ホテルを出て車に乗り込むと、深いため息とともにそのままハンドルにもたれかかる。ひどく疲弊していた。安室透を見たと言った彼女の痛々しい顔が閉じたまぶたの裏から消えずにいた。

 降谷さんが死んだのは2年前のことだった。彼が潜入捜査官として潜入していた犯罪組織との決着にあたり、以前から一つの計画があった。
 降谷零を死亡させ、安室透として生きること。
 警察官としての降谷零を殺し、組織の人間としての安室透を生かすのだ。殺すも何も、降谷零という人間をはじめから存在しなかった扱いにする。もともとの彼自身、存在して存在しないような存在ではあったものの、今回は訳が違った。けれどもあくまでこれもすべて警察としての仕事の一部に過ぎず、彼の命を最優先した、組織へのカモフラージュ策だった。
 もちろん極一部の限られた警察関係者しかこの話は知らず、それ以外の警察関係者、降谷零の周りの人間にも降谷零は死んだと伝えなければならない。

「この人には、風見から伝えてほしい」

 死への準備を着々と進めていた降谷さんから頼みがあると携帯に電話が入り、お昼に誘われた時のことだった。向かいで鯖の塩焼きをつつく降谷さんにA4封筒を渡された。封筒を覗いて中を確認する。

「あと、その時にこれも渡してほしい」

 失くすなよ、そう手渡されたのは鍵だった。分かりました、そう言って顔を上げると不意に目が合った降谷さんは、込み上げる何かを無理やり飲み込むように、それらを耐えように、押し黙ったような顔をしていた、ような気がした。けれどもそれも一瞬のことで、すぐに手元の食事に向けて伏せられたその顔は彼の被る黒のキャップで隠されてしまった。

 組織との決着がついた夜、大きく目立った外傷はないものの意識を失い病院に運び込まれた彼はそのまま深い深い眠りについた。一週間は眠っていたのではないだろうか。まさか本当に死んでしまったのではないかと周りが心配しはじめた頃、彼のまぶたが微かに動いた。ここまでなら当初の計画通りで、すべてうまくいっていた。何も問題はなかった。
 降谷さんが記憶を失くしてしまったこと以外は。

 脳への外傷もなく、外的要因ではない彼の記憶喪失は内的要因、つまり長期に渡った過度なストレス状態、またその解放からくるものだと診断され、降谷零としての記憶のみが綺麗に抜け落ちてしまっている彼の状態にどこか合点がいった。安室透としての記憶しか持たない彼に、降谷零の記憶が戻るか戻らないかは分からないとのこと。
 もともと安室透として生きていく計画ではあったもののそれも組織との決着、壊滅から様子を見て数年間の予定。安室透であってもあくまで彼の身分は公安所属の警察官。完全な安全が確認、確保され次第降谷零は生き返る予定だった。降谷零が生き返ってはじめて降谷零としての生活を取り戻し、それまではずっと降谷零は死んだままの扱いになる。けれども彼が記憶を失くしている以上、降谷零が生き返ることはない。
 記憶を失くしていることは本人には知らされていない。記憶のない彼に下手に記憶を失くしていることを伝えてしまうのは危険だからだ。
 それでも、降谷零が死んだということは、彼の周りの人間には伝えなければならない。


 車の中で彼女の帰りを待っていた。生前の降谷さんから伝えられていた住所はオートロックのマンションの一室。インターホンを押したものの返事はなく、帰宅前なのだろうと車の中でその時を待っていた。
 待機を始めて三十分ほど経った頃だろうか。降谷さんから受け取っていた資料の人物だと思われる女性が一人、前方から歩いてくるのが見えた。顔もしっかりと確認できる。間違いなかった。

「失礼します。みょうじなまえさんでしょうか」
「はい……」

 マンションのエントランスで声をかけた彼女が、ぴくりと強張ったのが分かった。

「警視庁の風見裕也です」

 手帳を見せると少し安堵したのか、やはりどこか心当たりがあったのか、彼女の体から少し力が抜けたようだった。

「どうぞ」
「失礼します」

 彼女に通されて上がった玄関のシューズボックスに置かれたフォトフレームが目に留まった。今よりいくらか幼い、あどけなく笑う初めて見る上司の顔だった。世間では"夢の国"と称されるテーマパークでのツーショット。ひどく絵になる美男美女だった。テーマパークのキャラクターを模したカチューシャ。彼女の頭に乗せられている上司の手。楽しそうに笑う二人から仲のよさがありありと伝わってくる。

「ふふ、ちょっと恥ずかしいけど、いい写真でしょう」

 不意にかけられた声に顔を戻すと、先に中に入って電気をつけた彼女がこちらを振り返った。綺麗な人だな、と思った。

「コーヒーでいいですか?」
「お構いなく……」
「風見さんのことは、彼から時々聞いてます。彼がいつもお世話になってます。」

 お構いなく、そう伝えるも彼女は帰宅時に持っていた買い物袋をキッチンに置くと手を洗い、そのままコーヒーの準備を始めた。カウンターキッチン横のダイニングに通された自分は戸棚を開けるその華奢な背中を見つめる。まるでこれから彼女に伝えなければならないことが分かっているかのような、それを聞きたくないとでも言うように口数が増えたその小さな背中からどこか拒絶のようなものを感じた。

「ミルクとお砂糖は、1つずつでよかったですか」

 お待たせしました、と置かれたソーサーがカチャリと小さく音を立てた。意を決したように正面に座った彼女に向き直る。彼女に、伝えなくてはならない。先ほどの写真が脳裏を掠めた。

「唐突ですが……降谷さんは……降谷零が、死亡しました」




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