地の贄、海の榊.6








 シリウスの船に連絡が来たのは、アメティストスが軍艦相手に立ち回りを繰り広げている、ちょうどその頃だった。弓兵の小船が連絡用の矢を放ったのである。慌てて四隻の船を率い、波止場へと向かうと、そこは既に激戦区になっており、たちまち誰もが白兵戦に加わった。
 しかしこれだけの戦力差があるのに、部隊は死傷者も出さずに戦線から離脱する事に成功した。討伐隊が恐れをなして勝手にうろたえていた事も大きいが、その日は特に運が向いていた。敵は足を滑らせて海に落ち、倒れる帆桁に巻き込まれ、同士討ちをし、ばたばたと数を減らしていく。部隊が沖合いまで逃げおおせた頃には日没となり、追跡の船が出る事もなかった。
(凄ぇラッキーだけど、何か嫌だな。こういうの)
 一段落した船の上。シリウスは眉を強張らせ、汚れた剣の手入れをしている。本当なら二隻目の小船を放った手柄を鼻高々に誇ってもいいはずだが、とてもその気にはなれなかった。褒めてもらいたい訳でもないのに、自分の臍は勝手に曲がってしまったらしい。
「今夜は海で夜を明かす。交互に見張りを立てて、潮と風に注意をしろ」
 アメティストスは船べりから身を乗り出し、返り血でごわごわに固まった髪を洗っていた。ざぶりと頭を上げて水滴を絞ると、着替えた服の袖口でさえ桃色に染まっている。シリウスは剣を布で拭い、膝の上に置いて主人を見た。じわじわと腑に落ちない気持ちが広がり、うまく返事ができない。
 アメティストスは平気な顔で海水に触れている。髪も痛むし、傷口にも滲みるだろうに。大きな傷はないようだが、シリウスは彼の手首に残る数本の傷に目を引き寄せられていた。
 夕方、アメティストスと共に最初に軍船に乗り込んだ少年が、興奮した口調で紫眼の狼の活躍を仲間たちに捲くし立てていたのを思い出す。本当に凄かったんだ、まるで一人だけ赤い道を行くようだった、と。しかし小声で、どうした訳か何度か自分の腕を切ったのだ、とも。
「どうして、すぐに連絡してくれなかったんですか?」
 低くシリウスが尋ねると、アメティストスは濡れた髪を肩口で編みながら、つと視線を上げた。
「……ああ。悪い、忘れていた」
「俺、言いましたよね。何かあったら矢を放ってくださいって。そしたら応援に行きますから、って」
「そうだな……そうしたら最初の六人も予定通り船で拾えたかもしれない。後で迎えに行かなければならないな。すまない」
 口では謝罪を重ねながらも、アメティストスには反省している様子がない。それどころか密かに満たされた声をしている。シリウスから視線を外し、目を伏せて右脇の髪を編み直している姿には、穏やかな一日の終わりに相応しい静けさがあった。シリウスはそれが気に入らない。
「慎重にした方がいいって最初に言い出したのはあんただ。それなのに、どうして忘れたなんて言えるんですか。俺、何かあるのかなって心配しましたし、その為に色々と手も打ちました。何とか死人も出さずに済みましたけど、結局、計画通りにはいかなかったし」
「……シリウス」
 いつになく苛立った口調を咎めるように、アメティストスが静かに名を呼ぶ。日が落ちた海面に息を落とすような声で、彼はふっと微笑んだ。
「心配するな、もう誰も死なない。私も含めて」
 口元からとろけるような、柔らかい、どこか恍惚とした表情だった。議論の全てを飛び越えて、ただ安心しろと告げる。暮れ始めて浮かび上がる淡い月を背負い、彼はくつろいだ様子で髪を編んでいた。
 ぎくりとシリウスは目を見張る。こんな笑い方をするような人だったろうか?
(……やっぱり止めるべきだったんだ。あの時)
 根拠はない。だが直感が告げるものがある。凛と張り詰めた横顔をずっと見てきた。こんなふうに何かに心を預けるような顔は、知らなかった。シリウスは喉元から競りあがってくる棘のある想いを、どうにか形にしたくて堪らなくなる。
 あんたは間違ってる、それは正しいやり方ではないんですよ、と。
 あんたが大将だ。俺たちの頭だ。そりゃ、先陣を切ってくれるならどんなに頼もしいか知れない。だけど俺たちはあんたの手足であり、剣であり盾だ。使ってくれなきゃ錆びちまうし、使ってくれなきゃ悲しい。好きであんたに付いて来たんだから死ぬ事だってきっと後悔しない。部下があっての主人だ。誰も犠牲になってくれないような主人は単純に器ではないんだ。あんたが一人ではできない事をするのが俺たちの役目で、その代わり、俺たちができない事をあんたにしてもらう。だからこんなふうに無理やり全部あんたがこなす必要はないんだよ、と。
 どれだけ乱暴な言葉をぶつけようと思ったか知れない。ここで一緒に安心してしまったら、いつかまた同じ事が繰り返される。前例を作ってしまう。彼はまた皆を残し、勝手に血を浴びにいく――それはもはや軍でも部隊でもなかった。
 結果のみを突き付けて、こちらの不安を押さえつける彼のやり方を、その時、シリウスは確かに恨んだ。非道だとさえ思った。不釣合いなアメティストスの晴れがましさを拭い取ってしまわなければと分かっているのに、しかし反射的に込み上げてきたのは、苦しいほどの切なさで。
(だって、それでも、この人が戻ってこなくなるよりはいいんだ)
 きりきりと弓を引き絞るように、少しずつ何かが変わってしまう予感がある。それがどんなに釈然としなくても、飲み込まなければ側にいられないのならば、やはり自分は彼を見送ってしまうだろう。嫌だ嫌だと思っても、その後にくっついて走り出す為に。
(ああ、本当に俺ってただの犬だ。剣にも盾にもなれやしない)
 本当は寂しかっただけなのかもしれない。自分の忠告なんか気に留めず、軽々と壁を乗り越えていってしまう彼の事が。でも、たぶん、それは別に正しくもない代わりに、最も効率のいい道には違いなくて。
「では……お前たちにも見せ場を作ってやる」
 シリウスの沈黙に何か読み取ったのか、アメティストスは表情を元に戻した。そこにはまだ笑みの気配があるが、先程のような恍惚としたものではない。彼は瞬き、結び終えた三つ編みを背に流すと、歩み寄るように低く声をかけた。
「明日、港に戻るぞ。忘れ物をしてきた。色々と拾ってこなければならない。シリウス、もう一戦やれるか」
「そりゃあ」
 シリウスはぎこちなく微笑む。無理やり搾り出した笑顔は自分でもみっともないのだろうと分かった。だが仕方ない。どうしてか、ここ最近で一番泣きたい気分だった。
「あんたの場合はやれるか、じゃなくて、やる、なんでしょう……いいですよ、あんたの願いを叶えましょう、大将閣下」
 変わらぬものなど何一つない。だから自分も変わるしかない。犬は犬でも、多少は役立つ猟犬にはなれるだろうから。





* * * * * * *





 翌朝、舞い戻った陸地では、彼らはまず浜辺に寄り、取り残した男たちを回収した。彼らは偵察の為に市街に残っていた為、部隊の動向を聞いて心配していたようだったが、自分たちを迎えに来てくれた事と死人が出なかった事を聞いて素直に喜んだ。
 商人の屋敷では、既にオルフェウスの復讐が下されていたようだった。あのごたごたの際に主人が殺されたと言う。取り押さえられたオルフェウスは再び奴隷として市場に売り出されたらしい。どうしますかとシリウスが聞くと、アメティストスは探してみるかと答えた。彼の裏切りは誰にも知らせておらず、ただ騒ぎの途中ではぐれたのだと説明していた。
 元から襲撃する予定だった市場である。そう手間は掛からなかった。天幕が張られた広場で、再びアメティストスは青年を見つける。恋人の骨は見つからなかったのだろう。紐で手首を縛られ、長い前髪で焼き印を隠し、俯いて部隊の襲撃すら気付いていないように見えた。剣を取る勇気があるなら私と共に来るがいいと――突きつけた剣先でアメティストスが語ると、結局、よたよたと後を追ってくる。それは炊きつけられたと言うよりも、押さえつけてきた長い長い苦痛にようやく気付いたような走り方だった。
 以後オルフェウスは本名を捨て、部隊内ではただオルフと呼ばれる事になる。狼の呼び方に近いその音に、やはり彼はもう一人の自分であったのだとアメティストスは皮肉に感じた。山育ちな事があって長らく船酔いには悩まされたようだが、次第に部隊に馴染んでいくと、弁が立ち、馬と弓の扱いが抜きん出ている事が分かり、やがてシリウスと共に側近に抜擢される事になる。何より彼の忠誠心には目を剥くものがあり、その情熱でもって主人の信に応え続けた。
「お前、あの時は本当に私たちを売り渡すつもりだったのか?」
 一度、アメティストスは二人だけの席でそう聞いた事がある。オルフは窮屈そうに微笑むと、こくりと頷いた。
「エウリディケを助ける為になら、何をしても間違いはないような気がしていました。今でなら、他に方法があったのではないかと思いますけれど」
 アメティストスも彼の気持ちは理解できたので、特に責めるでもなく苦笑するに留めた。誰にでも失えない半身がいる。惹かれ合い、支え合うべきなのに、どうしてか取り残される事も。
 彼の恋人の遺骨がどこに消えたのか、それは遂に分からなかった。









END.
(2012.06.14)

二次創作をやっていると時々「ここはあえて解釈を変えて書きたいな」と思う事があるのですが、それがオルフ参入のエピソードでした。我が家のオルフはオルフェウス設定なので過酷な過去にしたかったと言うか、焼き印ネタをしたかったと言うか、二度、アメティストスに迎えに行かせてあげたかったので。
そしてアメティストスの冥王侵食はシリウスとの微妙な距離ができる節目になり、ここから呼び方も「大将」から「閣下」へ変わります。


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