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「付き合ったらどこまで許される?」
そう尋ねたとき、彼女は何の返事もしなかった。
拒みもしない、受け容れもしない。
ベッドに押し倒した時ですら、一瞬身を固く強ばらせたものの、抵抗はなかった。
「怖くないの?」
「わかりません」
彼女は呼吸にゆっくりと胸を上下させながら答えた。
「ですが、恋人同士では、当たり前のことなのですよね?」
「そうだよ」
俺は微笑んで、彼女に覆い被さった。柔らかなくちびるを軽く啄む。何度も触れながら、枕辺に広がった髪を指で梳く。
彼女の髪は思った以上に柔らかく、だが艶やかに張りがあった。滑らかな感触が指の間を擦り抜けていく。
母親譲りの、生まれながらの娼婦。そんな言葉がふと過ぎる。彼女の実母が淫乱なことは、その筋では有名だそうだ。その美貌をそっくり受け継ぐ彼女がそうであっても不思議はない。普段の貞淑ぶりが全て演技だとしたら、俺は看板を下ろすべきかも知れない。
「お嬢って誰かと付き合ったことある?」
「いいえ」
「それにしちゃ、キスに動揺してないけど」
「このくらいのキスなら兄さんといつもしていますから」
「ふぅん」
俺は眉を顰めた。
遠野十夜。童話作家だという彼女の兄。だがどんなに戸籍を調べても、遠野の事情に探りを入れても見つからないその名前。どうも彼女の周りには名前の無い人間がよく集まるようだ。
蒼、彼女の兄、――そして、この俺。
「お兄さんといつもこんなことを?」
息継ぎに緩んだくちびるの隙間に舌を差し入れる。あたたかな口腔は侵入に初めて抵抗した。噛まれてはたまらない。顎を押さえて、深く押し込む。上口蓋をなぞると、反射的に口が開いた。ねっとりとひと撫でしてくちびるを離す。
「お嬢?」
「……しません」
彼女は横を向いた。その頬が赤い。
「こんなこと、兄さんとはしません」
俺は低く笑った。頬に、肩に、胸に、くちびるを押し当てる。
「ドキドキしてるね」
胸のリボンを解く。彼女は神経質に瞬きしたので、俺は立ち上がって部屋の明かりを暗くした。影が濃く長く伸び、淡いベージュの間接照明がほんのりと天井を照らす。ブラウスのボタンを外し、俺は時間をかけて慎重に彼女の体から衣服を取り払った。
「寒くない?」
「平気です」
見られることを恥じらう彼女を抱き寄せて、キスを繰り返した。裸であることが当たり前に思うまで、てのひらで肩を撫で、髪を梳く。初々しい反応に、すこしほっとした。
十七歳の少女の素肌は、白磁のようになめらかだった。特段拘るわけではないが、おそらく初めてだろう。優しく撫でられる感覚をどう逃がしていいのかわからず、ただ人形のように横たわっている。
「目を閉じて、ゆっくり呼吸してごらん。そう、良い子だ」
女の子は繊細だ。心で受け容れられるかどうかで、快と不快が真逆に反転する。与えられ、受け止めるものが大きすぎるから、自然とそうなっているのだ。だが一度受け容れる事に狎れてしまえば、快楽はどこまでも深い。
「日生先輩」
呼ばれて、そのくちびるを塞いだ。小さく音を立ててゆっくりと顔を上げると、まるで目覚めるように彼女も瞼を開いた。
黒曜石の瞳が俺を写している。
「愛して下さい」
薔薇の蕾のような可憐なくちびるが、そう告げた。
「私を好きだと言うのなら、私を愛して下さい」
「……ああ」
俺は微笑んだ。
「愛してるよ」
柔らかなふくらみに指を這わせると、彼女は小さく声を上げた。戸惑いがちな声音には、反応を探る媚びの色が滲んでいる。快感を知らない女ほど演技をするものだ。乱暴にされたくない、少しでも優しくして欲しい、だから男に可愛がられようと甘やかな声で気を惹くのだ。
「可愛いよ、お嬢」
女にはただ優しくすればいい。そのうち激しいのが欲しくなれば、女は自分から腰を振り付けてくる。本当は男より女の方が快楽に貪欲なのだ。だんだんと解けてきた緊張は、下着のホックを外すことでまた戻ってきた。直に触れるとほんのりとあたたかく、尖った先端がてのひらを擦る。
「気持ち良いんだ?」
やんわりと、否定をゆるさない口調で尋ねる。
「気持ち良いから、こんな風になるんだよ」
答えを教え込むと、彼女は切なそうに顔を歪めた。
良い顔だ。
緊張と緩和のサブリミナル。滑らかな白磁のようだった肌が、ざらりと粟立ってくる。感覚が徐々に開いてきたのだろう、敏感になった部分に頬を擦りつけると、彼女は俺の頭をくしゃくしゃに掻き抱いた。邪魔をされたくない俺は、彼女の手首をまとめて掴む。
「すごく綺麗だよ。真っ白で生クリームみたいだ。ほら、舐めても甘い」
「……! そんな、ことは」
「あるよ。本当に甘いんだ」
舌を這わせると、彼女は顎を逸らして首を振った。肌から立ち上る彼女自身の香りは、蠱惑的ですらある。俺は少し体を起こし、客観的な視線でもって彼女を眺めた。彼女の反応を具に観察し、愛撫を与えていく。
最初は触れるだけ。
次からは少し深く。
繰り返す度にどんどん甘く蕩けてゆく。
「お嬢」
うまく喘げなくなって、彼女が咳き込む。収まるのを待って、何度もしつこく同じ快楽を与えていく。そうすれば、次の刺激も快楽だと思いこみ易くなる。嘘が、真実にすり替わる。
「好きだ。お嬢。……好きだよ」
繰り返せば繰り返すだけ、彼女は昂っていった。
快楽は、拷問に成り得る。逃がしきれない快楽はいっそ苦しくて、彼女は乱暴にシーツを握り、拳でベッドを何度も叩いた。
「辛いなら、やめるよ?」
尋ねると、彼女は髪を振り乱して提案を拒否した。昼間の清楚な少女の顔が、まるで別人のようだ。彼女は歪んでさえ美しかった。
「……良い子だ」
彼女が溺れていくのと反比例するように、どんどん俺の意識は冷めていった。指を道具に、彼女の花を開く。彼女は瞬間的に身を強ばらせ、しばらくして不安そうな顔になった。
「痛い?」
「いいえ……。その、よくわからないのです。良くも悪くもないというか……」
素直に答えるものの、その呂律はだいぶ怪しい。
「だろうね。だって、触られるの初めてでしょう、こんなところ」
人間の神経というものは、刺激を受けなければそれほど発達しない。自慰などほとんどしたこともないだろう彼女の反応が鈍いのは当然で、時間が掛かることは折り込み済みだった。焦って不安がる彼女を宥めるように覆い被さって彼女にキスをする。くちびるに、頬に、鼻先に、額に。
すると彼女が腕を上げ、強くしがみついてきた。
「紗夜」
「や」
舌っ足らずに強請られて、俺は目を丸くした。
「おいで」
ぎゅっと抱きしめてやると、子供のように縋ってくる。
「紗夜」
こんなことはいくらもある。手の掛かる女をあやすことくらい、俺にとってはなんということもない。俺は不安を拭うとっときの笑顔を浮かべ、甘く囁いた。
「大丈夫。行き方なら俺がみんな教えてあげる。だから……」
「いかないで」
彼女は咽び泣いていた。
火照った体を擦りつけてくる。だがそれは手管というにはあまりに不器用だった。俺の戸惑いを知ると頬を引き寄せて口づけ、遮二無二舌を絡めてくる。涙が何度も目尻に溢れ、顎を伝い落ちる。
「ちゃんとします。いいこにします。きもちよくなります。だからおいていかないで。ひとりにしないで」
「……紗夜」
背中に食い込んだ彼女の爪が痛い。
俺から何かを毟り取ろうとでもするようだ。
「私の、王子様」
髪に染みた薔薇の香りと肌の香りとが混ざり合い、少女の匂いはひどく甘かった。
「おねがい」
懇願する彼女に、俺は少しだけ――優しくするのを、やめた。
なんだか妙な感覚だった。
横に眠る彼女の顔を、俺は何故いつまでも見ているのだろう。
「これで俺は君を、遠野紗夜を手に入れた」
呟いて見たが、ひどく白々しく聞こえた。いつもなら在るはずの満足感や達成感がまるでない。むしろ何かを失くしたような気がして、切ないような苦しいような、妙な圧迫感が胸を押さえつけている。それでいて何か、狂おしいような気分になる。
近すぎるから、いけないのかもしれない。
彼女の香りは、俺の本能を掻き乱すようだ。頭をクリアにするべく、俺はベッドをそっと抜け出した。少し、喉が渇いている。
部屋を出て厨房に行くと、家政婦がいた。
「あら、光っちゃん。お友達はもうお帰りになったんですか?」
「まだいるよ。喉が渇いたから、飲み物を貰いに来たんだ」
「まあ。じゃあお茶か珈琲をお淹れしましょうか」
「ああ……じゃあ、紅茶を頼むよ」
「かしこまりました」
家政婦が支度をするのを待ちながら、腕を組んでその辺の壁に凭れる。イタリア樫の大きな食器棚は、それ自体にもアンティークとしての価値がある。中に収められている食器類もすべて高価な一級品ばかりで、棚一段の合計でおそらく家の一軒や二軒平気で建てられるくらいの資産価値がある。
食器というより、芸術品と言った方が相応しいのだろう。玄妙な色彩と風情を讃える唐津の茶碗や、精緻な絵柄で埋め尽くされた古伊万里の大皿。歴史の長いものもあるらしいから、アンティークとしての価値もあるだろう。
贅沢というのは、つくづく罪だ。この皿一枚にのるパンの値段は、皿の値段の何分の一だ。もしその代わりに安い陶器の皿に、いや皿なんてなくていい、同じ値段分のパンが買えれば、何日、いや何週間飢えずに済むだろう。
やがて家政婦が白磁のティーカップを乗せた盆を運んできて、俺は無駄な妄想をやめた。
「ありがとう。僕が運ぶよ」
俺は微笑んで盆を受け取った。
部屋に戻ると、ベッドの上の彼女が身動ぎした。まだ素肌にシーツを纏ったままだ。
「紗夜」
名前を呼ぶと、彼女は気怠げに視線だけを寄越した。
もう昨日までの無垢な視線ではない。
「紅茶、持ってきたよ。起きあがれる?」
「はい」
シーツを胸に引き上げながら、彼女は体を起こしてカップを受け取る。立ち上る湯気に鼻を近づけ、彼女は微笑んだ。
「……良い匂い。ハーブティーですか」
「ああ、確かそうだったな」
俺は曖昧に頷いた。紅茶としか言わなかったから、香りを気に留めていなかった。
「ローズですか? 先輩の好きな」
「うん。そう」
『日生光』の好きなもの。ローズティーも、薔薇の花も、遠野紗夜も、なにもかも。
「名前」
ふと彼女が声を上げた。
「ようやく、呼んでくれましたね。ずっと、『お嬢』だったのに」
黒目がちな眸が愛しげに和んだ。俺に恋をしている眸だ。こんな風に見つめられたことは何度だってある。俺は笑った。
「だって、僕達晴れて恋人同士でしょ? いつまでも『お嬢』じゃそれっぽくないし。嫌?」
「いいえ」
「じゃあ、紗夜」
声に出すだけで甘く囁く音になるその名前を、俺は噛み締めるようにして呼んだ。
「紗夜」
「はい」
見つめ合いながら、カップを持つ彼女の手に自分のそれを重ねた。
「危ないですよ」
「どっちが?」
意地悪く笑ったのに、彼女は嬉しそうに微笑み返した。
「ねえ、先輩」
「何?」
「お砂糖を下さいな」
「砂糖?」
「ええ。このお茶は甘くないので。女の子は得てして甘い物が好きなのですよ」
伏し目がちに微笑む。
その姿は、スクリーンでかつて見たことのある彼女の実母にそっくりだった。女はみな女優、しかも筋金入りの演技達者だ。
「……ははっ。君、本当に十七?」
俺はそっとカップを取り上げて、サイドボードに移した。二人分の体重を受けたベッドのスプリングが生々しく軋み、ローズの香りのする吐息がくちびるに触れた。
欲望のままその先へ、更に先へと沈み込みそうになる。
すんでの所で、俺はその衝動を押し殺した。くちびるが離れる名残惜しさを指で拭い、殊更慇懃に振る舞うことにする。
「……了解しました。お嬢様。ただいま、貴方のご所望のものをお持ち致しましょう」
俺が外に出る間に、彼女は身支度を整えるだろう。そういう時間が欲しいことをああいう形で要望でき、それが叶うと疑わない。そういう育てられかたをした人間だ。
温室の薔薇。
それは野に咲く茨と違って、枯れるだけの命だ。持っては行けない。行くつもりもない。わかっていたはずなのに、どうしてだろう。
無性にそれが悔しく思えた。
光の祖母である日生紫と対面するのは、時間の問題だった。生粋の名家で育った日生紫が彼女を毛嫌いしていることは知っていたし、辛辣な言葉で彼女を傷つけるのはゲームにとって必要な過程だった。
送りがてら立ち寄った公園のベンチで、俺たちは少し話をした。
「嫌な思いをさせたね」
自販機の紅茶で手を温めながら、俺は『日生光』の生い立ちを話した。母親がハーフであること。それ故に父の家から反対され駆け落ちしたこと。両親が交通事故で亡くなったこと。母方の家も既に無く唯一の身寄りである祖母に引き取られたこと。
「可哀相ですね」
「どっちが?」
「お祖母様の方です。本当はどちらが悪いのかなどはないのかもしれませんが……なんとなく、そう思ってしまいました」
「そう」
沈黙が流れた。夜気を浴びて、頬が冷たくなっていく。
「日生先輩は私の家のこと、知っていたのですね……」
遠野の令嬢。椿姫の娘。美貌の少女。愛人の子。誰もが彼女をいくつもの色眼鏡を通して見る。それに一人で耐えてきた彼女の肩は、あまりに細かった。彼女の父親も母親も、彼女を守ることも慈しむこともしなかった。衣食住の面倒は見た。学校にも通わせた。それがあっただけ幸せだろうが、それ以外は孤児と同じだった。
日生光は両親を亡くした。だが、彼女の両親は最初から居なかった。男と女の戯れの情交によって産み落とされた、単なる結果としての存在だった。
「日生先輩……」
重圧に耐えきれず、彼女の手から冷めた紅茶の缶が滑り落ちた。
「私を……私を連れて逃げて下さい……」
彼女は俺の胸に縋り付いてきた。
「このまま…………」
「どこに?」
塔の上の姫君のように、攫って欲しいと彼女は言う。
だが、王子様がどんなところに住んでいるのか、どこへ連れていこうとしているのか、知っているならきっと言わない。
「紗夜」
俺は手を伸ばして彼女の髪を撫でた。
「紗夜は紗夜だ。他の誰でもない遠野紗夜だ」
「私は……『遠野紗夜』?」
「うん。僕の綺麗なお姫様」
寂しがり屋で甘えん坊で、我慢強くて思いやり深い、誰よりも綺麗な、可哀相な女の子。
俺たちは親の愛を得られなかった子どもだ。どこか似ている部分があるから、きっとこうして抱き合うのだろう。与えられなかったぬくもりの代わりに。
「……っ」
「別に、君が誰の子だろうと関係ないよ。君が『遠野紗夜』ならね」
彼女の眸から美しい涙が零れた。
「光さん……っ」
子供のように、顔を歪めて。
「光さん、光さん、光さん……っ!」
何度も俺を呼びながら彼女は泣きじゃくった。
俺は彼女を抱きしめ、髪を撫でた。
俺がずっと昔、誰かにそうして欲しかったように。
それからの二週間は、まさしく薔薇色の日々だった。祖母の反対というちょっとした障害を乗り越えた彼女は、ますます俺との恋にのめり込んだ。
『日生光』が拒んだ『王子様』を俺もまた嘲っていたはずが、彼女がそう呼ぶとそう振る舞ってやりたくなった。彼女があまりに健気に俺を慕ったからかもしれない。可愛いものや美しいと思うものに、人はつい弱くなる。薔薇の武器は棘ではなく、その美しさなのだ。鋭い棘はただ花の心を守るためのもので、それを自ら捨てた花はますます美しく光り輝いた。
毎日俺達は一緒に過ごした。朝は迎えに行き、昼食を一緒に食べ、放課後はデートや逢瀬を重ね、夜と共に彼女を家へと送り届けた。
季節は晩秋に差し掛かっていた。
丘にはコスモスが咲き乱れ、金色に色づいたプラタナスが地面を染め変えるほどだった。
「あの時の返事を、今させてください」
俺の頭を膝に乗せた彼女が、微笑みながらそう言った。
「愛しています」
俺は両目を閉ざした。
暇つぶしのゲームは俺の勝ちのはずだった。彼女に好きだと、愛していると言わせてやった。なのに胸を占めたのは敗北感だった。
俺は彼女を負かそうとして、彼女に最も強い武器を与えてしまった。俺はもう彼女に勝てない。俺は笑った。
「愛している」
これが嘘の報いだった。
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