地の贄、海の榊.5







 風はたっぷりと陽光を含んでいる。シリウスは甲板に座って空を眺めながら、じっと耳を澄ましていた。
 陸に下りた七人には、緊急事態には鳴り矢を使うように、と伝えてある。矢に特殊な笛を括りつけ、放つと鳥のような音を出す道具だ。聞きつけた際には全力で救出に向かわなければならない。
(もしかして、遠すぎて聞こえないって事はないよなー…)
 シリウスは落ち着かずに足をもぞもぞと組み替えた。慎重に事を進めているはずなのに、どこかで決定的な間違いを犯してしまったような後ろめたさが離れないのだ。どうしてだろうと考えるが、それはいわゆる感覚的な部分で、確かめようとすればするほど手の中から逃げてしまう。
 主人の突飛な行動に慣れているはずのシリウスも、アメティストスが偵察に出て行ってしまった事に焦燥を隠せなかった。他に用事ができたと言っていたが、本当だろうか。アメティストスが具体的に何を恐れているのかはっきりしないが、ここ最近のぴりぴりとした空気は不穏なものがある。雪を被った細枝が徐々に重みを増し、しなり、ある日ぱきりと折れて全てを振り払うのを見守っているような感じだ。
(無駄かもしれないけど、もう一隻出してみるか?)
 最初の段取りにない計画はするべきではなかったが、アメティストスが不在の今、全権を任されているのは自分である。万全を期す為には躊躇ってはいられない。彼は翌朝の迎えと称して小船を出させ、更に八人の男たちを陸に放った。自身で行きたい気持ちもあったが、持ち場を離れる訳にはいかない。念の為に弓兵ばかりを選出したのは、何かあった時に遠距離から支援できる人選の方がいいと思ったからだった。
(あーあ、もう、本当に勝手なんだから。早く帰ってきてくださいよ)
 シリウスは苛立たしげに頭を掻き、鼻息荒く腕を組む。太陽は傾き始め、空は徐々に色合いを薄めていた。見つからないように船を止めて待機している時間はまだ半日足らずだと言うのに、時間はまるで泥のように粘着質に、のろのろと過ぎていった。




* * * * * * *





 屋敷から出たアメティストスは、剣を収めて往来に身を紛れ込ませていた。シリウスが貸してくれた白い外套は血に染まっていた為、仕方なく剥いで道端に捨てる。特徴的な紫交じりの銀髪が露わになったが、それに構っている暇はない。
 オルフェウスは港から討伐隊が出ると言っていた。まだ然程時間は経っていない。上手くいけば伝令からの話は伝わっていないはずだった。浜に戻って一人で小船に戻るより、そちらの方を先に襲撃すべきかもしれない。尻尾を巻いて海に逃げる事はできたが、後を追われては憂いが残る。
 彼には部隊の全員から、死の《影》を引き離さなければならないと言う意識があった。その為、矢を使って連絡をする事もわざと省いていた。応援に来た男たちを無駄死にさせたくなかったのは勿論、ひとまず伝令さえ始末すれば十七隻もの討伐隊を相手にする必要はなくなる。いずれ屋敷で起こした騒ぎが伝わるだろうし、こうして歩いていれば自分の正体を知る者が出てくるだろうが、敵の数を減らしておくのに越した事はないと考えたのだ。
「アメティストス様!」
 声を掛けられて何事かと思えば、共に小船を下りた六人のうちの一人がいる。一番若い十六の少年だった。忠実に任務に当たっていたようで、偵察の為に話し込んでいた店先から驚いたように顔を覗かせている。
「どちらに行かれるんですか!お怪我をされているみたいですし、俺も一緒に――!」
「構うな、急用だ」
「いや、だったら尚更!」
 あわあわと少年が後を付いてくる。厄介だったが、撒こうにも目立つ髪を隠すものはなく、目指す場所も一本道だった。しかし往来の混雑が邪魔をしたのか、呼びかける少年の声は遠ざかっていく。このまま見失ってくれないだろうかと期待し、アメティストスは少年を切り離して先を駆けた。
 坂を下っている間に事態は悪化していたようである。思ったよりも伝令の足が速かったのかもしれない。港に辿り着くと、波止場から例の討伐隊だと思われる軍船が早くも兵を乗せ、最初の舫い紐を緩めるところだった。シリウスたちのいる沖合いへ向かうつもりだろう。
 アメティストスは舌打ちをしながら人ごみを掻き分ける。そして野次馬たちを押しのけ、ぽっかりと空いた広場で再び剣を抜き放った。何事かと驚いている討伐隊の面々を視界に捕らえ、我に還る前に次々と切り捨てていく。
 一人での襲撃は久々だった。思えば、シリウスたちと会うまではこんな事ばかりしていたのだ。波止場を駆け、一番手前の渡し板に飛び乗り、軍船へと乗り込む。嗅ぎ慣れた船と潮の匂いと、むっとするような熱気が体を包み込んだ。ぎょっと振り返る男たちの顔と、紫眼の狼が来たと叫ぶ声が交錯する。
「殺せ、殺せー!」
 どこからか討伐隊の司令官らしき声がしていた。しかし少年時代から海賊の真似事をしていたのだ、要領は分かっている。背後を取られないよう気を配り、血で滑る足元を味方につけ、勢いのまま着実に片付けていけばいい。黒き剣は神器の一種のようで刃こぼれする事もなく、有象無象にやられるほどアメティストスも経験の浅い男ではなかった。姿勢を低め、揺れる海上でバランスを取りながら剣を奮う。隙があれば蹴りでも肘打ちでも食らわせた。
(しかし、さすがに十七隻は無茶だな。逃げる者は見逃すとして、それでも骨が折れるのは変わりない)
 そう思った途端、ざん、と周囲の音が断ち切られる。
『息子よ』
 毒のある甘い声が響いた。冥王だ。青白い両手が眼窩に食い込んでいるのを感じる。それは横へずるずると這っていき、今度はアメティストスの両耳を覆った。視界は先程と同じまま軍船を映しているのに、耳元に接する空間だけが水中のように歪み、その声を届けている。
『良い方法を教えてやろう。後ろからお前の部隊の子供が来ているぞ。彼の《影》を使って――』
 ざん、と声が途切れて周囲の喧騒が戻ってくる。振り返ると、本当にあの少年が青ざめた顔で追ってきていた。これだけ騒ぎになっていれば見つけるのも容易だったのだろう。切り捨てられた人間を踏み越え、こちらの視線に気付いて笑顔を見せる。
「アメティストス様!」
 具体的にどうすればいいのか分からず、アメティストスは少年の背負っている《影》を凝視した。冥王はこれをどう使えと言うのだ?
 ひとまず少年に襲い掛かっていた討伐兵の腕を切り落とし、引きずるように背後に置く。うろちょろされても足手まといだ。うわぁと間の抜けた声がしていたが、恐怖を感じていると言うより単に興奮しているようで、なかなか図太そうな少年である。《影》はその背後に張り付いていたが、アメティストスの近くに寄るとぴたりと止まり、続いてじりじりと身を震わせ始めた。
(何だ。何に反応している?)
 屋敷で囲まれた際、《影》が味方についた時の事を必死に思い返す。今とそう状況は変わらないが、何かが《影》たちを従順にしたはずだった。
 はっとして、アメティストスは左腕を上げる。小さな掠り傷は既に乾き始めていた。露わになった己の二の腕の中心を掲げ、右の剣で軽く薙いだ。細い線が引かれた場所を押し開けるように、赤い血が玉になって膨れ上がる。
 そこから、ふっと紫色の光が見えた気がした。それは冥王の力が見せた幻だったのかもしれない。しかし《影》は途端に身を躍らせると、ぱっと少年から離れ、アメティストスの腕の傷を掠めるように行き過ぎた。そしてそこからアメティストスの意志を読み取ったのように、集まりつつある敵を目掛けて飛んでいく。
(餌か、生贄か、それとも単なる代償か。いや……どれでもいい。どれでも構わない)
 アメティストスは苦笑した。ともかく、この血に惹かれて《影》は擦り寄ってくるらしい。少年に下がっているように怒鳴ると、アメティストスは再び甲板へと踏み込んだ。《影》は次々に広まって船上を覆い始める。死の宣告はアメティストスの戦い方も助けた。ひとまず順繰りに濃い《影》を見つけていけば、効率的に首を刈れるのだ。
 一つの軍船を奪えば戦い方はぐっと楽になる。ちょうど良く帆が張られ、アメティストスの乗る船は風を受けて自然と波止場から離れようとしていた。増援が途切れ、浴びた血を拭いながら一度息を吐く。
「アメティストス様、あちらをご覧に!」
 少年が威勢良く叫んだ。彼も彼で何人か倒したようで、いつの間にか不釣合いな大剣を持っている。指差す方を見ると、波止場とは反対の方角から弓兵を乗せた小船が近付いているのが分かった。
 目を凝らせばそれは部隊の者達で、こちらを見つけて必死に手を振っている。まるで今から助けますから任せてください、と声高に励ますように。置いてきたはずなのに、どうやって嗅ぎつけてきたのだか。背負った《影》はその手振りに押され、ふらふらと迷惑げに揺れていた。アメティストスには何故かそれが目を見張るほど眩しく見えた。
 ――ああ、昔、私はお前たちを本当の意味で助けた訳ではない。破れかぶれで抜き取った剣が使える物なのか、本当に自分は誰も救う事ができないのか、確かめてみたかっただけで。似たような境遇の者を集め、怒りを煽り立て、奮い立ちたかっただけに過ぎないのかもしれない。
 けれど、やはり私はお前たちの長であったようだ。死の《影》を追い払ってやる事が、こうも誇らしく感じるのだから。
(いいだろう。お前たちの生死、私が振り分けてやる)
 どこまでも戦える、と思った。もう何一つ、この身から奪われはしないのだと。





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