2パーセントの理想距離


きっと、誰にでも1人くらいは幼馴染というのがいると思う。斯く言うわたしにも、もちろん。そうして決まってそんな幼馴染と幼少期特有の無邪気さで約束するのは、確率少ない将来のこと。


《おおきくなったらさねみくんのおよめさんになりたい!》


眉を下げて笑う彼に、他意はなく思ったことをそのまんま口に出せたあの頃を懐かしむと同時に、それはもう2度と口に出すことができないことを知る。


高等部三年の春、彼は幼馴染から先生になった。


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身近にいても驚嘆するほどのその成長ぶりは、色恋ごとに目覚め、思春期真っ只中の女子生徒には刺激が強い。それでなくてもこの学園の先生方は揃って整い過ぎているというのに、新米教師として紹介された実弥くん、改め不死川先生は、一見すると普通なら怖がられるであろう少々強面なその顔も、彼女達にとっては魅力の一つに過ぎないようだ。


「ねぇ名前、不死川先生とも知り合いなの?」

わたしと同じ学年に、彼の弟である玄弥くんがいて、そうして玄弥くんとわたしが幼馴染であることは周知のことだった。つまり、玄弥くんの兄である彼も必然的にわたしの幼馴染であると認識される。

「うん、そうだよ」
「えー!羨ましい!あんなカッコいい幼馴染、最高じゃん!」
「そうだよ!ねぇ、昔の不死川先生ってどんな感じだったの?」

矢継ぎ早に飛び交うその言葉に、一昔前なら優越感なんてものを感じていたかもしれないけれど、ここにきてそんなものはひとつも湧いてこなかった。

「どんなって…普通だよ」
「え〜そうなの?でもいいなあ、いるだけで十分」
「ほんとほんと、羨ましいー!」

興奮する友人に適当に微笑んで相槌を打つ。複雑な気持ちの漣は、この日を境に大きくなる一方だった。


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暫くして教師としてもこの学園にすっかり馴染んだ彼は、その面構と裏腹、存外生徒に優しいことで有名となった。一方反面、羽目を外す生徒には一層厳しい。怯える男子生徒を他所に、それさえも彼の魅力だと認識した女子生徒からの支持は大きくなるばかりだった。


もちろん、子供の頃から彼は優しかった。弟妹が多い家庭環境も相俟って、面倒見も良く、ひとりっ子のわたしは本当の兄であるかのように慕っていた。時にその慕情が、異性としてであることを認識してしまったのはいつだったか。無邪気さを武器に口走ることは到底憚られる年齢であったことは確かである。


「次の授業、不死川先生だって!」
「ラッキーだよねえ、数学選択しておいてよかった」

科目によって先生が異なるのは特有ではあるけれど、各クラスの担当は既に決まっていたからして、まさか自分の受ける授業の教壇に彼が立つ日が来るとは夢にも思っていなかった。


「オーイ、席付けェ。今日は後藤先生が休みなもんで、代理で授業する不死川だァ」
「はぁ〜い、不死川せんせっ!よろしくお願いしまぁ〜す」

語尾にもその瞳にもハートマークを浮かべて頭のてっぺんから黄色い声を飛ばす所謂リーダー格の彼女に、彼は僅かに右手を挙げ応えた後、教科書を開いた。

「教科書29ページ、問2から行くぞォ」


カツカツと黒板を掻く白墨が並べる数式を見つめながら、視界に挟む彼の背中は、もうあの頃のように縋ることなどできない程遠い。

埋まらない5年は、決して埋められない5年になってしまったようだった。


それから、本来の担当である後藤先生は所謂家庭の事情で長期の休みを取ることが決まったらしく、遂には彼がわたしたちのクラスの教科担任となった。そうして、来る中間試験を控え、生徒達が一斉にこれまでの復習と称し各教科の準備室に出向いては、先生方を質問攻めにする時期がやってきた。


「それじゃあ放課後、わかんねェとこがあるやつは準備室に来い。っても、遊びにくるようじゃあ即刻追い返すからなァ、疑問点は明確にしてくるように」

彼の言葉に葛藤する男子生徒とは対照的に、声に出さない歓声を上げる女子生徒は、おおよそが後半部分を聞いてはいないだろう。チャイムが鳴って号令を終えれば、数人が集まり輪を作り、処々できゃっきゃと放課後の作戦会議とやらが始まる。

「名前はどうする?不死川先生のとこ、聞きに行く?」
「えっ、あー…わたしは、いいかな」
「そっかあ。そうだよね!幼馴染なんだからいつでも聞けちゃうか!」


その言葉に曖昧に言葉を濁した。昔のように遊ぶことも、会話をすることさえも、とっくの前からない。もちろんそれはお互いがそれぞれのコミュニティを形成していったことも影響しているけれど、元より彼を異性として認識して以来、まともに顔を合わせるのは年末年始くらいである。

だから尚のこと今になって、先生と生徒という立場関係になったからといって今更、以前のように会話できるとは思えなかった。むしろ、彼が先生という立場だからこそ、わたしはもうまともに顔を見て会話することなんてできないと思うのだ。


そうして放課後になり、いつもなら自らすすんで向かうはずもない数学準備室に、浮き足立って駆けていく友人を見送って下駄箱に向かう。外履きに履き替え玄関を出ようとしたときだった。

「名前!」

そのよく似た声色に一瞬驚いて振り返ると、そこにいたのは玄弥くんだった。

「あ、玄弥くん」
「今帰りか?俺も今日から部活ねえんだ。よかったら一緒に帰らねえ?」
「試験対策はいいの?」
「あー、それは家で兄ちゃ…兄貴が見てくれるって」
「そっか。じゃあ一緒に帰ろう」
「おう!なんか、久々だな!」

にこにこと破顔して外履きに履き替えた玄弥くんと、並んで歩くのはいつぶりだろうか。すっかり身長も伸びて、会話するため見上げていれば、もれなく首を攣ってしまいそうである。

「なあ、名前」
「なあに?」
「に…あ、兄貴がさ、先生になっただろ」
「うん」
「どう思った?」
「えっ?」

彼が教師を目指している、というのは、それこそ親同士の会話でも上がっていたことでわたしももちろん知っていた。けれどまさか、この学園にくるとは思っていなかったし、何ならその話を聞いたのは春休みが終わる2日前だ。

「そうだね…うーん…不思議な気分」
「あーっ、やっぱりそうだよなあ!俺も。不思議だし、それにちょっと複雑」
「複雑?」
「なんつーか、一気に遠くなっちまった気がして…」
「うん」
「…兄弟だし、同じ家に住んでるけど、前みたいに普通に会話し辛いっつーか…」
「ああ…なるほど…」

不死川家の兄妹達はわたしもよく知るほど全員仲が良いのだけれど、その中でも玄弥くんは彼を、彼は玄弥くんを、お互い1番に考えているくらい仲が良かった。それはもちろん今もそうだと思っていたのだけれど、玄弥くんの発言からすると、些か距離ができてしまっているようだ。

「名前もさ、昔みたいに遊んだり、そういうの少なくなっただろ。まあもうガキじゃねえから、そういう男女、みたいなのあるんだろうけど…」
「うん…たしかに、あんまり話すこともなくなっちゃったよね」
「その上兄貴は先生になっちまってさあ…いや、すげえんだよ兄貴は。けど、やっぱりなんか、寂しいよな」
「うん、わかる…」

玄弥くんが言う寂しいは、わたしのこの気持ちとはそれこそ男女分の差があるとは思うけれど、その気持ちは痛いほどわかった。

「俺はさ、名前は兄貴とくっつくと思ってたんだよなあ」
「えっ?な、なに、突然…」
「いやあだってよお、子供の頃そんな話してただろ」
「そんなっ、覚えてたの?…でも、それは子供の頃の話だから、冗談みたいなものじゃない」
「そうなのか?兄貴は珍しく嬉しそうにしてるなと思ってたんだけど…でも、先生になっちまったら、なんつーか、難しいよな」
「……」

玄弥くんの言葉は続いていたけれど、途中からあんまり聞こえなくなっていた。つい先日もわたしはそんなことを考えていて、その上でその気持ちに蓋をしたのだ。玄弥くんがいう先生になってしまった、ということ。それは正しく、わたしだけが知っていた彼は、みんなの先生になってしまったということだ。


子供の頃の口約束はとっくに時効であるし、それに、もう一人占めなんてできるような相手ではない。それは彼が、この学園の先生でなくても、きっと、真面目な彼の性格を思えば叶うことはないだろう。

「まあでもさ、また遊んだり、できたらいいな」
「うんっ」

気づけば自宅の前に着いていて、4軒ほど前に通り過ぎた不死川家を思えば、送ってくれたのだということを知る。こういうところは、玄弥くんも彼に似て昔からスマートでとても優しい。

「送ってくれてありがとう」
「たった4軒だろ、どーってことねえよ」
「久しぶりに話せて、嬉しかった」
「ああ、俺も。また話そうぜ」
「うん、ありがとう。また明日」
「おう、明日な」

踵を返した玄弥くんに、もう一度心の中でお礼を言って玄関のドアノブに手を掛けた。


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それから中間試験までの間、試験への緊張とは違う空気感が一部に流行った。聞くところによると彼は放課後、さほど広くはない数学準備室の中で、数人の、おおよそ女子生徒に囲まれて授業さながら質疑応答を設けているという。わたしはというと、すっかり蓋をしたその気持ちの上に先日の玄弥くんの発した気持ちを薄く重ねて過ごしていた。


「それじゃあ明日から中間試験だァ。その間お前らがきちんとノートとってるかチェックするから、今日放課後集めて持ってこい。持ってきてくれるやつは…」

言いかけるや否や、我こそはと手を挙げようとそわそわと身を揺する生徒を牽制してか、彼は長い腕をゆったりと振り上げて、数本の指を曲げる。

「苗字、お前、持ってきてくれな」
「えっ?なん、っでわたし…」
「こういうことは大体そこの席のやつにって決めてんだわァ」

教室の窓側、1番後ろの角の席。それだけの理由で選ばれたわたしが再び声を上げる前に彼は教壇に向き戻り「忘れずに預けて帰れよォ」と居直った。


そうして放課後、クラス全員分のノートおおよそ30冊を抱えて数学準備室に向かう。その重さは気持ちまでをも沈めるようで、気のすすまない足取りのまま辿り着いた扉を叩く。

「苗字です。ノート、集めてきました」
「おう、ご苦労さん」
「ここ、置いておきます。…では、わたしはこれで、」
「ねえ先生、ここは〜?」
「公式これで合ってますか〜?」
「アァ、ちょっと待てって…。苗字、ありがとな。気ィ付けて帰れよ」
「…はい、失礼します」


聞いていた通りの光景にも、彼に対しても、まともに視線を向けることなく準備室を出る。久しぶりに交わした言葉は、紛れもなく先生と生徒のそれだった。


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それから色々な意味で特別だった試験期間が終わりまた日常が戻ってくる。各教科のテスト返却も始まって、数学についてもその日を迎える。


「番号順に取りに来い」

その言葉に1番の生徒からぞろぞろと席を立ち、用紙の右端に三者三様の反応を見せる。そうしてわたしの番になり、教卓の前、受け取るために腕だけを伸ばした。

「はいよ。頑張ったのな」
「えっ?」

その言葉に思わず顔をあげてぶつかった視線。フッと口元を緩めて、手渡されるその用紙を両手で受け取って、一礼して席に戻る。

そのあとは所謂答え合わせで、通常授業は次回からということだった。それに合わせてノートの返却は次回、運び役にはまたもその席故にわたしが指名された。


おおよそ50分の間、わたしは終始上の空だった。もちろん、誤答してしまった箇所の訂正や、丁寧に行われる解説こそ聞いてはいたが、殆どが右から左で、握った赤ペンは意味もなく用紙の端を埋めた。

すっかり合わせたはずの気持ちの蓋がカタカタと音を立てるには、つい先程の、ほんの僅かな出来事で十分だった。


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「苗字、悪ィが今日昼休み終わる前に数学準備室に寄ってくれ」


登校後下駄箱で上履きに履き替えていると、そう声をかけられて、ふと時間割を思い出してそういうことかと独り言ちる。「わかりました」と返事をすれば、ひとつ頷いた彼はたまたちに踵を返し職員室へ続く廊下へ消えた。


そうして言われた通り、昼休憩が終わる10分前に数学準備室の扉を叩いた。


「苗字です、ノート受け取りにきました」
「アァ、悪ィな、貴重な昼休みだってのに」
「いえ。それで、これを運べば?」

角を揃え積まれた山を指差せば「おう」と言いながらも彼は自身が座る方へとわたしを手招いた。疑問に思いながらも近寄ると、側にあった空き椅子に促されるので腰掛ける。わたしが着席したことを確認して、彼は少しだけ頭を掻いた。

「元気か?」
「へ?」

思いもよらぬその問いに間抜けな声が漏れてしまった。

「アー…玄弥からちょいと話を聞いてよォ」
「そ、うですか…」

一体どの話を聞いたのだろうかと思いが過ぎる反面、まるでこれまでまともな会話をしていなかったことが嘘のように自然に話し始める彼に、少しだけ脈が早まる。

「…俺が、教師になって、嫌だったのかァ?」
「っ……」

恐らく玄弥くんは自分の気持ちを伝えたのだろう。兄である彼が先生になるその複雑な心境は、わたしよりも大きかったに違いない。そうしてきっと、優しい玄弥くんは、わたしの共感も伝えてくれたのだろう。

「嫌…ではない、です」
「おう」
「…でも、なんていうか、複雑で…」
「うん?」
「……」

後に続く「寂しい」などという素直な心内を明かすことは憚られた。けれど、隠し事などはできなかったようで、膝がぶつかるほどに丸椅子を滑らせて近づいてきた彼は、俯いたわたしの視線を掬おうと僅かに身を屈めた。その空気を感じたわたしの旋毛はおおよそ彼の鼻の先だ。

「意地でも合わさねェってか」
「……」
「……」
「……」
「…こっち見てくれやァ、名前」
「っ…」


少しの沈黙の後、もういつ振りかわからないほど久方ぶりに呼ばれた自分の名前。あの頃よりもずっと低くなったその声色で聞いたのはきっと初めてだというのに、すんなりと耳に馴染む。


「俺はなァ、」

依然俯き黙ったままのわたしに彼は独り言のように呟く。

「この世の2%の確率ってのは、わりあい身近にあると思ってんだ」
「え?」

一体なんの話だろうかと、漸く少しだけ視線を上げると、先の言葉に反して彼は開け放した窓の外を眺めていた。そうしてそのまま言葉を続ける。

「そんでもって、どうしようもねえ差分も、存外悪くねェと思ってる」
「…え、っと…?」

何かの問題だろうかと首を捻っていると、彼はゆっくりとこちらに向き直った。そうしてやっと、交わる視線。

「…約束、時効にはなってねェよなァ?」
「え…」

彼が言う約束が、わたしが思っているものと同じであることは、その表情が肯定していた。あの頃よりもずっと逞しくなった彼は、あの頃と同じように眉を下げて笑っている。

「一先ず卒業までの面倒は見てやっから、早く大人になりやがれェ」

ぽんっと頭に乗せられた掌は数回わたしの髪を乱して離れていった。そうして彼が立ち上がると同時に響く予鈴。

「遅れちゃ示しがつかねェだろ…って、その顔どうにかしてからこいよォ」


そう言ってわたしが持っていくはずだったノートを軽々小脇に抱え、ひらりと手を挙げて準備室を出て行ってしまう。その姿に慌てて立ち上がるも、先の言葉の意味にはっとして手鏡を開く。


微かに色付いたわたしの頬を、吹き込んだ薫風が撫でる。鼻腔を擽った若葉の匂いを吸い込んで、颯爽と先を行く彼の背中を追った。




春、彼は幼馴染から先生になった。

そうしてわたしが卒業するまでは、文字通り先生でいるそうだ。





2021.03.30


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