高い壁に囲まれた、大きなコミュニティがあった。砂漠地帯と草原地帯の間辺りに位置するそのコミュニティの中の情報は、ほとんど外部に出ることはない。厳しく情報操作され、取り締まられ、中と外は完全に隔絶されていた。

その壁の中は、人々から自由を奪った世界。権力を持つ者が、何にでも規制をかけ、自由な思想を奪い、思い通りに従わせようとする世界。外との干渉を絶ち、衰退していく便利な文明を、少しでも繋ぎとめようとする為の、世界。それはとても息苦しく、生きにくい世界だった。

このコミュニティの全ては、全盛期の素晴らしい文明。全てをその頃に戻すことを目指して、あらゆることを規制した。例えば、全盛期の素晴らしい文明にはなかった機械の発明。どんな危険を孕んでいるかわからない物をつくりだすなど言語道断なのである。例えば、全盛期の素晴らしい文明の頃にはなかった楽譜。音楽とは人の心を顕著に表すものであり、文明が衰退しつつある時代しか知らない人間の作った音楽などは、廃れた物でしかない。そのようにしてコミュニティは、夢を持てない人々を作り、そしてその上で、夢はあの文明の再建であると、そう思い込ませたのだった。






「リーナ。また寝なかったの?」

地下室の扉を開けたチューリヒは、昨晩おやすみを言った時と変わらない体勢で本を読んでいるリーナを見て、心配そうに顔を曇らせた。

「あ、チィ。もう朝なの?気が付かなかった」

リーナはこうして、窓のない地下室で一晩中、何かに夢中になっていることがよくあった。終わりに近付いていた分厚い本を、栞を挟んでバタンと閉じると、大きな伸びをする。

「今日は監察が来る日だよ。楽器も全部地下に隠して鍵を閉めるから、出てきて。ご飯にしよう」
「うん」

リーナは素直に立ち上がり、名残惜しそうに読みかけの本の表紙を撫で、階段を上がった。チューリヒも、たくさんの書き上げた楽譜と愛用のトランペットを、そっと机に置き、地下室に鍵をかけ、その扉の前にタンスを置いた。

監察とは、数ヶ月に一度コミュニティ内の家を抜き打ちチェックして回ることである。抜き打ちであるのに二人がその日を知っているのは、監察の関係者であるチューリヒの父親のおかげだった。監察では、数百頁にものぼる規則に背いている家があれば、罰則を与えることになっている。リーナは一度、家の二階で発明の跡が見つかり、数日間強制労働の罰を受けたことがあるので、二人の家は特に厳しくチェックされる。幸い、まだ地下室が見つかったことはなかった。

「チィ、ご飯なあに」
「トーストとオムレツだよ」
「やったあ、チィのオムレツ、すき」

眠そうな顔で笑ったリーナに、チューリヒはまた心配そうな顔をした。

「リーナ、大丈夫?」
「…追いつかないの、頭の中にあるやりたいことが、あの狭い地下室の中じゃ。ちょっと無理しなきゃ、やりたいこともやれない。でも、勉強と発明の為なら私、いくらでも頑張れる」

リーナは声を小さくしてそう言った。今日はこの地区の監察の日なので、どこで監察官が聞いているかわからない。

「だいたい、このコミュニティはおばかさんすぎるよ。一度衰退したものは、全く同じものを再建したってもう一度衰退する他ないよね。過去の偉大な文明は確かに大切。私もその技術は守りたい。でもそれに立ち返るのっておかしいよね。過去の文明が大切なのは、次に新しい物を作るのに、その失敗が生きるからじゃない」
「リーナ、声小さくして」
「ごめん」

リーナは、憤ると言うよりは、淡々と言葉を紡いでいた。わかりきったこと、でも諦め切っていることを、再確認するような口ぶりだった。

「あ、来た」

リーナがオムレツを突ついていた手を止め、窓の外を見てつぶやいた。黒い服で、首から監察官の名札をさげた二人組が、二人の家の前に立っていた。程なくして、ドアのベルが鳴った。






監察は数十分で終わった。地下室は見つからず、いくつかの質問にもいつも通りそつなく答えた。リーナは監察官と同じように、数百頁の規則を全て暗記していたので、模範解答のような受け答えが得意だった。チューリヒは毎回、それを見ていて惚れ惚れするくらいだ。監察官は最後に、これからも規則を全うするようにと告げると、次の家に向かった。

「誰があんなおばかさん規則なんか守ってあげるかっていうのよ」

リーナは監察官が出て行った後、ドアに向かってべーっと舌を出した。

「お疲れさま、きっとそのうちリーナに監察官のスカウトがくるよ。あんなにたくさんある規則を全部覚えられる人、なかなかいないだろうな」
「私が監察官になったら、規則違反してない人に罰則だよ。あんなの守るの無理だもん」
「いいね、それ」

二人は笑ったあと、ゆっくりと一緒に食器を片付けた。並んで洗い物をするのは、いつもの光景だった。

「ねえリーナ、明日は父さんが帰ってくるよ」
「そうだった!じゃあ今日は、なにかいい食材を買いに行こっか、チィ」
「うん、それもなんだけど…」

チューリヒは珍しく言い淀む。リーナは不思議そうにチューリヒを見たまま、言葉の続きを待った。

「リーナ。昔話したよね、僕達はそれぞれ好きなもので世界一になろうって。あの高い壁の外まで名前が知られるような人になろうって」
「うん」
「今も、気持ちは変わってないよね?」
「もちろん、そのために私は隠れてでも研究をしてるんだもん」
「壁の外で名前を知られるようになるには、やっぱり壁の外に出なくちゃダメだよ。このコミュニティはいつもリーナの言うとおり、おばかさんだよ。わからずやだ。僕達ずっとここにいちゃダメなんだ。小さい頃はわからなかったけど、今になってはっきりわかるよ。この中じゃ僕達は世界一にはなれない。だって僕達は、世界を知らないじゃないか」

真剣なチューリヒに、リーナは驚いたような顔をした。

「でも…出られないよ。殺されたら元も子もないもん」
「僕もどうやって出たらいいかはわからないよ、でも僕はもっとたくさんの音楽を勉強したい。自分の作る音楽が本当にどこにもない新しいものなのか知りたい。人を喜ばせることができるようなものなのか知りたいよ。それに僕は、リーナは天才だって思うんだ。少しの、それも偏った教育しか受けられないこのコミュニティで、自分の考えだけでなんでも作っちゃうだろ?明日、父さんにも相談しよう。きっと父さんは母さんが眠ってるこのコミュニティから出る気はないだろうけど、僕達のことは賛成してくれるよ。知恵も貸してくれると思う。それにリーナがいたら、なんでもなんとかなっちゃう気がするんだ、僕」

チューリヒは、自分ではなんにもできないけどね、と付け加えて、笑った。そうして、リーナが何も言えないでいると、もう一度、真っ直ぐ彼女の目を見た。

「リーナ。僕達、世界を見に行こう。自由に生きよう。世界一になるんだ。きっとできるよ」
「チィ…」

根拠のない、夢のようなチューリヒの言葉に、リーナは静かに泣いた。口に出したくても出せなかった、本当に望んだ生き方だった。それは二人の夢だった。コミュニティに負けずに彼らの中で大きく育った、自分達自身の夢だった。

「私…ここを出たい」
「うん。出よう」
「夢を叶えたい」
「リーナならできるよ」
「失敗したら死んじゃうかもしれないけど私を信じてくれる?」
「当たり前だよ。僕が誘ったんだもん」

コミュニティを出ると、口に出しただけで足が震えそうなリーナは、ちょっと商店街に行こうかと言うときと同じ表情でそれを言うチューリヒを見て、どうしようもないくらい勇気をもらっていた。信じてもらえるなら頑張れると思った。

「私、チィの作った世界でいちばんすてきな曲、聴きたい」
「僕も、リーナの世界一の発明品、見てみたいよ」
「できるまで一緒にいてね」
「もちろんだよ。だって僕達、家族じゃない」

チューリヒの笑顔は暖かい。

「チィお兄ちゃんかあ」
「リーナのがしっかりしてるけどね」
「チィとおじさんみたいな家族がいたから、私、お父さんとお母さんがいなくても寂しくないんだね。両親はいなくなっても、家族がいなくなったわけじゃないんだもん」

チューリヒはリーナの頭を撫でた。二人は今、生まれて初めて、未来に希望を持っていた。

「次の監察までにここを出よう。できるよ。明日から父さんと三人で作戦会議しよう」

チューリヒの根拠のない自信は、リーナを元気付け、奮い立たせた。その二人の脱走計画が成功し、無事に壁の外へ出るのは、まだ少し後の話。




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