※公式香水の再販を受けて思いを巡らせた、ひょっとしたらこんなことがあるのかも、なif



 珪くんの表情が柔らかくなったのは、いつからだろう。そうやって彼が小さく笑う度にわたしの胸の奥が落ち着かなくなるのも、わたしがその手に触れたいと思うようになったのも、そう願って触れた指先を彼がそっと握り返してくれるようになったのも、

 出会った頃のことを思うと控えめではあるけれど、珪くんはよく笑うようになった。そうして時々冗談を言ってわたしのことをからかっては、わたしを少し困らせる。

「……冗談」

 悪戯っぽく笑うと薄く緩む目元が好きで、少しはしゃいだ声に胸が苦しくなって、そうやって笑いかけられるとわたしは途端に何も言えなくなってしまう。恋に落ちたわたしは弱い。

 あの日はつい先月の文化祭が終わった次の週の日曜日、初めて彼から誘ってくれたデートだった。先に待ち合わせ場所に着いたのはわたしで、駅前広場を行き交う人波の中で彼を待ちながら久しぶりのデートにどこか落ち着かない気持ちでいた。修学旅行に文化祭に、高校二年生の二学期は慌ただしい。少し前まで目に染みる青色が突き抜けるように高かったはずの空も、今ではすぐそこにまで近付いてきた冬の気配を身に纏い、じっと静かにその息をひそめている。たしか最後に二人で遊びに行ったのは彼の誕生日前の日曜日で、ひと月の淡い季節の流れを今朝おろしたばかりの真新しいカーディガンの袖先に感じながらバッグから手鏡を取り出した。吹き抜ける風にさらわれた前髪を指先で軽く直す。
 そうして彼を待ちながら鏡を覗き込んでいると、不意に淡い香りが鼻先をくすぐった。ふわりと香ったそれに弾かれたように顔を上げたわたしが瞬きをしたのと、ちょうど今やってきたらしい目の前の珪くんが口を開いたのが同時だった。

「俺……遅れたな。……怒ってるか?」
「ううん、大丈夫」
「悪かったな、待たせて」

 そう言葉を続けた彼とふと目が合う。数秒の沈黙。その吸い込まれそうに綺麗なグリーンの瞳をじっと見つめたまま、わたしは目を逸らせずにいた。

「どうかしたか?」

 あまりにも何でもないようなあたりまえの顔をして、彼がそんなふうに言ってしまうものだから。わたしは結局何も言えず、聞くこともできずに、ただただ何でもないと曖昧に笑うことしかできなくなってしまう。

「ううん、何でも。行こう!」

 わたしは香りについてはあまり詳しくはないけれど、もし香りの一つ一つに色が付いているのだとしたら。あの瞬間に珪くんから感じたそれはたしかに淡い透き通るような緑色をしているのだと、なぜかそれだけははっきりとわかった。
 あの日からだった。休みの日に二人で遊びに出かけると、珪くんから香りを感じるようになったのは。


***


「ほら……」

 珪くんが制服のポケットから取り出した缶の蓋を開けて地面に置くと、ちょうど傍にいた猫が数匹、わらわらと缶詰に集まってくる。

「……ほら、おまえはこっち」

 そう言って珪くんがその輪に入りそびれていた子猫の前にまた別にミルクを開けて置いてやると、その子猫が不器用ながらもちまちまと嬉しそうに舐め始める。珪くんがわたしと同じ名前を付けた子猫だ。その様子を眺めながらわたしはお弁当の卵焼きを口に運んだ。
 この子猫に珪くんがわたしと同じ名前を付けていることを知ったのはつい先月の、文化祭の準備期間中のことだった。今思えば一年生の頃の屋上といい今年の体育館裏といい、文化祭準備期間は思いがけず彼の内側にそっと触れたような気がする瞬間が多い。
 猫たちを眺めるその横顔をこっそり見つめる。制服を着ている今日の珪くんからは、昨日も感じた休みの日のあの香りはしない。十二月に入ったばかりにしては柔らかい、緩やかな陽射しが空気を暖めながら彼の横顔の輪郭をなでる。
 あらためて考えると、べつに何も不思議な話ではないのかもしれない。昨日の別れ際、わたしの家の前まで繋いでいた手に着けられていたシルバーリングも、今わたしの隣で猫を撫でているその手には何も着けられていない。反対側のパックの牛乳を握る手も然り。わたしだって休日のデートの時にはネックレスやピアスも着けるけれど、制服を着る平日の学校の日には着けていないし、あの香りも、彼にとってのシルバーリングやわたしのそれと同じようなものなのかもしれない。

「……どうかしたか?」
「ううん、何でも」
「……? そうか」

 わたしの視線に気付いて不思議そうな顔をした珪くんはわたしの返事に穏やかにゆるく笑うと、また正面に顔を戻して俯き小さく欠伸を一つこぼした。少し昼寝でもするのか、そのまま目を閉じて動かない彼にそっと肩を寄せ、気付かれないように小さく息を吸い込む。やっぱり制服を着た珪くんからは、昨日も感じたはずの休みの日の香りはしない。それでも、初めて彼と遊びに行った時から馴染みのあるシルバーリングのことを思うと、やっぱりあの香りは彼にそっと触れた指先を彼が握り返してくれるようになった頃のことと同じくらい記憶に鮮やかだ。ひょっとしたらわたしだけが知っている、シルバーリングよりも特別な、休みの日の彼なのかもしれない。そう思うとなんとなく嬉しくなって、もう一度そっと息を吸い込む。閉じたまぶたの奥にはいつもの小さく笑う珪くんが浮かんで、淡いグリーンが微かに鼻先をくすぐったような気がした。




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