「その……先輩のことが、好きです……! 私と付き合ってください!」
「気持ちは嬉しいんだけど……今は部活に集中したいから」

 ごめんね。俺がごめんねを言い終わるよりも早く、目の前で俯いていた女の子はくるりと背中を向けて走り去って行った。たしかに言われてみれば、フェンス越しのギャラリーの中にあの顔があったような気がしなくもない。が、今となってはそんなことはもう確かめようもないしどうでもいいことで。そもそもこんな人目につかない場所に放課後の部活が始まる前の時間を指定されて呼び出されるなんて、どう考えてもはじめから告白以外に考えられなかった。しかしほぼ100%告白だと分かっていながらも、そんな呼び出しをすっぽかして女の子の気持ちを無下にできる俺ではない。たとえ結果は皆同じでも、菊丸英二の名が廃るってもんだ。
 今俺がここにいる理由の今朝靴箱に入っていた淡いピンクの封筒の姿を思い出すと何となく気疲れして、すぐそばにあった体育館裏のコンクリートの階段に腰掛けた。いくつものバスケットボールをつく地響きのような音と、シューズが床と擦れてキュッと鳴る音が背後にある閉められた体育館の扉越しにくぐもって腹の底に響く。どの部活も始まる前だ。
 時々こうして想いを伝えてくれる女の子はいるけれど、あいにく今の俺は彼女たちの気持ちには応えられない。さっき言ったように今は部活に集中したいのはもちろん嘘じゃない。

「モテる男も辛いね、英二」

 さぁ俺も部活に行くか、と息を吐いたところでかけられた声に振り返ると、この新学期で同じクラスになった不二が体育館の陰からひょっこり姿を現した。

「覗き見なんて悪趣味だぞ」
「人聞きが悪いな。たまたま通りがかったんだ」
「嘘つけ」

 まったく悪びれた素振りも見せず、いつものように穏やかな笑みを浮かべた不二がそのまま俺の隣に腰掛けるものだから、上げかけた腰をもう一度下ろした。

「結構可愛い子だったのに、いいの?」
「オレは今は部活に集中したいの!」
「ふぅん、」

 そう返事をした不二が隣を向いた俺の後ろ側に、ふと視線を移す。

「あっ、みょうじ先輩」
「えっ、ウソ、」

 不二の言葉に、俺の肩越しに移された不二の視線を慌てて追うように振り返る。が、視線の先の渡り廊下にはみょうじ先輩の姿はなく、代わりにそこにいたのは掃除道具で野球をしている男子生徒たちだった。

「ごめん、僕の見間違いだったよ」
「不二!」

 よく考えてみればここは中等部の校舎で、同じ敷地内にあるとはいえ高等部の校舎は今俺たちがいるところからは反対側にある。よく考えなくても、先月中等部を卒業した先輩がこんなところにいるはずがないのだ。こうなった不二は少しタチが悪い。

「でもあの後、二人で帰ってたよね。何かなかったの?」
「……じゃあまた明日って手振られた」
「ぶっ」

 あははは! と不二にしては珍しく声を上げて笑ったかと思うと、「先輩らしいね」なんて楽しそうに声を震わせている。

「笑い事じゃないってば」
「よかったじゃないか」
「よくない!」

 不二が言っているのは先輩たちの卒業式の日、テニス部の追いコンが終わった後のことだった。家の方向が同じだった先輩と俺は、流れで一緒に帰ることになったのだ。


***


「荷物、ごめんね。重くない?」
「ぜーん然っ、平気!」
「ありがとう」
「……寒いですね」
「寒いね、」
「……」
「……」
「……また部活見に来てくださいね」
「うん……」

 すっかり暗くなった住宅街で、今思えば先輩は少し口数が少なかったような気がする。けれどもそのことに気が付かなかったあの時の俺は、会話を途切れさせないように何とか話題を繋ごうと必死だった。

「……菊丸くん」
「はい、」

 俺の努力も虚しくいまいち弾まない会話が途切れた頃だった。街灯から死角になった曲がり角で、不意に先輩が俺の名前を呼んだ。返事をしたものの先輩から続きの言葉が返ってこない。なんとなく、どちらからともなく足を止めた。

「……」
「どうしたんですか?」
「私、」
「?」
「マネージャーとして、ちゃんとみんなに向き合えてたのかな……」

 思いもしなかった彼女の言葉に思わず目を丸くする。

「なんか急に自信なくなっちゃって……。全国も、逃しちゃったし……」

 一瞬目が合ったかと思うとそのまま俯いてしまった彼女の頬に落ちるまつげの影を見つめた。
 初めて見た時から、綺麗な人だなと思っていた。綺麗で可愛い、憧れのマネージャー。はじめはたしか、そんな感じだった。それが気が付くと、いつしか目で追うようになっていた。先輩と偶然廊下ですれ違って挨拶をした日の練習は、いつもより調子が良かった。先輩がインフルエンザにかかって学校を休んでいた間は、テンションも調子も上がらないしやっぱり寂しかった。(自分たちで見様見真似で同じ粉で作ったはずなのにあんなに美味しくないスポドリは初めて!)おまえは女のために部活をしているのかと言われそうな話だが、もちろんそういうわけではない。けれども先輩の存在が俺の日々の活力になっていたのはたしかだった。恋とはそういうものなのだ。落ちた者のみぞ知る世界。けれども目で追うようになってから、それまでは気付かなかった先輩のことがもっとたくさん見えてくるようになった。
 たとえば、いつでも一生懸命なところ。誰も見ていないところでも、どんなに大変な仕事を一人でやることになっても、決して文句も言わずに絶対に手を抜くこともなく最後まできっちりやり遂げるところ。先輩だから、後輩だから、レギュラーだから。そんな身分や肩書なんて関係なしに分け隔てなく部員みんなに平等で優しいところ。人の気持ちを思いやれるところ。めちゃくちゃ綺麗で可愛いのに、控えめなところ。そして実はすごく天然なところ。……挙げだしたら、正直キリがない。
 そんな先輩が三年生になった年、顧問の先生の意向もあって彼女にも俺たちと同じ青学のレギュラージャージが用意された。いつでも俺たちを支えてくれる、そんな彼女は俺たちと同じ、青学の"レギュラー"だ。彼女の代わりなんていない。

「何言ってるんですか! そんなのあたりまえじゃん! もう本当に先輩以外のマネなんて、考えらんないもん! みょうじ先輩は俺たちの誇りだよ!」
「菊丸くん……」
「……あ、あった!」

 大荷物の先輩の代わりに俺が持っていた先輩の紙袋からガサガサと"青学レギュラージャージ"を引っ張り出して先輩の肩にかけて羽織らせた。

「はい、これでオッケー! たしかにオレたちは自分勝手でわがままだけど……それでもそんなオレたちを最後まで支えてくれたんだもん、自信持ってよ!」
「そっか……ありがとう」
「そりゃ、先輩がいなくなるのは寂しいけどさ……でも今年は絶対全国行ってみせるから! いや、目指すは全国優勝!」
「……うん、頑張ってね!」

 そう言って胸の前で握られた彼女の小さな拳が今も忘れられずにいる。今思えば急にあんなことを言い出すなんて、"卒業"で先輩も少しセンチメンタルになっていたのかもしれない。
 そのあとは何となく先輩の口数もいつもと同じように戻って、たくさん食べたはずなのにもうお腹すいたね、とか春休みの課題のこととか(先輩が使わなくなった三年生の教科書を譲ってもらうことになった)他愛もない話をして帰った。家まで送るという俺の申し出はさり気なくちゃっかり却下されちゃったけど。

「はー、なんだかあっという間だったなぁ、」

 別れ際、先輩が寂しそうに小さく笑ってぽつりと吐き出した。

「じゃあ先輩、お元気で」
「うん、菊丸くんもね。今日は本当にありがとう」
「先輩、」
「ん、?」
「また、ね……」
「うん、じゃあまた明日」

 先輩、明日は学校ないですよ。喉まで出かかった言葉は飲み込んだ。また明日。そうだ、先輩はそういう人なのだ。大荷物の先輩の代わりに俺が持ってた花束だって、別れ際に俺が言い出すまで忘れてるような人だ。(そういうところが好きなんだけど)
 また、なんて先輩は簡単に言うけれど、そんなものはもう一生来ないんじゃないかと思う。
 どうして、同い年じゃないんだろう。俺があと一年早かったら、彼女があと一年遅ければ。同じ教室で授業を受けたり、一緒に日直をやったり、同じ時間を過ごせたかもしれない。彼女に想いを寄せるようになってから、もう何度も考えたタラレバが頭の中で反芻する。

「そろそろ部活に行かないと、また手塚に怒られるね」

 隣からかかった不二の声に、ふと思考の海に耽っていた意識が引き戻される。

「だね、」

 隣で立ち上がった不二に続いて俺も立ち上がる。学校指定の真新しい体操服に身を包んだ一年生の男子たちがサッカーボールを抱えてサッカーコートの方へと走って行く姿が見えた。そういえば今日も仮入部だ。学年ごとに色が決まっているため、先輩たちが着ていた"赤"は今年新しく入ってきた一年生が着ている。一ヶ月前まであれだけ学校中が騒いでいた先輩たちの卒業だって、今ではもう何事もなかったかのようにみんながいつも通りのあたりまえの顔をしながら毎日を過ごしている。

「また明日」

 先輩の声が、耳の奥で谺する。また明日。永遠に来ることのない"また明日"を俺はずっと待っている。




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