「すみません、人違いで……」
「いいんです」

 失礼ですが、もしよろしければ、お名前を教えていただけませんか。そう言った私に彼と見間違えた彼はほんの一瞬、目を丸くした。

「僕は安室透です。私立探偵と、喫茶店の店員をしています。こちらよろしければ、」

 どうぞと人懐っこい笑顔とともに差し出された名刺には確かに私立探偵、安室透と書かれていた。はじめから分かってはいたもののひどく落胆する。名刺があるにはあるものの私用で容易く渡しはできない職業柄、鞄から取り出した手帳付属のメモ用紙にすみません、今ちょっと名刺切らしちゃってて、なんて薄っぺらい言葉を並べながら名前と携帯番号、メールアドレスを書いて渡した。
 人違いだと分かったのに、どうして今さら私は、メールアドレスまで。
 メモ用紙が私の指先を離れる間際に浮かびあがったそれに、相手が名刺を渡してきたのだから、なんて気付かない振りをした。

「……その、大丈夫ですか……?」
「え……?」
「僕の手首を掴まれた時、今にも泣き出しそうな顔をされていたから。ちょっと気になってしまって……」

 だからつい、ここまで来てしまって。
 すみません、と申し訳なさそうに目尻を下げて笑う彼にすみません、とつられて私も苦く笑う。
 スクランブル交差点のど真ん中で彼の手首を掴んだ私の手首は今度は彼に掴まれていて、気が付いた頃には半ば彼に引っぱられるように近くの喫茶店に流れ込んで今に至っていた。 平日昼下がりの静かな喫茶店だった。
 見ず知らずの女に人違いで手首を掴まれた挙句、その女は今にも泣き出しそうな顔。喫茶店まで連れて行くと名前を聞かれて泣きそうな顔で人の手首を掴むなんてなにか爆弾のたぐいを抱えているとしか思えない女に名刺まで渡す羽目になってしまった彼にするととんだ迷惑な話で、申し訳ないのは私の方だった。
 喫茶店の店員と言っていたから買い出しの途中だったのかもしれない。彼の隣に鎮座するバケットの刺さったオレンジが覗く紙袋に居心地の悪さを感じて、先ほど運ばれてきたアイスミルクティーを口に運んだ。

「そんなに、似てますか」

 ストローから吸い込んだミルクティーが危うく気管に流れ込むところだった。危ない危ない。咳込んでしまう前で飲み込みきったミルクティーに、動揺が伝わらないようにやっとのことで聞き返す。

「え…?」
「僕はこんな容姿だし、なかなか他の人と間違えるなんてこと、ないんじゃないかと思って」

 そんなの。そんなの、私のセリフだ。似ている、なんてもんじゃない。この手にすっかり馴染んでしまっていたそれと変わらない目の前の柔らかなミルクティーブロンドの髪に褐色と言い切ってしまうには少し淡い小麦色の肌、私を見つめてすっと細められたターコイズブルーの瞳。そんなの、間違えるはずがなかった。

「似て、います…」

 ふふ、とどこか楽しそうに弧を描いた青と絡み合った視線に、胸の奥が軋んで息がつまる。胸の奥を掴まれたように苦しいけれど、嫌ではなくて。 やっとのことで絞り出した声は震えていた。
 とろりと絡み合った視線。ちりちりと焦がされて動けずにいた胸の端。 このまま時間が止まってしまえばいいのにと頭の芯から溢れ出すなにかにどこか心地よささえ感じ始めた刹那、ポケットの中で震えた携帯のバイブ音に弾かれるようにして目が醒めた。どこか名残惜しさを感じながらもディスプレイを確認すると案の定、仕事のメッセージだった。出先に向かっている途中だったことを思い出す。

「すみません、私まだこれから仕事で、もう行かないと…。あの、本当にすみませんでした。これ、」

 テーブルに置いたお金に、いいです、大丈夫です、なんて安室さんの少し慌てたような返事もろくに聞かずに会釈と踵を返した。

人違いだった彼とはもう、会うことはないのだろう。人違いも何も、はじめから、間違えようがないのだから。
 喫茶店を出て、わけも分からずこみ上げそうになる涙を、口紅が取れてしまわないように唇で唇を噛んで飲み込んだ。鼻の奥がツンと痛い。涙が溢れてしまわないように見上げた昼下がりの秋晴れはうんざりするほどの青で、やっぱり彼の瞳を思い出す。
 それでも、やっぱり……


「お忙しいところすみません、みょうじです。ご無沙汰しております。直接お伺いしたいことがありまして……」




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