おなか、すいてませんか。
 そう小さく笑った彼に連れられたのは雰囲気のいいイタリアンバルで、通されたのは個室だった。あんなに会いたくなかったはずの零くんにそっくりな彼といざ会ってしまうと、今度は離れてしまうのが惜しかった。そんな私にとって彼からのお誘いは幸福で、なにを話せばいいのかわからない、そもそもなにも話すことなんてないはずの彼だけれどもう少し、一緒にいたい。
 背の低い分厚いグラスに刺さったマドラーをゆっくりかき混ぜる。なにを飲もうか迷っていた私に彼が勧めた赤ワインはすっきり甘くて飲みやすい。私の大好きなフルーツもごろごろ入っているそれはもはやフルーツポンチに赤ワインがかけられたもので、昔からこのタイプのお酒が大好きだった私は未だにワインは甘いものしか飲めなかった。やっぱりサングリアにしてよかったな。
 彼がはじめに注文したチーズの盛り合わせが運ばれてきたのは今から1時間半ほど前のことで、生ハムのサラダにビスマルクピザ、白ワイン蒸し、アヒージョ、ペンネその他の料理が他愛のない話を鮮やかに彩っている。
 それほどアルコールに強くはない私はもうすでにどこか意識がふわふわしてしまっていて、今はもう、あまり難しいことは考えられない。なにがおかしいのかわからないけれど、少し、たのしい。いつもよりよく笑っている気がした。死んだ恋人にそっくりな男と出会って2回目で(それもほぼ初対面と変わりない)食事に来ているなんて事実は小説より、とは本当によく言ったものだ。
 テーブルの向こうで一口、ハイネに喉を上下させた彼がどこか真剣な目をして、優しく口を開いた。

「実はあれから、僕が誰に似ていたのか考えていたんです。二つ候補があるので、聞いていただけますか」
「ふふ、どうぞ」
「僕たちの年齢も近そうなことから考えて一つ目、親族。まあ、一番多いパターンで言うと兄妹、ですね。兄と妹、姉と弟、はたまた双子か。さすがにここまでは考えても分かりませんでした」

 兄妹、姉弟。兄と妹、姉と弟。はたまた双子。零くんと私は同い年だったけれど、零くんにそっくりな彼はいくつなんだろう。写真なんていうのも彼の職業柄、私の強いお願いで一緒に住んでいた頃に玄関に飾っていた1枚しか残っておらず、それもかなり昔のものだから見返したところで思い出にしかならない。零くんは童顔で、本人もそれを少し気にしていた。彼から見た私はいくつに見えて、彼はいくつなんだろう。

「それから二つ目、親しい関係にあった男性。いわゆる恋人、です。まあ一般的に考えて、別れてしまわれたのかなあ、と。僕が考えるにこのどちらかだと思うんですけどどうでしょう、どちらか正解ですか?」
「んーーー、惜しいんですけど、どっちもハズレです」
「えぇ

 正解と言えば、2つ目の恋人は正解だった。けれども別れては、いない。別れてしまったのかもしれないけれど、ちゃんと、さよならを言えていない。私はあの頃から立ち止まったまま、記憶の中で鮮やかに笑う彼と未だ決別できずにいる。
 落ち着いた橙色の照明が彼の頬に陰を落とす。写真なんて残っていないけれど、私の記憶の中で笑う目の前の彼より少し幼い零くんに、やっぱり似ている。片手で頬杖をついて少し目を細めている彼も、やっぱり童顔だ。
 首が、頬が、あつい。胸の鼓動も、早い。頭もうまく、はたらかない。きっとこれもアルコールのせいで、瞳の表面を覆っている涙も飽和寸前。けれどもべつに泣いているわけじゃ、ない。目の前の彼に、記憶の中の彼が重なった。

「安室さんは、ね。似てるんです」

 死んだ恋人に。
 死んだ恋人。この言葉のはらむ重さや、薄暗さ。冷静に彼から見るとやっぱりなにか爆弾のたぐいを抱えている女だと思う。頭がうまく、はたらかない。難しいことは、わからない。頬が熱く、胸の鼓動も、早い。目の前の彼の顔が滲んで見えた。
 それでもうっとりと目の前の彼を眺めてそうぽつりと零した私に彼は眉をピクリとも寄せず、ましてや驚きもせず、そうですか、と少し眉を下げて細めたその瞳に私を映した。

「どんな方だったんでしょうね……」

 さっと傷が走ったような彼の瞳は、ひどく痛い。どうして彼が、こんな顔をするんだろう。じっとそのまま、傷が走った冷えたブルーの瞳が私を捉えて離さないから。私はなにも言えずにただ小さく曖昧に笑って口を引き結ぶしかないのだ。



「ご馳走さまでした」
「いえ」

 今度は私がご馳走しますね、と喉まで出かかった言葉は飲み込んだ。きっと次はもう、ない。会いたくないとか、そうではなくて。また彼に会ってもいい理由が、ない。

「寒いっ」

 十月も下旬になると夜はさすがに冷える。会計を済ませた彼と店を出たところで、ほんのりとアルコールの熱がこもる体をすり抜ける夜風に思わず羽織っていたトレンチコートの襟を合わせた。

「これ、よければ着てください」

 私の肩にかけられた彼が羽織っていた上着からふわりと香ったのはデジャヴ。その香りに誘われて記憶の中で散らばっていたジグソーパズルがパラパラと音を立てて繋がっていく。今の今まで、ずっと忘れていた。
 どうしようもなくなってしまって、立ちすくむ。数歩先へ行こうとしていた彼が動かない私を振り返る。どうかしました?なんて優しく細められた瞳に大通りを走るヘッドライトを反射させて。

「なんでもない、です」

 なんでも、ない。なんにも、なかった。こんなことを言ったところで、また彼が眉を下げるのはわかっていた。困らせてしまう。
 にこりとなんでもないと笑いかけて歩き出そうとしたところで、不意に視界の隅を掠めた映画の広告。はっと気付いた頃にはもう歩を進めてしまっていて、その広告に後ろ髪を引かれたまま彼の隣に並んだ。あの映画、

 特に言葉を交わすでもなく、肩を並べてゆっくり歩く。 沈黙が、心地いい。帰りたく、ない。離れてしまえば今度こそ、きっともう彼には会えない。このまま寄り道をして時間が止まってしまうか、突然道が迷路になって迷ってしまうか、永遠に帰れなくなってしまえばいいのに。
 時折揺れて触れる肩の距離や時々触れる指先の熱に、じりじりと胸が焦げる。 手は、繋げない。手を繋いでいい理由も、ない。

「あむろさん」

 楽しいのに、悲しくて。嬉しいけれど、寂しくて。立ち止まった私に合わせて向き直った彼の頬に、テールランプが落ちる。

「何でしょう」
「最後に、ひとつだけ。お願いしても、いいですか」

 頭が、舌が、いつもより鈍くて、少し重い。今はもう、難しいことは、よく分からない。でももうきっと、会えないから。これが、今日が、最後だから。最後にひとつだけ、これくらい、許してほしい。

「最後に、抱きしめてください」

 少しだけ驚いたように丸くなった目はすぐにすっと優しく細められて、分かりました、の言葉とともにそっと背中に熱が回る。おずおずと遠慮がちに回される腕がもどかしい。

「こう、でいいですか」
「もっと」

 もっと、と額を彼の胸に押し付けて背中に回した腕にぎゅっと力を込める。とく、とく、と心臓の音が聴こえる。彼は生きているんだなあ、なんて。そんなことにさえ私の涙腺は緩むばかりで、けれども結局なにがこんなに悲しいのかはわからない。彼に見つからないように、夜風のせいにしてそっと小さく鼻をすすった。
 顔なんてろくに見えないけれども零くんが、懐かしくて。これが本当に最後なんだと、寂しくて。このまま時間が止まってしまえばいいのにと閉じた瞳と鼻の奥が痺れた。




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