上昇は続いたが、それは長いものではなかった。多く見積もっても五分程度だろう。下降の時間に比べると、あっという間だった。
 誰かが慌ててスイッチを押したように、天井の明かりがつく。続いて操作パネルが、最後に表示盤が復旧した。
 エレフは操作パネルに向き合い、非常用の連絡ボタンを押してみる。カチリと音がしたが、特に反応はなかった。
「エレフ、2階に来たみたいだぞ」
 レオンに促されて表示盤を見上げると、長らく同じ場所に留まっていたオレンジの光が「1」から「2」へ移動していた。そのまま、3、4、5、6……と進んでいく。
 そして、ついにエレベーターが停止した。
 階数表示は「7」。
「……運の良さそうな数字で止まったね」
 僅かな希望を見出すようにレオンが言った。二人が見守る先で、ゆっくりと扉が両側にスライドしていく。
 その時、微かな黒い影がエレベーターの外側から出口に向かって走り抜けていったのが見えた。輪郭ははっきりとしないが目を凝らすと、レオンと似た年恰好の男のように思える。それはすぐに視界から消えた。
「今、誰かいた」
「何?」
「男だ。そっちに走っていった」
 エレフが外を指差すと、完全に開ききった扉の向こうにマンションの廊下が続いている。
 それはごく普通の、レオンの住んでいた十七階と同じ間取りの廊下だった。真っ直ぐに伸びた廊下の両側には、等間隔で住人達の部屋が並んでいる。突き当たりには摺りガラスが嵌められた扉があり、上部には非常出口を示す緑色の明かりがついていた。
 誰もいない。
「……こういうのは、普通、安易に降りると良くないと聞いた気がするのだが」
 レオンが片手で扉を押さえながら外を覗き込んだ。ネットで読んだ、異世界に続くエレベーターの話を思い出したのだろう。
 だが廊下の窓から見える空が赤いだとか、妙に静かだとか、そうした異常は見つけられない。耳を澄ませば夜の街にありがちな、車のクラクションや電車の通過音が聞こえてくる。何の変哲もない人々の生活音だった。
「……他に道がないだろ」
 エレフは腹を決め、レオンとは反対側の扉を押さえる。
「俺が先に行く。また何か見えるかもしれない」
「大丈夫か?」
「ああ」
 レオンは一度こちらの顔を見て、頷いた。
「……いざとなったら、向こうの非常階段から一階に下りよう。見たところ元に戻ったようだが、もうエレベーターに乗る気は起きないからね」
 そう言うと体を退け、道を明ける。エレフは床からスポーツバックを拾い上げて肩に担ぎ、深く息を吸って気合を入れると、先頭に立って外に出た。レオンが後ろに続く。
(さっきの影はどこに行った?)
 二人をおちょくって、満足して消えたのだろうか。だとしたら話は早いのだが。
 夜になったせいだろう。廊下には照明がついていた。入り込んだ蛾がその光に体当たりし、ばちばちと嫌な音を立てている。少し進んだところでエレベーターのドアが自動的に閉まる音がした。振り返ると、何事もなかったように呼び出された階へ向かっている。あっけない退場が不気味だった。レオンも怪訝そうにそれを見送っている。
 廊下の中ほどまで歩いたところで、突如言い争う声が響いた。
「誰か、誰か助けて!」
 二人は警戒して立ち止まる。
 右手にある部屋の扉が開き、若い女性が飛び出してきた。長い髪を振り乱し、ほとんど這うようにして廊下に転がり出る。靴も履いていない。裸足だった。
 二人は無言で「もしかしたら彼女も幽霊か化け物ではないか」と顔を見合わせたが、さすがに口には出さなかった。彼女の後から、いかにも怒り狂った様子の男が出てきたからである。そして女性の襟首を掴み上げると、馬乗りになって殴りかかろうとしたのだ。
 エレフは急に刑事もののドラマの世界に入り込んだ気持ちになった。夕方に再放送している一時間のドラマ。逃げ出す女、追いかける男。痴情のもつれ、あるいはストーカー。
 どちらが先に我に返ったのか分からない。少なくとも、最初に駆け出したのはレオンだった。エレフは邪魔なスポーツバックを放り出さなければならず、一拍の後れを取ったからだ。駆けつける間にも男女は喚き続け、一発、女の頬に平手が飛ぶ。
 先に辿り着いたレオンが、腕力に物を言わせて男を引き剥がした。投げ飛ばすようにして床に転がす。尻餅をついた男は部外者の介入に驚いたものの、レオンの顔を見ると、てめぇが浮気相手かと怒鳴り散らした。
(……なんだこれ)
 そう思いつつ、エレフも加勢する。震えている女の無事を横目で確認しながら近付くと、レオンは男と軽く揉み合った末、後ろから羽交い絞めにしていた。男の脇腹が無防備に晒されている。
「エレフ!」
 促すようにレオンが声を張り上げた。言われなくても、と右腕を奮う。戦意を喪失させる為に顎を下から殴ると、男を押さえつけながら、レオンがちょっと驚いたように目を丸くしているのが見えた。そう言えば喧嘩の場面に兄が立ち会うのは初めてだ。
「私を殺そうとしたんです、その人!」
 裸足の女性が泣きながら叫び、やっぱり痴情のもつれかストーカーだな、とエレフは確信した。



 その後、繋がるようになった電話で警察を呼び、二人は何事もなくマンションから出ると、そのまま参考人として簡単な事情聴取を受けた。
 レオンと別室になり、一人で取り調べを受けていると、質問を投げかける警官の横に黒い影がぼんやりと現れた。エレベーターで一瞬見かけた、あの霊のようだった。細身の若い男である。
『いやー、ようやくお兄さんから離れたので話しかけられますよー。あれですかね、男でも美形だと神様がおまけして色々と凄い能力とかつけてくれるんですかね。きらきら眩しくて近寄れないんですもん。あんたは逆に俺が見えるんですよね?』
 妙にチャラい奴だった。警官が見ているので反応を返さずにいたが、霊は構わずしゃべり続ける。
『いえね、俺、あの部屋の女の人の事、ずっと前から知ってたんですよ。よく下のコンビで会うんです。ちょっといいな……って思ってまして。えへへ。で、俺、色々あって死んだんですけど、何だか上手く成仏できなくてマンションをうろうろしていたら、変な野郎が彼女の事をつけ回しているのに気付いたんです。初めて見ましたけど、ストーカーって酷いもんですねぇ。野郎の妄想では彼女と付き合ってる事になってたみたいで、ついに昨日、どうやったんだか彼女の部屋の合鍵を手に入れたみたいだったんです。こりゃ危ないぞと思ったんですけど、俺がどうやったって彼女を助けられる訳もないし、男はいそいそと部屋に入って彼女を待ち伏せしてるし、ああ神様仏様どうにかして下さいー!ってお祈りしていたら、ちょうどあんたとお兄さんが見えまして』
 その時ばかり、エレフは片眉を上げた。
 へえ、それで?
『お二人とも何かスポーツでもしてるんですか? お兄さん凄ぇきらきらしてて全然近寄れなかったんですけど、二人とも喧嘩がお強そうだったんで、申し訳ないけど協力してもらおうと思ったんです。それで彼女、実はダイエット中で、最近はエレベーターじゃなく非常階段を使うんですよ。帰ってきた彼女とストーカー野郎が鉢合わせをする、まさしくその瞬間にお二人が駆けつけてくれるように……その時まで足止めをしておきたくて……時間稼ぎにエレベーターを色々と弄りました、ホントすんません! 途中であんたが俺らの事が見える人だと気付いたんで、説明したかったんですけど、どうしても姿を見せるほどには近づけなくてー!』
 よくまあ、しゃべる霊だな。
 男の霊は取調室から出た後もエレフの後ろをついてきて、自販機でコーヒーを飲んでいる間もあれこれ話しかけてきたが、遅れて事情聴取を終えたレオンがやってくると『あわわわわ』と情けない声を出して消えていった。
(今になって成仏しやがった……)
 どっと疲れを感じる。悪い奴ではないようだが、他に手段はなかったものか。
 帰る道すがらその内容を話すと、レオンは呆れたように「エレベーターは関係なかったのだな……」と呟いた。
「そもそもエレベーターどころか、俺達も関係ない」
「そうか……。まあ、幽霊とは言え、頼られただけ光栄なんだろうか……人助けにもなったし……」
 まだ気持ちの整理がつかないのか、レオンも歯切れが悪い。久々に取っ組み合いで肩が痛いなぁ、とぼやいている。
 既に家には電話を入れ、遅くなった訳を話していた。ミーシャが半ば怒ったように「本当に大丈夫なの? 私、迎えに行くよ?」と提案してきたが、大丈夫だから家で待っててくれ、と説得している。あのチャラい男の霊は成仏したようだが、回り回って復活し、妹に取り憑いたりしたら。霊とは言え、今度こそ殴る。
「事故物件のお払い、これで終わりだろ。この後はどうするんだ?」
 歩きながら、まだ住むつもりなのかと尋ねる。どういう契約になっているのか知らないが、問題が解決した以上、レオンがマンションに留まる理由は消えたはずだった。
「もう少し住むよ。せっかく格安で借りた部屋だしね」
「……ふうん」
「落ち着いたらミーシャも連れて遊びにおいで」
 その話し方があまりに自然で、エレフはスポーツバックを抱え直しながら夜空を振り仰いだ。少し首を傾けて隣を見れば兄がどんな表情をしているか確かめる事はできるが、それはあまり意味のない事のように思える。
(こういう体質じゃなかったら、レオンはもっと早く家を出ていたんだろうか)
 子供の頃、早く、誰にも頼らないでいられるようになりたかった。怖いものを見るたびに怯えているのは惨めだった。レオンやオリオンに頼らなくても、ミーシャを守れるようになりたかった。子供扱いばかりは御免だった――その延長線上に現在がある。
 このまま、離れていくのもいいのかもしれない。レオンが大学を出る頃には、エレフとて身の振り方を決めているだろう。よく聞く一般的な家庭のように、互いに仕事に励み、正月にだけ実家に帰って酒を酌み交わすような、そんな日が遠からずやってくる。ゆったりとした密度になって初めて、自分は兄と対等になれるのかもしれない。
 だが、ふと思うのだ。あのままエレベーターが止まらずにいたら、自分達は有り余る時間の中で、どんな言葉を交わしていたのだろう、と。


 翌朝、レオンから電話がかかってきた。
『鋏が見付かったぞ』
「……は?」
『最初に話しただろう、引越し初日になくなった鋏。今朝、リビングのクッションに刺さっているのを見つけたんだ。昨夜は確かになかったんだぞ。エレフの言っていた霊の悪戯だな』
 やはりこれも心霊現象だったんだ、とレオンは嬉々としている。寝起きのまま流し聞いていたが、じわじわと嫌な予感が忍び寄ってきた。
 あのチャラい霊。死して尚、人が良さそうだった。意味のない悪戯をするとは思えない。それに鋏とは言え、刃物は刃物だ。クッションに刺さっていたとは穏便ではない。時間的にもつじつまが合わない。
 思い返せば、エレベーターで聞いた猫のような女の泣き声は何だったのだろう――。
「……俺、今日の帰り、オリオンも連れて遊びに行くから」
『ん? 夕飯でも食べていくか?』
 もしかしたら、まだマンションには他の何かがいるのかもしれない。







END.
(2014.07.05)


エレフが途中で話す短編映画は『エレベーター』、レオンが話す小説は中島らもの『ラブ・イン・エレベーター』です。殺人エレベーターの話は私も子供の頃にロードショーでちらっと見たきりで覚えていません……。そういえば『リヴァイアサン』にも異次元に続くエレベーターの話がありましたね。



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