拝啓、春眠に帰するあなたへ


お元気でしょうか。こちらはみんな相変わらずです。
ドイツでの生活には慣れましたか。
季節の変わり目なので、お身体に気をつけてお過ごしください。
日本では桜が綺麗に咲いています。
桜を見るとちょうど二年前、あのノートのやりとりを始めた頃のことを思い出します。
みんながいつも通りの、あたりまえの顔をしながら過ごしている毎日の中で一つだけ変わったことと言えば、あなたのいない青学テニス部は、日常はやっぱり少し寂






「何書いてるの?」
「あ、手塚くん。お疲れさま」

 多分これが手塚と初めて交わした会話だった。中学一年生の初夏、まだ私が手塚のことを手塚くんと、手塚も私のことをみょうじさんと呼んでいた頃。練習中の休憩で少しできた手隙の空き時間、テニスコートを囲うフェンスの隅っこで不意に落ちてきた声と影に顔を上げると、走り込みを終えたばかりの手塚が少し不思議そうに私の手元を覗き込んでいた。

「記録?」
「うん、一応そんなところ、かな」

 彼が視線を注いでいる私の手元のそれは一人一人の部員それぞれのその日の部活での様子を個別に記録しているノートで、マネージャー業務として定められているわけではないけれど私が勝手にほぼ個人の趣味でつけているものだった。もっと部員のみんなのことを知りたいと思ったのがきっかけで、入部当初から毎日欠かさずに続けている。

「不二くん、いつもみたいに涼しい顔してるけど今日はいつもより調子良さそうだし、菊丸くんは今日ちょっと機嫌悪そうだよね」
「……たしかに。よく見てるんだね」
「みんなのこと、もっと知りたいと思って。だからこうやってその日の簡単な記録と感想つけてるの」
「へえ、」

 不二と英二から視線をこちらに戻した手塚が続けて何か言おうとしたのか口を開きかけた瞬間、響いた大和部長の休憩終了の声に私たちはバタバタとそれぞれの持ち場へと戻っていった。
 これが私の中にある一番古い手塚との記憶だった。テニスが上手くていっとう強い、真面目でちょっとクールな眼鏡の男の子。一年生の頃の、私の中での手塚の印象はこんな感じだった。





「あれはまだ続けているのか?」

 この春に大和部長たちが卒業し、私たちは二年生に進級した。新学期が始まってから一週間ほどが経ち、頬を撫でる風も穏やかに教室の窓際で揺れる乳白色のカーテンの向こうでは桜が綺麗に咲いている。開け放たれた窓の窓枠が額縁となり、まるで一枚の絵のように窓の向こうの桜の景色を切り取っていた。
 窓から入るゆるやかな風と春のやわらかい陽射しが心地良い、残り時間も十五分ほどとなったお昼休み。今日も教室で昼食後、いつものように友人たちと持ち寄ったお菓子を机の上に広げて他愛のない話に花を咲かせていると、パックのジュースを飲んでいる私の正面に座っていた子が「あっ」と小さく声を上げた。私の後ろ側に移されたその子の視線に釣られて振り返ればちょうど手塚が数メートル先からこちらに向かっていたようで、私が反射的に顔を上げたのと手塚が口を開いたのがほぼ同時だった。

「みょうじ、ちょっといいか」
「どうしたの?」

 私と目が合った手塚は何も言わずにほんの一瞬だけ目線でついて来るように言うとそのまま廊下の方に向かって歩き出すものだから、一緒にいた友人たちにちょっと行ってくる、の合図を目線で送り手塚のあとについて教室を出た。廊下を歩きながらも相変わらず学ランの背中は何も言わない。しばらく歩いてようやく抜けた人気のない渡り廊下で立ち止まった手塚がこちらを振り返った。

「急にすまなかった」
「どうしたの?」
「みょうじ、あれはまだ続けているのか?」
「あれ?」
「昨年の夏頃に話をした、部員の様子を記録しているノートのことだ」
「あぁ、あれ! 続けてるよ」
「毎日か?」
「うん、毎日というか部の活動が何かしらあった日は書いてる」
「そのノート、悪いが俺に見せてもらうことはできるか?」
「えっ」

 思いもしなかった手塚からの突然の申し出に少し戸惑う。たしかに言われてみれば手塚はあのノートのことを知っている。それでもたった今この瞬間まで手塚にその話をしたことなんてすっかり忘れていたし、手塚もまさか覚えているなんて思っていなかった。それにあのノートには個人ごとに今日は部活に遅れてきただとか分かればその理由、今日はグラウンドを何周走っていたとか調子が良さそうだとか機嫌が悪そうだったとか、そんなことしか書いていない。ずっと続けて読み返すとそれぞれの部員ごとに色々と見えてきておもしろいものではあるかもしれないけれど、乾がいつも持ち歩いて書き込んでいるような、あんな相手の返球コースの確率まで求められるような精度の高いものでもない。ほぼ私個人の趣味でつけている、各部員へのその日の所感、といったものだった。

「でも私が勝手に書いてるだけだし、多分、手塚が求めてるような大したことは何も書いてないよ?」
「あぁ、構わない」
「それにあくまで私から見た感覚、だから手塚に見えてるものとは違うかもしれないし……」
「それでいいんだ。視点は多い方がいいだろう」

 たしかにこの春から二年生にして副部長を務めることになった手塚には、自身の選手としての練習やトレーニング以外にも三年生の部長の補佐にチームや部員の管理など、やらなければいけないことが山のようにある。彼も色々考えた結果、こうして私に声をかけているんだろう。それにあのノートも、私が勝手に好きでやっていることだ。こんなものでも、それが少しでも何かしらの彼の役に立つのなら……。

「うん、分かった」
「無理を言ってすまない、助かる」

 普段いつノートをつけているのかと聞かれて部の活動があった日の大体夜寝る前が多いと答えた私に、それならその次の日に私が手塚にノートを渡してそれを見た彼がまた次の部活が終わるまでに私に返すという流れでどうかと手塚は提案してくれた。
 ちょうどひと通りの話がまとまったところでふと視線を中庭の桜に移したその瞬間、一際大きな風が私たちの間を吹き抜けた。反射的に目を瞑り、髪を抑える。風が去ったところで目を開けると桜の花弁が一枚、手塚の学ランの肩のところに乗っていた。

「ついてるよ」

 摘んで指を離すと、花弁はひらひらと下の中庭に落ちていった。

「動くな、」

 そのまま渡り廊下の手すり越しに中庭に落ちていく花弁を見ていると突然、手塚が静かに声を上げた。かけられたその声に、思わず身を固くする。

「え、なに?」

 言われたとおりにそのままじっとしていると、ついている、そう言った手塚の声と指先がすっと私の髪の表面を掠めた。あっ、と思った頃には中庭を見下ろしていた視界の中をひらひらと彼が離した花弁が舞っていく。

「ありがと」

 そう言って手塚を振り返ると、ふと目が合った。ちょうどその瞬間、私たちの近くにあったスピーカーから響いた昼休みの終わりを告げるチャイムに思わずハッとする。微睡みから起こされて目が覚めた時のような、どこかそんな感覚を覚えた。昼休み終了の予鈴に、人気のないここより少し離れた校舎内がより一層ざわめき始める。

「予鈴だ、戻ろう」
「うん」

 教室に戻り次の授業の教科書とノートを用意しながら、今日からあのノートの字はいつもより少しだけ丁寧に書こうと、なんとなくそんなことを思った。







2024.10.7




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