この夜が明けたら


世の中には添い寝サービスというものがあるらしい。男性向けの、所謂リフレとは違う、性的な接触は一切なく、何度もリピートしてしまう程いい物なのだと言う。SNSで口コミを見て以来気になってはいたのだが、そんなものは自分とは縁遠いものだと思っていた。

 その日わたしは職場の先輩に押し付けられた仕事を消化するため休日出勤し、ひどく疲れていた。こちらが強く言えない事が分かっていて、仕事とも呼べないような雑用をするよう言われたり、彼女の機嫌が悪ければ言葉の拳を受けるサンドバックにされる。それを見て見ぬ振り上司に同僚。何年も働いていて、最近やっとメディアでよく取り上げられる「パワハラ」を受けているんだと自覚した。
 コンビニで安いワインと肴にチーズを買い、重く張っている足を引き摺るように家路を辿る。晩酌中にふと思い立ち、疲れや酔い、寝不足が手伝って興味本位で調べて以来、ブックマークしたままだった例のホームページにアクセスした。さして吟味もせず、目に止まった男性を選んで必要事項を入力し、そして予約のボタンを押した。クリックするその一瞬躊躇いが顔を覗かせたけれど、ええいままよ!と時代劇みたいな台詞で自分を勇気付けたのだった。

 日々仕事が忙しいからと自分に言い訳を繰り返して掃除を怠ってきた部屋は、冷静になって見渡してみるとそれはもう恐ろしい散らかりようだった。取り敢えず山になった洗濯物を片付けて掃除機をかけ、他人を招くのに問題ない程度には片付いた。頭の中をモヤモヤで満たしたまま、ついに約束の日がやってきた。期待と不安がない交ぜになった指先が何度も予約完了の通知メールを開いては閉じ、落ち着かない心のままチャイムが鳴った。
ドアを開けると気怠げな目をした白髪混じりの男性が立っている。彼は想像よりも遥かに緩く「こんばんはぁ、カドクラです」と名乗った。

「どうぞ、上がってください」
「お邪魔しまぁす。いやぁ、日暮れだっていうのに暑いねぇ」
「冷たいものありますよ」
「あらまぁ、なんか悪いね」

まるで親戚のおじさんだ、と思った。こういうお店に登録している人だから、もう少しセクシーな男性かと思ったがその真反対だった。
玄関に一歩踏み入れ、ドアを閉めると改めて名刺を差し出され、店の名前と、定型的な挨拶の言葉を口にした。

「このサービスを利用するのは初めてって事だったけど」
「はい」
「あ。あんまり緊張しないで平気よ?おじさん過ぎて驚いちゃった?」

彼は気まずそうな顔でちっとも可笑しくないのにあははと声を上げて笑った。慌ててそうではないと伝えると、それなら良いんだけど、と呟く。

「リクエストがない限り、こっちは勝手なことしないんでね」

そう言いながら、手に持っていた紙袋から正方形の箱を取り出す。どうやらそれは家庭用プラネタリウムらしかった。口をセロハンテープで留められており、それを剥がすのに難儀しているようで、座布団もないフローリングの上にそのまま座り込んだ。

「……それは、オプションか何かですか?」
「あ、これ?これはね、個人的に持ってきたんだ」

新品らしいその箱を漸く開ける。中から説明書を取り出して、機械を手に取ってひっくり返したりする。そして先ほどの紙袋から、今度は乾電池が出てきた。

「福引で当たったちょうどその日にみょうじさんから予約が入って、こりゃ持って行ったら楽しいんじゃないかなーってね」

「勝手なことはしない」んじゃなかったのか、と思ったけれど、それがなんだか可笑しくて、緊張がほぐれるようだった。笑っていると、門倉さんは嬉しそうにタレ目を細めた。

「どうかな?みょうじさん星座とか好き?」
「好きですよ。あの、それとよかったら、なまえと呼んでくださいませんか?」
「お、最初のリクエストだね」

いいよ、と笑う。門倉さんの醸し出す、なんとも言えない緩さ。予約の段階で懸念していたような、いやらしい雰囲気には一切ならなかった。
 暫く談笑し、デリバリーで軽い夕食を済ませ、いよいよ「さぁ、横になりましょうか」といった空気になる。互いに打ち解け、リラックスした状態で話し合えていた(ように思う)。セミダブルのベッドは少々手狭だけれど、腕枕をリクエストする。

「じゃあ門倉さん、電気消します」
「はいよ。こっち付けるね。よいしょっと」

電気を消すと同時に、プラネタリウムの電源が入れられて殺風景な暗闇の天井が星空へと変わった。持ってきた本人が感嘆の溜息を吐く。
男の人に腕枕されるなんて、いつ振りだったか。仕事に追われ、いつの間にか恋が終わっていた。仄かに香る煙草の匂いを嗅ぎながら、暗闇で久しぶりの人の温もりを感じて気付かぬ間に涙を流していた。

「…なまえちゃん?」
「すいません、ちょっと疲れが出ちゃったみたい」
「悩み事?聞いてもいいかな」

先輩にはいびられ、同期には仕事の手柄を横取りされ、給料は相変わらず低く、わたしは一体何のために働いているのだろうか。次第に疲れているはずなのに寝付けなくなり、寝不足が気持ちにも影響を及ぼすようになった。そんな事をボソボソと独り言のように語っている間、門倉さんは静かに聞いてくれた。そして話し終わると、わたしの頭を乗せたままの手で、髪の毛をぐしゃりと撫でてくれた。

「無責任なこと言ってもいい?」
「はい、言ってください」

投げやりに返すと、また髪の毛がぐしゃぐしゃに乱される。直しもせずに、わたしは息を飲んで彼の言葉を待った。

「そんな会社、辞めちまえ」

自分でも考えたことがない訳ではなかった。もしも辞めたら、と求人サイトを眺めたりもしたし、次の業種は何がいいかなんてぼんやり考えていた。しかし実行に移すことはなかった。何年もそれを繰り返して、今に至っている。転職なんて、自分とは無関係だと。

「なまえちゃんが良い子だって事は、この数時間でわかった。気遣いもできるし、優しい子だ。なまえちゃんをそんな扱いするような会社なんてな、いずれ倒産すんだよ」

今わたしは、"自分とは無関係"だと思っていた添い寝サービスの男性に添われて、色気のいの字もない会話をしている訳だ。では転職は?本当に無関係なんだろうか?
今日これでこの人に笑わされるのは何度目だったか。すっかりわたしはこのサービスに癒されていた。

「門倉さん、わたし」
「うん」
「起きたら、辞職届け書く」
「うん、それが良いよ」

だから今は寝な、と囁いた彼の声は、リビングライトの下で聞いた緩く蕩けたソフトクリームのような声とは違う、あんなにわたしが恐れていた色気を帯びた声だった。それなのに、とても心地よい。

「おやすみなさい、門倉さん」
「おやすみ。安心して寝な」

あの口コミは確かだった、と思った。性的なことなんて一切ないし、面白おかしくしているうちに時間は過ぎて行き、兎に角楽しかった。
門倉さんの鼓動と静かな息遣いが聞こえてきて、体温も相待って久しぶりに心地よい微睡みに襲われた。目を閉じる。今にも夢の世界へ踏み出してしまいそうだったが、もう一度おやすみなさい、と言った。それはきちんと言葉になったのか、若しくは夢の中で発した言葉だったのか、わからないけれど彼の手の平が頭を撫でてくれたような気がした。

この夜が明けたらわたし達はまた他人に戻る。
まだ別れの挨拶もしていないのに、次に会う日のことを考えながら眠りについた。


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title:この夜が明けたら
write:れら

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