彼が働いているという喫茶店を地図アプリの案内で反対側の歩道に見つけた。横切る車の影に道路越しでよかったと胸をなでおろす。日もすっかり落ちたこの時間帯は明かりの灯る店内が外からよく見える。道路越しにもよく見える店内の様子をちらりと伺うと、ちょうどテーブルを拭いている彼の姿が見えた。本当にいるんだなあ、なんてあたりまえのことに口から漏れるのは深いため息。金曜日の夜だからか、お客さんは少なそうだ。入るなら今かな、と意を決して近くの横断歩道の信号を待った。
 もう二度と会うことはないんだろうなと思っていた人違いの彼に、まさかこんな形でもう一度会うことになるなんて。正直、できれば会いたくなかった。

「あれ、ない」

 ほんの数日前のこと。新しく入った仕事の予定を書き込もうとするも手帳が見当たらない。家に置いてきたのかな、なんてその時は深く考えはしなかったものの家に帰って探してみても手帳は見つからなかった。


件名:安室です。
みょうじさん
先日は失礼しました。
帰られたあと、手帳を忘れて行かれたみたいだったので、僕が預かっています。
住所を教えていただければそちらまでお届けしますが……
それか住所は教えていただかなくても、僕のシフトが入っている日の、できればシフト終わりの時間帯に喫茶店までご来店いただければ、お渡しできます。


 あの日、風見さんと会った後。携帯に届いていた新着メッセージはつい先日私が人違いした彼からで、律儀に二週間分のシフトが載せられていた。あの時、彼に連絡先を書いて渡すのに取り出した手帳をそのままあの喫茶店に置いてきてしまっていたのだ。探していた手帳が見つかったことで彼にアドレスを書いて渡していた自分に心の中で拍手を送ったのも束の間、もう一度彼に会わないといけなくなってしまった理由の落ち度が自分であることに頭を抱えた。正直、できればもう会いたくなかった。彼には悪いけれど、ハンカチならそのままメッセージも返さずに諦めたかもしれない。けれどもさすがに手帳は私も困る。プライベートだけじゃなく、仕事の予定も全部載っていた。

 さっさと手帳を受け取って、さっき百貨店の地下で買ってきたクッキーをお礼に渡してさっさと帰ってしまおう。吹き抜けた風に舞った髪が一本唇に張り付いて、百貨店のパウダールームでグロスまで塗って念入りに化粧を直したことを思い出し苦笑する。これから人に会うのだから綺麗に化粧を直すのはあたりまえのことで、べつに期待なんてしていない。私は手帳を受け取りにきただけなのだから。
 風で乱れていないか指先で念入りに髪を整え、意を決して扉に手をかける。私が扉に手をかけたとほぼ同時にチリンチリン、と小気味の良い音とともに引かれた扉から出てきた背の高い影とぶつかった。

「ひゃっ」
「わ……!……あ、みょうじさん!来てくれたんですね……!よかった。こちらへどうぞ」

 驚いて顔を上げると、同じように驚いた顔をした彼が立っていて、そのまま席へと通される。早く手帳を受け取って帰ってしまいたかったけれど、彼も仕事中なのだから仕方ない。

「ミルクティーでよかったですか?」

 サービスです、そう言って彼がミルクティーを運んで目の前に置いてくれた。

「……ありがとうございます」
「あと少しでシフトが終わるので、待ってていただけますか」
「はい、お待ちしてます」

 彼のシフトが終わるのを通されたカウンター席で待ちながら、キッチンで動く彼の背中をぼんやり眺めていた。


***


 静かな朝だった。部屋を出る前、最後に優しくぎゅうっと私を抱きしめる彼にどうしたの?珍しいね、なんてなにも知らない私はまるで大きな子供をあやすみたいに私より高い位置にある髪を撫で、無邪気に笑っていた。何も言わず、不意に顔を上げた零くんは泣きそうな顔で小さく笑うと私にキスをした。本当に、本当に優しく、丁寧に、少しずつ味わうかのような、それこそこんな風にキスをしたのは随分と長い間付き合っていたけれど初めてなんじゃないかなあなんてうまくはたらかない頭の隅で思っていた。

「零くん、いってらっしゃい」
「うん」
「怪我、しないでね。あと、危ないことも。気を付けてね」
「わかってるよ」

 靴を履き終えて立ち上がった彼は私に口づけを一つ落とし、そのまま朝の白い光の中に溶けていった。彼はそのまま帰ってこなかった。


***


「……お姉さん、泣いてるの……?大丈夫……?」

 不意にかけられた声のする方に我に帰り振り向くと、小学生くらいの大きなメガネをかけた男の子がいつの間にいたのか隣のカウンター席に座っていた。男の子の言うように気付かないうちに涙が一筋、頬を伝っていたみたいで慌てて指先で目元を軽く拭う。

「はいコナンくん、オレンジジュース。すみませんみょうじさん、もう少しで終わりますので」
「いえ」

 彼には気付かれていないはず。男の子にオレンジジュースを運んでキッチンへと戻って行った彼の背中を見届けると、男の子が口を開いた。

「お姉さん、安室さんとこの後何かあるの?」
「ちょっと用事があって彼のシフトが終わるのを待ってるの」
「へぇ……そうなんだ」


***


「はい、これ」
「ありがとうございます。よかった

 これ、お礼です。お店を出たところで彼から受け取った手帳の入った紙袋と交換でクッキーの入った小さな紙袋を差し出すと、少し驚いたように目を丸くした彼はすぐにありがとうございます、と微笑んだ。薄く弧を描いた彼の目にじりじりと胸の端が焦げる。十月の夜は冷たい。体をすり抜ける風が寂しくて、心の奥がぎゅっと締め付けられる。あんなに会いたくなかったのに、いざ会ってしまうと離れてしまうのが惜しかった。だってもう、会えない。

「今日は、お仕事帰りですか?」
「そうなんです。やっと金曜日で」
「はは、一週間お疲れ様でした」
「ふふ、ありがとうございます」
「そんなことより、おなか、空いてませんか」

おなか、空いてませんか。
彼の言葉が、私の中にじわりと滲んだ。




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