地の贄、海の榊.4








 人目のある港を避けて迂回しながら浜に着くと、既に真昼に差し掛かる頃になっていた。小船を担いで茂みの中に隠し、上陸した痕跡を消すと、彼らはさっそく市街に出かける。
 シリウスならば二人ずつ組を作らせ、協力して様子を見てくるように言っただろう。六人とはその為に用意された数字だった。しかしアメティストスは戻ってくる時刻を確認した後、各自ばらばらに偵察してくるよう言いつけ、浜辺で散会させた。《影》のない青年が一人でどう行動するのか見張る為である。アメティストスは真っ先に浜から出て茂みに身を潜めると、人のいなくなった頃合を見計らい、密かに後を追った。
 青年は六人の中でも出発が遅く、最後を見届けるようにゆっくりと歩き出した。船酔いをしていたのか足取りが頼りない。口元を押さえながらよたよたと浜を進み、まばらに草木の生えた砂地を突っ切ると、やがて踏み分けた道に出る。左手に行けば港に続く太い街道だ。彼は具合が悪そうにしながらも迷いのない身振りでそちらを進み、人里へと下りていく。視力にも自信のあるアメティストスはしばらく岩陰に隠れ、距離を取ったまま様子を観察した。
 この青年と自分だけが生き残るような事態――となれば、それは裏切りではないか?
 彼が敵に通じており、奴隷解放の要である《紫眼の狼》の身柄を高値で引き渡して、味方を襲う。それならば筋が通るのではないか?
 身内を疑うのは良い気分ではなかったが、膨れ上がった部隊の全員をアメティストスとて把握している訳ではない。全滅を避ける為には賭けに出る必要があった。
 落ち合う時刻は翌日の早朝、太陽が昇る頃。それまでに偵察を引き上げ、四隻の本隊と合流する――死せる者と生き残る者の明暗がどこで分かれるのか定かではないが、深まりつつある《影》の色を考えれば、そう遠い出来事とも思えない。青年が何度か周囲を気にするように振り返るので、アメティストスは次第に確信を深めていった。
 人の往来が激しくなる。道は港町の活気に埋もれるようにして続いており、青年は徐々に足取りを速めていった。市場からは魚と異国の香料に混じり、売り買いされていく人間の汗の匂いも漂っている。アメティストスは顔を隠して脇を通ったが、ここで自分が素通りする事でやはり明暗を分ける命があるのだろうと苦々しく、あえて彼らの《影》を見る事はしなかった。
 市街は海を離れるにつれて緩やかな坂になり、貴族の住居が軒を連ねる屋敷筋になる。青年は足を止めず、柱廊玄関を設える神殿のような屋敷に入っていった。高い堀が張り巡らされた出入り口には、二人の警護の姿もある。大邸宅だった。道行く人に聞いて確かめると、ここの商人頭のものらしい。
(やはりな)
 シリウスも言及していたが、この頃、大きな市を中心とする同盟ができていると聞いていた。奴隷貿易は大きな商売だ。それを妨げるアメティストスらを野放しにする訳にもいかず、こんな手の込んだ芝居を打たせたのだろう。ここで引き返す事も考えたが、青年が裏切って軍勢を連れてくるにせよ、もう少し手の内を知っておいた方がいい。アメティストスは屋敷の裏手に回り、僅かな足がかりを頼りに堀を乗り越えた。
 降りた先は厨房に面した裏庭のようだった。土間に座って、一人の料理女が俯いて豆の皮を剥いているのが見える。彼女も奴隷なのだろう。アメティストスの姿に気付いて叫び出しそうになった為、被っていた外套をめくって白い髪と紫の眼を見せてやった。奴隷にとって彼は救いの象徴である。これで静かになればいいが、しかしどっぷり奴隷の生活に慣れてしまっているか、あるいは律儀に主人へ忠誠を立ててしまう者もいる。騒ぐか騒がないかは当人の望みによって変わった。
 料理女は目を白黒させ、慌てて己の口を両手で押さえた。そして自分は何も見ていないと言うように、きつく目を瞑って首を横に振る。見逃してくれるらしい。アメティストスは目線だけで礼を示すと、厨房の脇から続く回廊へと上がった。
 不思議と人気のない邸宅だった。しかしどこからか人の集まる声がする。何か催し物でもあるのかもしれない。もしくは先程の青年がアメティストスらの行動を密告し、早くも討伐隊を結成している最中なのか――と、声が響いてきた。
「そんな、約束が違う!彼らの本拠地を探り当てたら、エウリディケは逃がすと――!」
「分かっておくれ。お前はよくやってくれた。しかし返さないのではなく、返せないのだ」
「だったらそれは貴方がたが――!」
 血を吐くような声だった。大体の事情はそれだけで察せられる。アメティストスは顔をしかめ、声のする方に向かっていった。違う壁を挟んだ事で会話は一時的に聞き取れなくなり、ただ叫び声の残響だけが風に乗って大きくなったり小さくなったりする。
 ふと首筋に殺気を感じた。誰かに見られている。アメティストスは体に緊張をみなぎらせ、そっと気配を探った。
(見張りに気付かれたか)
 視線の距離は遠い。一つ二つと数えると、少なくとも五人はいるようだ。邸宅の警備兵だろう。人を呼んで体勢を整えるつもりなのか姿を現さない。切り抜けられる人数と判断し、アメティストスは警戒を解いた。そもそも自分には《影》が憑いていないのだから何も死にはしないだろう。
 そう算段を付け、もはや人目を憚る事もなく柱廊を進んでいった。無言で取り囲んでいる警備兵もまだ襲う気にはならないのか、視線だけがじっとりと背中に纏わりついてきた。
 このまま誘い込む気だろうか。
(いいだろう、乗ってやる)
 行き着いた場所は広間のひとつだった。客人を招いて宴を催すような場所ではなく、その手前の控え室のようである。蒼白になった青年が呆然と露台に座り込み、向かいには屋敷の主だと思われる壮年の男が立って、妙な猫なで声を出していた。
「分かっておくれ、何もわしらが直接手を下したわけじゃない――おっと、客人かね。待ちかねたよ」
 アメティストスを見て、にいっと笑う。既に部下から報告を受けていたのか、外套を剥ぎ取って容姿を見せても、特に驚く素振りは見せなかった。それどころか目を輝かせ、歓迎するように両手を広げている。
「いやはや、オルフェウス、本当にお前はよく働いてくれた!まさか美しい狼を一匹で招き入れてくれるとは思っていなかったよ!エレフ……いや、今はアメティストスだったねぇ。私を覚えているかい?」
「……何がだ。お前など知らん」
「他人行儀だね、あんなに素晴らしい一夜だったのに」
 舐めるような視線に肌が粟立ったが、成る程、イリオン時代に相手にさせられた男かと合点がいく。名目は神殿の儀式と言う事だったが、有力な遠方の客を喜ばせる為、何度か繰り広げられた饗宴だった。自分が忘れていても男にとっては物珍しい遊戯として記憶に残ったのだろう。本当に、あの変態神官には殺しても殺したりないほどの貸しを作ったものだ。今更それを思い出して傷つく事はなくなっていたが、植えつけられた嫌悪は根強いものとなっている。
 アメティストスは反射的に剣を抜きかけたが、いまだ露台で呆然としている青年が視界に入り、つと思い直した。屋敷の主人は引き続き好色な台詞をにやにやと喚いているが、ご丁寧に聞いてやる義理はない。奥まで誘い込んだと判断したのか、ぞろぞろと取り囲むように警備兵が姿を現し始めていた。柱の影と扉の奥から、しめて十数人。ようやくのお出ましである。アメティストスは壁を背にして露台へと近付き、座り込んでいる青年に話しかけた。
「おい、いつまで腑抜けているつもりだ。説明しろ」
 返事はない。すっかり消沈している。アメティストスは彼の腕を掴み、やや乱暴に引き上げた。長すぎる前髪が風で煽られ、額に押された焼き印が露わになる。茶色く引き攣れた皮膚が、いまだ生々しかった。
(この屋敷の証か)
 奴隷にはどの屋敷の所有物かを示す為、こうした印をつける場合がある。しかし青年の場合、額だけではなく鎖骨の下にもひとつ多く押されていた。それが俯いた服の隙間から見て取れる。
「お前、その焼き印は――」
 アメティストスが言いかけた途端、突然目の前で扉が閉められたように、ざん、と視界が暗転した。




* * * * * * *




 気が付けば不思議な空間にいた。闇の中、水滴の滴る音がする。塗りつぶしたような漆黒が視界を塞ぎ、響くその音だけが空間の広さを物語っていた。
 自分は立っているらしい。足を硬い大地に付けている感覚はあったが、それを除けば指先一本たりとも動かす事はできなかった。頭でも打たれて気を失ったのだろうかと思ったのは一瞬で、アメティストスは低い笑い声を聞く。
『待ち侘びたぞ、息子よ』
 かろうじて動く唇で、冥王、と名を呼んだ。さらさらと背後から衣擦れの音がする。裾を地面に引きずる音――ここに奴がいるのか。
『白昼に関わらず、お前がこの場所へ来られるようになったのは喜ばしい。いくら深い絶望を持つとは言え、今までは語りかけるのも手間がいった。しかし、あの裏切り者が共鳴したか。ひとつ階段を下りたらしいな』
 どういう事だ、と胸中で尋ねた。
『あれも運命に見捨てられた哀れな男よ。我は身の上を知っているぞ――お前も知りたいか?』
 そっと背後から両手が伸びてきた。人間離れした長い指が十本、目の前で組み合わさって視界を塞ぐ。何をすると言いかけた途端、そこから滝のようにどっと映像が流れ込んできた。
 トラキア――馬を乗りこなす放牧の民。いくつかに分かれた部族の跡取り息子。彼には楽の才があり、傍らには美しい婚約者がいる。偉大な父、戦士を守ると言い伝えられる勇壮な山々、琴を掻き鳴らせば笑う一族の子供たち。穏やかな景色を打ち壊すように不意に広がった戦は、それらを一瞬で打ち据えた。マケドニアに敗れて血で塗れた道を、何とか宝物だけを馬に乗せて逃げる。散り散りになった部族、束の間でも守れたのは恋人だけ。背中にしがみついていた彼女の温度が消え、慌てて振り向けば何本もの矢が空から降っていた。傷ついた彼女を庇い、奴隷として捕らえられたが、どこにも逃げ場はない。彼女のものまで引き受けた焼き印は二つ。皮膚の焼ける匂いが骨にまで刻まれた。恋人と共に自由になりたければ、それなりの稼ぎをしろと言う。見目の良い彼は間諜にするには打ってつけで、恋人を人質に取られ、囮として何度も奴隷船に乗せられた末、三度目の航海で狙いの人物に拾われた。隠れ里での生活は気の抜けるほど穏やかで、気のいい人々に囲まれると自分の醜さが骨身に沁みたが、どこかに引き返せるはずもなく、情報を握って屋敷に戻ると、雇い主から労いの言葉が告げられる。ああ、お前はよくやってくれた、しかし残念ながら女は矢傷を腐らせて死んでしまったのだ、知らせようにもお前はあの蛮族たちとどこぞの海の上をふらふらして――本当だとも、私はこれっぽっちも手を出していないぞ、確かめたいなら亡骸を見るといい、ちゃんと骨は集めてやった――。
 同時に、かつてのエレフセウスの記憶も甦ってくる。零れ落ちていく命、広がる月と血の色。悪夢のたびに繰り返される喪失の光景。
『彼はもう一人のお前。全てを失くした、抜け殻のお前』
 冥王が耳元で甘く囁いた。
『既に黒き剣は与えた。あれは我の鎌、持ち歩ける便利な断頭台よ。それをどう活かすかはお前次第だ。もう奪われる側に回りたくはないのだろう。ならば――力を貸そう。我を受け入れよ』
 ぐっと十の指先が爪立てられた。眼球を抉ろうとするかのように眼窩に沿って置かれたそれが、ずぶずぶと皮膚に食い込んでいく。不思議と痛みはない。ただ視界が端から黒く染まり、泥のように指が沈み込んでいく不快な感触だけ――。




* * * * * * *




 ざん、と再び目の前で扉が閉じた錯覚と共に視界が戻った。ボイオティアの屋敷、広間、俯いている青年と取り囲む人々。額と胸、二つの焼き印。
 アメティストスは目を剥き、信じがたい思いで眼窩に手をやる。そこには傷も痛みもなく、僅かに汗ばんでいる事を除けば何の変化もない。
(……成る程。一瞬、黄泉路を覗いた訳か)
 今更になって恐怖に似た震えが喉元に起こったが、それは笑い声となって彼の唇から零れ出た。暗い喜びの声に周囲がぎょっと身を引くのが分かる。しかしアメティストスは笑い止まず、引っ張り上げた青年をくつくつと流し見た。
「お前、恋人のぶんも焼き印を入れたのか?」
「……どうしてそれを」
「誇りに思うといい。彼女はお前のおかげで綺麗な肌で逝けた。私は、刀傷から庇う事もできなかった」
 青年の瞳が困惑で揺れる。しかし、それ以上の慰めを口にするつもりはなかった。腕を離して鞘から剣を抜くと、アメティストスは身を低めて一気に駆け出す。事情は分かった。もう潮時だ。恋人の死で呆然としている青年を戦力に入れる気はない。自分だけでも切り抜けられるだろうという確信が、冥王の指先が沈み込んだ眼窩と共に熱く疼いていた。
 冥王の守護を得たのか、二振りの剣は以前よりも軽い。取り囲まれている為に少々手こずったが、軽い切り傷を負った程度でアメティストスは包囲を抜ける。
 今までは何も見えなかった護衛兵たちの背後に、やがて次々と《影》が取り憑いていくのが分かった。アメティストスが剣を下ろせば、血しぶきと共に《影》たちが命を拾い上げていく歓声が聞こえる気がする。
 成る程、これは便利だ。《影》が味方についてくれている。
 一人、二人と相手を切り裂き、血で滑る床に足を取られないように腰を低めて前進した。好色な屋敷の主人を切り殺したいのは山々だったが、進路上にいないので無視を決め込む。男にとっては少年時代の自分の記憶が色濃いのか、アメティストスの剣技について侮っていた節があるようだ。今になって恐れおののき、情けない悲鳴を上げて隣室へ逃げ込んでいる。
 ふと、人質に取られていた女性も本当は奴に手篭めにされてはいなかったのだろうかと思ったが、それを思って憤るのは自分の役目ではないと考え直した。厨房で見逃してくれたあの料理女も奴の毒牙にかかっていなければいいが。
 アメティストスは邪魔な数人を切り伏せて、改めて様子を見る。騒ぎを聞きつけて更に人が集まってくる気配がしていた。再び塀を乗り越えて市街に戻るか、あえて真っ直ぐに玄関に向かうか考えていると、露台で座り込んでいた青年――オルフェウスが青ざめた顔で立ち上がった。
「行って下さい、後は私が何とかします」
 彼も腰から剣を抜いている。アメティストスは塀との距離を計っていたが、その声で視線を横にやった。彼が助けてくれるのは然程意外ではない。冥王に見せられた映像の中で、彼が部隊の面々を好ましく思っているのは感じられた。ただ、いずれ裏切らなければならない後ろめたさに絶えず胸を苛ませていたのだろうが。
「お前には同情する。だが、それで全てを譲る理由にはならない。私の首も、あいつらの命もやれない」
 告げると、オルフェウスは痛々しく目を伏せた。
「ええ……申し訳ありませんでした。奴は既に伝令を放ったはずです。それを聞けば、港から十七隻の船が討伐隊となって出て行くと。皆を連れて早くお逃げ下さい」
「お前は来ないのか?」
「……エウリディケが残っていますから。亡骸を探さなくては」
 ぎこちなく返された。そうか、とアメティストスも言葉少なに頷く。青年の気持ちは理解できた。
(確かにこいつは、もう一人の私だ)
 アメティストスは口元を引き締めると「では後から来い」と言い残して中庭へ飛び出す。背後で剣を切り結ぶ音が聞こえた。彼には《影》が憑いていない。失うものがなくなり、やり遂げなければならない決意だけが残っている者ならば、そう簡単に死を選びはしないはずだった。だからおそらく、そう時間を掛けずして再会できる。死にはしない、そのはずだった。






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