秋夜のしじま

※月島さんの下の名前が出てきます


「いや、やばいでしょ」

私の話を聞いて、同僚の嗣子ちゃんはずいっと身を乗り出した。

「まあ、確かにあんたの目の下のクマやばいわ…若いオンナの顔じゃない。オッサンよ。人生に疲れきったオッサンの顔!原因とか心当たりないの?」
「ひどい!でも、それが、特に思い当たらないんだよねえ…不眠になった理由」

私はここ1ヶ月ほど不眠に悩まされている。
仕事も多少のトラブルやストレスはあれ、不眠になるほどでもないし、彼氏はいないけれど人間関係もそこそこ順調だ。休みだって週2日きちんと取れている。
嗣子ちゃんは日替わり定食の最後まで残っていた大きな唐揚げにタルタルソースをたっぷり盛って口に放り込んだ。
無理に一口で食べるものだから、頬がリスのように膨らんでしまっている。
華のOLがいいのか、それは。

もごもごと唐揚げを咀嚼していた嗣子ちゃんは何かを思いついたのか、ふぁ、と声をあげてそのまま何かを言おうとするので「食べてからにしなよ」と言うと、彼女は慌てて残りを飲み込み大声をあげた。

「いいこと思いついた!」

彼女の「いいこと」は大抵予期しない問題を連れてくる。私はこれから何が起こるのだろうと小さくため息をついた。

***

もうすぐ23時という頃、インターホンが鳴った。

玄関先に気まずそうに立っていたのは、少しやつれた顔の坊主頭の男性だ。私よりは年上だろうか。紺色のスーツに布製のビジネスバッグを下げ、いかにも「サラリーマンのような」格好をしている。この人が嗣子ちゃんの言っていた人だろうか。正直、お昼にこの話を聞いたときは、冗談だと思っていた。そんな話、聞いたこともないし。
彼には申し訳ないけど謝って帰ってもらおう。玄関の扉をあけると、彼は小さく一礼して名刺を差し出した。

「月島基と言います」

左上にパステルカラーで愛らしいヒツジの絵が書かれた名刺は、なんだか固そうなこの人の雰囲気にそぐわない。絵の下には小さく「あんしん添い寝サービス」と書かれている。

「あー…すみません、同僚が勝手に申し込んでしまったようで。申し訳ないのですが、」

丁重にお断りしようとすると、月島さんは困った顔をした。
聞けば、すでに料金は同僚から貰っているし「とても心配だから是が非でも寝かせてほしい」と言われているのだそうだ。
信用してほしい、と今度は深く頭を下げられ、私は断ることができなかった。

***

ふうふうと息を吹きかけてからマグカップに口をつけると、ほうじ茶の香ばしい匂いが広がった。コンビニのペットボトルのものをたまに買うくらいで、茶葉から淹れたものを飲むのは久しぶりだが、こんなにも美味しいものだったろうか。

「ほうじ茶は身体をあたためるし、リラックス効果があるそうだ」
「おいしいです、これ」
「そうか…おじさんくさいと思われるんじゃないかと思っていたんだが」

女性向けのハーブなどはよく分からなくてな、と隣に腰掛けた月島さんは照れくさそうに言った。
「添い寝サービス」なんて倫理的にやばそうだと思っていたけれど、彼と少し話しただけで真面目な人であるとわかった。
彼ならば強盗や、その…他の変なことも、天と地がひっくり返ってもしないように思う。

寝る前にテレビやPCを使わない方がいいらしい、という月島さんの勧めで、今日は久々にテレビを消し、そのかわりに小さくラジオをつけている。いまやっている「ラジオ真夜中便」は特に月島さんの好きな番組なのだそうだ。確かに、司会者の深く優しい声が疲れた身体にじんわりと沁みわたる。
お気に入りのソファに座ってほうじ茶を飲みつつラジオを聞いて、たまにポツポツと他愛のない話をする。ラジオの話、今日の天気の話、最近おいしかったコンビニスイーツの話など。
私も月島さんもおしゃべりは苦手なタイプ(たぶん彼もそうだと思う)なので、時折、しんと静まり返る時間がある。
しかし、その沈黙すら優しいあたたかさで、私の心を少しずつほどいていく。月島さんはまるで、このほうじ茶みたいだ。

「…おやすみなさい、また明日。」

司会のおじいちゃんの声に、思わずふわ、とあくびが出た。スマホの時計を見ると、もうすぐ日付が変わろうとしているところだった。

「そろそろ寝ようか」
「はい…。きょうは、寝れそうな気がします」

月島さんは、既にうとうとと船をこぎ始めた私を先導して寝室への扉を開けた。今朝飛び起きてそのままのくしゃくしゃのブランケットが恥ずかしいけれど、見られてしまったものは仕方がないし、何より久々に、とても眠い。
シングルベッドは大人2人には狭すぎて、必然的に月島さんと密着するような恰好になってしまった。もっと端に寄りたいところだが、隣は壁でもう移動することは叶わない。

「…すみません、狭くて」
「いや、こちらこそすまない。だが、誓って何もしないので安心してくれ」
「……ありがとうございます」

お礼を言って目を閉じる。隣で寝ている月島さんから、ほうじ茶の残り香が漂ってくる。緊張していた身体が弛緩してゆくのを感じる。私はベッドにゆっくりと沈んでいって、そのまま意識を手放した。

「おやすみなさい、なまえさん。…また、あした。」

優しい声が遠く聞こえた。

***

少し、眠っていたようだ。

カーテンに差し込んだ光が眩しくて目を開けた。昨晩はベッドに横になって、すぐ爆睡してしまったらしい。久々に眠ることのできた爽快感とともに、寝すぎたためにほんの少し頭痛がする。
起き上がると数時間前まで隣にいたはずの彼はもう既にいなくて、寝あとのついたシーツは冷たくなっていた。もう、彼は出て行ってしまったのだろう。一晩という約束だ。

少しばかり寂しさを覚えながら顔を洗ってリビングへ行くと、見覚えのないお皿とほうじ茶の入った袋がおいてあることに気がついた。お皿にはまだほんのりあたたかい大きなおにぎりが3つ乗っている。
きっと月島さんが握ってくれたのだろう。そういえば昨晩、炊飯器を使わせてほしいと言われていたのを思い出した。材料も自分で持ってきたのだろうか。あの真面目そうな彼がビジネスバッグに生米やら、海苔やら、ほうじ茶を詰め込んでいたのだと思うと少し笑えてくる。

おはよう
気に入ったなら飲んでくれ

お皿の下になっていたメモ帳の切れ端に書かれた力強い筆跡が彼らしい。
メモは名刺ともに冷蔵庫に貼ることにした。ひんやりと冷たいはずの冷蔵庫がそこだけ温度を持っているような気がする。
また、彼に会えるだろうか。
次に会うことがあれば、今度は私が彼にほうじ茶を淹れてあげよう。そしてまた、静かにラジオを聞きながら他愛もないことを話すのだ。
私は自然と笑みがこぼれるのを感じながら、朝ごはんの支度をはじめた。


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title:秋夜のしじま
write:itk

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