたはすだ。
 それなのに、彼女は俺に――嘘をねだった。
「お姫様ごっこをしましょう?」
 冷たい夜風が、彼女の髪をふわりと靡かせる。喪服のような黒いドレス。走ってくる間に解けたのだろう、編み上げのブーツは片方の紐が解けている。
「私は魔女に囚われたお姫様。貴方はお姫様に心を奪われた盗賊。入り口のない高い塔の上にいるお姫様は、やってきた王子様に恋をするのです。けれど、王子様は本当の王子様ではなく、魔女の宝を狙ってやって来た盗賊でした。それでも」
 彼女はゆっくりとした動作で俺の頬に触れた。
 目線は逸らさずに。
「お姫様は本物の王子様ではなく盗賊を選んで、盗賊はお姫様を攫って逃げてしまうのです」
 微笑みながら、彼女は俺に魔法の呪文を唱える。
「……王子様」


   ***

 嘘は美しい言葉とは違う。
『「ええ。けれど、必ずしも『嘘』が美しくないとも思えません」』
『「『嘘』は真実があるからこそ、生まれる闇。けれど、真実は必ずしも良いものとは限りません。真実は時として人を傷つけます」』
 薔薇の刺のように。

   ***


 俺は頷き、その手を取った。























 船は外海へと漕ぎだした。
 遠くで鐘が鳴っている。
 ――ディンドン、ディン、ドン、ディン……ドン……。
 白い船体を波が洗い、揺り籠のように優しく二人の体を揺する。
 薔薇色の頬、華奢な肩、たおやかな白い腕。
 美しい少女は艶やかな黒髪を男の胸に預けて、幸せそうに微笑む。
 男は愛の言葉を囁き、彼女を強く強く抱きしめる。
「どこへ向かっているのですか?」
「さあ、どこだろうね」
遙か海の向こうには、常春の国があるという。
 そこでは美しい花が永遠に咲き乱れ、人々は幸せに暮らしているという。
「薔薇も咲いているといいですね」
 少女は男に微笑んだ。男も少女に微笑み返す。
「きっと咲いています。だって、薔薇は貴方の愛した花ですから」
 




   ***



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