「よぅ!」
わたしの声にびくりと肩を揺らすと、天童君は慌てたように顔を上げた。顔を上げる瞬間に、それまで見ていた英単語帳をサッと隠したのをわたしは見逃さなかった。
「んだよ、驚かすなよな」
「こんなところにいたんだ」
教室の入り口から声を掛けたのがわたしだと分かると彼はほっとしたように一つ息を吐いた。
「なに、サボり?」
「疲れたからちょっと休憩」
「ふーん」
疲れたから休憩、なんてことを言うわりには体操着は綺麗で彼本人に汗をかいたような跡形もなく、走ったあとのわたしはこんなに暑いのに涼しい顔をしてジャージを羽織っている。英単語帳を見ていたことにはあえて触れずに、彼が座っている窓側最後尾の席の一つ前の席の椅子を引いてわたしも腰をおろした。この教室の窓からは、グラウンド一面を見下ろすことができる。
詳しい経緯は知らないけれど、今年は彼が通う羽ヶ崎学園とうちの学校と合同で体育祭を行うだとかで、会場がうちの学校になったらしい。大人たちの考えることはよく分からない。それでもこの話を聞いた時、天童君に会えるかなと少しばかり期待していたのも事実だ。
二人して並んで窓からグラウンドを眺めていると、不意に彼が顔を上げてこちらを向いた。
「てかおまえ一位だったじゃん! やるなぁ優等生」
「見てたの?」
「あぁ、バッチリな」
「そうだこれ、はい、半分こ」
「お、くれんの? サンキュ」
パン食い競争の戦利品であるクリームパンの袋を開けて半分に分ける。半分に割ったパンの片方を彼に差し出すと楽しそうに笑って受け取ってくれた。
窓の外では応援の声や歓声、拡声器を通した競技スタートの掛け声がざわめきとなって響いている。照明をつけていないこの教室の窓から入った太陽の光と小さな風がそよそよとわたしの前髪を揺らしていく。外の世界から切り取られたこの教室には彼とわたしの二人きりで、なんだか不思議な感覚だ。わたしがもぐもぐとパンを食べている間に先に二口でパンを食べ終えた天童君が口を開いた。
「いいのか優等生、こんなところでサボってて」
「疲れたからちょっと休憩」
「ははっ、奇遇だな」
ニッと楽しそうな笑みを向けられる。もう少し、わたしもこのまま彼の"ちょっと休憩"に付き合おうと思う。クリームパンの最後の一口を飲み込んで、口を開いた。
「……ここ、わたしのクラスの教室なんだよ」
「へぇ、そうなんだ。おまえの席、どこ?」
「あそこ」
あそこ、とわたしが人差し指を伸ばした先、教卓の目の前の席を見るなり天童君はおかしそうに声を上げて笑った。
「ハズレ席じゃん」
「うるさいなー」
「ワリぃワリぃ、いやでもあそこっておまえ……ははっ、」
微塵も申し訳なさを感じない謝罪を口にしながら天童君はおかしそうに肩を震わせて笑っている。むくれた顔をして見せても、それさえもおかしいようでまた声を上げて笑われる。そんな失礼な彼は放っておいて一人で視線を窓の外に戻すと、ちょうどチア部のユニフォームを着たなっちんが通りかかるのが見えた。不意にこちらを見上げた彼女と目が合って、ひらひらと手を振る。わたしが天童君と一緒にいるのが見えたのか、ニヤニヤと含みのある笑みをこちらに向けて、親指を立てて何やら合図を送ってくる。これはまた後日、話を聞かせろの合図だ。
「友達?」
「うん、親友なんだ」
「へぇ」
つい先ほどまで一人で笑っていたのにいつのまに窓の外を見ていたのか、窓の外から視線を教室に戻して教室をすっと見渡したあと、天童君は独り言のようなトーンでぽつりと呟いた。
「……なんか、ヘンな感じ」
「……変?」
「おまえとこうやって教室にいるの。なんか同じ学校に通ってるみたいな感じがしてさ」
「たしかにそうだね」
「……もし俺があのまま勉強やめないで続けてたら、なんてふと考えちまって。今更こんなこと考えても仕方ねぇのにな」
天童君が少し困ったように笑う。
「……大事なのは"今"と"これから"だよ。勉強頑張って、一緒に同じ大学行こうよ。今の、勉強頑張ってる天童君がわたしは好きだよ」
天童君は一瞬目を丸くすると、すぐにその瞳をすっと優しく細めた。
「ありがとな」
「ううん、本当のこと」
ほんの少しのあいだ穏やかに笑い合っていると彼はそうだ、と声を弾ませた。
「前向いて座って」
「なに、急に……?」
「いいから」
楽しいことを思い付いたと言わんばかりに少年みたいに目をキラキラと輝かせて、わたしに教室の黒板の方、前を向いて座るように促してくる。突然のことにちょっと不審に思いながらも言われたように天童君に背中を向ける形で椅子に座り直した。
「これでいい?」
「おぅ」
「……なにするの?」
「背中に字書くから当てろよ」
「えぇ……?」
戸惑っているわたしを一人残したまま、「じゃあいくぞ」と背中から声がかかる。
「分かっても声に出すなよ」
「うん……」
汗かいてないかな、とか。汗で体操着が湿ってないかな、とか。そんなことばかりが気になって仕方ない。そんなことを考えているうちに背中に指の感触が触れて、指先が文字を書き始めた。すすす、と背中をすべる指の動きに神経を集中させる。一文字目が終わったと思ったところで、二文字目を伝える指が動き出す。二文字目が終わり三文字目を待機するも、背中で感じ取った二文字目を最後に、三文字目を伝える指先の動きが感じられない。これで終わりだろうかと背中をなぞっていた一文字目と二文字目の指の動きを頭の中で繰り返す。
す、き。すき。……好き?!
「ちょ、ちょっと天童君……?!」
思わず身体ごと後ろを振り返る。あぁ、身体が熱い。頬も熱くて仕方ない。顔もきっと、真っ赤に違いない。それなのに、
「好き」
ちょっとだけ照れたように、でもそれよりも楽しそうに笑う彼があまりにも眩しくて、わたしはそれ以上何も言えなかった。