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 東に進む為には、どうしても川から離れなければならない。豊富な飲み水が手に入らなくなるのは痛かったが、二人は皮袋に水を詰め、大切に持ち歩く事にした。皮袋は例によってメルツの外套から取り出されたものだが、先程食べた杏と蜜の携帯食を入れていた袋らしく、水には微かに甘い味が移った。
(川から離れる前に、水浴びがしたかったな)
 エリーザベトは名残惜しかったが、水浴びをするには翼を露出するだけでなく服も脱ぐ必要があったので、そもそも恥ずかしくて出来なかっただろう。ただ、その機会が失われる事が惜しく思えた。
 狼煙の方角を確かめながら歩くと、周囲はやがて緩やかな起伏を描きながら上り下りし、背の低い茂みの生い茂る場所に出る。地形が変わると、メルツが難しい顔で香炉に粉を混ぜた。魔物が嫌う匂いのはずなのに、どうしてか爽やかな柑橘系の香りだ。
「不思議。そんな良い香りなのに魔物避けになるのね」
「うん、こういう場所の魔物は特に嫌いな匂いを持っていないから、彼らが食べない花の匂いを振り撒いて、僕らの匂いを誤魔化してるんだ。……母上なら、もっと上手く見立てるけれど」
 メルツの語尾に不安げな色が混じる。調香について語る時、彼は年齢以上に賢い表情を見せたが、さすがに心もとないようだ。エリーザベトは励ますように明るく言った。
「メルのお母様って、きっと素敵な方なのね。貴方を見ていれば分かるわ。とても頼りになるもの。そんなふうに子供へ色々な事を教えて下さるなんて、なんてお優しい方なのかしら!」
 メルツは突然褒められて驚いた顔をしたが、すぐに苦笑して尋ね返した。
「ありがとう。でも、君の母上はそうじゃないの?」
「うーん……たまに刺繍の出来や、歌を見て下さるけれど、お勉強は家庭教師が教えてくれるものだから。メルみたいに、お母様から直接何かを教わる事って少ないわ」
「そっか。僕らは群れで暮らさないから、普段は家族としかいないんだ。何かあれば集会場へ行って、物を買ったり、他の猫と話をしたりするけれど」
 エリーザベトは改めてメルツの横顔を見つめた。すんなりと通った鼻筋は上品で、とても地を這う野蛮さは感じられない。
「……私、猫ってもっと怖くて意地悪だと思ってた」
「僕もだよ」
「え?」
「だって皆、護衛は僕たちに任せて船にこもったきりだし、君だって、目が合うと隠れてしまったでしょう?」
 真面目な顔でそう問われたので、エリーザベトは再び翼が恥ずかしさで広がりはしないかと心配になった。
「ご、ごめんなさい!だって、あの頃はメルの事、誤解していたし……尻尾を見るのが恥ずかしかったから……」
「尻尾?尻尾がどうして恥ずかしいの?」
 メルツが心底分からないという顔で白い尾を立てたので、エリーザベトは困ってしまった。獣時代の名残を見せるのは鳥にとって特別なのだと打ち明けてしまうと、先程、日光浴の場面を見られた事の意味が知られてしまう。エリーザベトは口の中でもごもごと言い訳めいた言葉を連ねたが、メルツは納得していないようで、しきりと尾の先を動かしている。
 そうこうしているうちに急に茂みが開け、古い石畳が敷かれた道に出た。表面は苔で覆われているが、明らかに誰かが手を入れたものである。歩きやすくなったのでエリーザベトは喜んだが、メルツは微かに眉を寄せていた。そのまま石畳の道を進むと、ほどなくして大きな岩山のようなものにぶつかった。
「……建物かしら、これ?」
 エリーザベトは唖然として、それを見上げる。
 正面には玄関広間と思われる列柱と、七段の上り口があった。南側は崩れ、植物の根に埋もれるように侵食されている。切石が積まれた造りは故郷の塔に似ているが、そこまでの高さはなく、平べったい教会のような形をしていた。既に夕暮れの迫る時刻となり、全体を覆う緑色の苔と夕日の赤が交じり合って、ひどく幻想的に見える。
「塚山だよ」
「つかやま?」
「大きな遺跡の事。崩れて、ただの山や丘にしか見えないものもあるけど、ここはまだ建物の形が残っているみたいだね」
 メルツはそう言うと、すんと鼻を鳴らして辺りの匂いを嗅いだ。他の猫の縄張りではないか確認したのだ。それから東の空を振り返り、そこに薄れ掛けた狼煙が上っているのを確かめる。
「……中に入ってみよう。夜が来るし、雲行きも怪しいから、屋根のあるところで休んだ方がいいかもしれない」
 そうして二人は恐る恐る、塚山の中に踏み込んだ。


第一話END



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