あー、暑い。
今は七月頭、なのに猛暑のごとく暑い。おれの中で一番暑いのは九月だという概念が十六年間居座っていたというのに儚くそれは砕け散った、なんて気障ったらしいものではない。この暑さに溶かされたのである。運動して出たサラサラした、所謂きもちいい汗とは違いベタついた不快な汗が背中を濡らしYシャツを湿らせる。ああ、本当に暑い。何故おれがこんな目に合わなくてはいけないのだ。本来ならば今頃冷房の効いた電車に乗っていたはず。まあ、おれ自身が悪いし、理由もはっきりしているわけであるけれども。明日は日本史のノート提出だから一回整理しよう(イタズラ書きを消そう)としたのにカバンに入れ忘れた。それに気づいたのが駅についたとき。おれはアホか、と自分にツッコミを入れつつ渋々学校に戻った。ノート上でザビエルとペリーが手を取り合って踊っているのを見た教師の反応も気になるところだが、冗談の通じない教師だったら困るのはおれだ。髪は染めていないまでもワックスでしっかり手入れをしそれなりに制服も崩し、ビビりながらもピアスホールを開けたおれだがこれでも学業には真剣である。友人には高校デビュー失敗したな、と同情を含んだ視線で肩を叩かれた。お返しに頭を叩いておいたが。
Yシャツの襟元に指を入れパタパタと風が入るように動かす。体感温度が変わるわけではないがやらないよりかはマシである。気のせいではない。多分。窓の外に広がる水色を恨めしげに睨み付けた。この水色は本当は水色でないらしい。確か本当は紫だったか。太陽の光の関係で錯覚が起こり、水色に見せるのだとか。地球は青いのに不思議な話である。海だって空の反射で青いのに。海が空に恋してるなんて言葉を聞くが、なんてクサイのだとおれは馬鹿にしている。
3階まで上がって、汗は一層ひどいものとなる。おれ、今ぜってー臭い。そう思ったとき、耳に音が入ってきて硬直した。
おれは音が嫌いだ。音を聞くと気持ち悪くなることが多いから。しかし地球上であればどこへ行っても音は存在する。風が吹けば音は出るし、言葉だって音だ。おれだって人間なのだからそれは耐えねばならなく、大げさに言えば生きていけないのだ。そして、慣れた。日常生活にはなんら問題がない程度には。
しかし、それでも、どうしても音楽は無理だった。幼い頃は親にピアノやらヴァイオリンやらフルートやらなんやらやらされてきた。今考えればどれだけやらされたのだおれは。しかもどれも一ヶ月続けば良い方。教師に「おとがきもちわるい」と言ったからである。おれの耳は些細な音のズレも見逃さない。つまるところ、おれは絶対音感の持ち主だったのだ。ちなみにピアノは前に調律してから大分時間がたっていたらしい。
おれは絶対音感を持っているからといって音楽を続けることはなかった。むしろ音楽が嫌いに、トラウマになったのである。親は残念そうにしていたが、そんなのは知らん。
そして今、おれにトラウマを思い起こさせたその音(とは言ってもよく吹奏楽部の練習の音が聞こえてくるからトラウマが思い起こさせられることは頻繁である)。昔少しだけやったヴァイオリンに近い音。しかしそれよりは何オクターブか低い(絶対音感はあるがオクターブには疎いのだ、おれは)。かといって低すぎるわけでもなく、人の声に近い、身体に染み渡る心地好い低音。確か、そう…チェロだったか。
あれ、おかしい。音が気持ち悪くない。 それどころか、おれは、心地好いと?
つまり、音のズレが全くないのだ。弾いている曲は三拍子。主旋律(メロディー)ではなく伴奏。そして、この伴奏形態はワルツである。今耳に入ってくるこのワルツの土台となる伴奏は、踊りの心構えが全くない人でも踊れてしまいそうな程軽やかだ。しかし、そのズレのない完璧な音程でも、踊れるように軽やかな弾き方でもなく、その、痛いほどに真っ直ぐな音色におれは引きつけられたのだ。
音の出所はおれのクラスだった。音が鳴り止み、おれは恐る恐るドアを開いた。窓際で後ろ三列の机を前に詰め、椅子に座り茶色い楽器、チェロを抱くように構える人影。見たことのない人だ。適度な距離を取って置いてある譜面台に向いていた顔が、ゆるりとおれの方を向く。なんだかとても緊張して、ただでさえ暑くて喉が渇くのに、もっと口の中が乾いた。
奏でられていた音色と同じく、心地の好さを感じるきれいな瞳。肩より少し長い髪の色は、その瞳の色と全く同じである。真っ直ぐおれを見るその瞳に、心臓がどくりと音をたてた。
「ああ、ここのクラスの人?ごめんね、ここ使う?」
「…いや、忘れ物取りに来ただけなんで」
ゆるりと申し訳なさそうに目尻を下げるその人に首を横に振る。おれの心臓はまだ音をたてている。不快なものではなかった。いつのまにか、汗も引いている。その人はチェロを抱えたままシャーペンを握り譜面台に立てられたスクラップブックに何か書き込んでいた。スクラップブックには楽譜でも貼り付けられているのだろうか。
「どうかした?」
おれが見ていることに気づいたのだろう。その人はやはり目尻を下げて困ったように笑っていた。その人の上履きの色は赤だ。青が三年、赤が二年、黄が一年。おれは黄。先輩か。
「…部活かなんかっすか」
ああ、おれってやっぱ口下手かも。無愛想になってしまった声音に驚いたのはおれ自身。それでもその先輩は笑みを浮かべていた。先程のように困ったものは浮かんでいないためおれはほっとした。
「うん。弦楽部」
弦楽部。そんな部活があったのか。知らなかった。吹奏楽部なら知ってるけど、となんだか申し訳なくなり、視線を泳がせる。
「はは、知らないよね。吹部の影かくれてるし文化祭でもみんなの前ではやらないから」
「えと、その…すいません…」
「謝らなくても良いのに」
本当に何とも思っていないようで、ゆるりと微笑む先輩は一つしか学年は変わらないのに、とても大人に見えた。おれがガキなだけだろうか。たとえそうでも、やはりこの人が大人っぽいことも確かである。
「おれ、邪魔っすか?」
何言ってんだ、邪魔に決まってんだろ。てか、おれ忘れ物取りに来ただけなのに。教室に足を踏み入れた時にもそう言ったはずだ。ちくしょう、自分のことなのにわけわかんねえ。
「…興味ある?チェロ…っていうか、弦楽器に」
違う。おれは音が嫌いだ。音楽が嫌いだ。なのになんで足が動かないんだろう。自分自身に戸惑いを感じていると、先輩が微笑んだのが空気でわかった。
「またおいで」
甘い誘惑だった。






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