※サイケが『SAMPLE』の巫女。色々アバウト。
世界には自分と同じ顔が三人いる。そんな迷信も知らない。
世界にはもしかしたら自分と同じ顔の人間がいるかもしれない。そんな想像もしない。
世界のどこかで同じ顔の人間と出会って話す事があるかもしれない。そんな妄想の仕方すら知らない。
サイケの世界でサイケはそういう存在。
何も知らない。知ろうとしない。
誰も知らせない。知ろうとさせない。
サイケの世界でサイケは神とも巫女とも呼ばれる存在。
多くの人間の幸福と安息のためにただひたすら傷つけられる。
サイケの世界では神も巫女もそういう存在。
見えるのは常に暗闇で聞こえるの常に命令か悲鳴。
サイケの世界はそれだけしか存在しない。
はずだった。
でもサイケは知ってしまった。本当の世界を、存在するものを、自分の存在の無意味さを。
サイケは走った。幼い身体を必死に動かして。上着と髪と、ヘッドホンのコードをなびかせて。
甲板へ出た。
空は真っ暗で、海は真っ黒に見えた。水面を荒らしながら滑っていく客船の船体は眩しい白。
甲板を走った。
手摺りに捕まり身を乗り出す。真下で蠢く海を見た瞬間、嘔吐。
肩にするりと手の置かれる。
逃げなきゃ。海に飛び込んで。でも飛び込めない。
連れ戻されるくらいなら死んだほうがましだ。海に飛び込んで。でも飛び込めない。
耳が突然冷たくなった。
「きみはだれ?」
自分の声。
「ぁ……あぅ…」
歌わなきゃ。
歌うもんか。
「ねえ、ねえ」
歌うもんか。
歌うもんか。
頭を抱える。ヘッドホンがない。
「きみは、ぼくなの?」
顔を上げて見たのは顔。自分の顔。
「それともぼくを迎えに来た天使」
どうしておれが目の前にいる?おれのヘッドホンを持ってる?
夢?幻覚?それとも自分はもう死んだ?
だから…
「なぁんてわけないか」
だからおれの顔が笑ってるの?
「英語なら通じるかな。えっと、マイネームいざや。いーざーや」
「イザ…ヤ?」
名前、イザヤ。自分の名前とは違う。
ならこいつはおれではない?ならこいつはどうしておれと同じ顔をしている?
「きみは?」
指を差される。名前を聞かれてる。
「サ…イ…ケ」
「サイケ、か。うん、いい名前だ」
笑うイザヤ。
だれなのこいつ?なんなのこいつ?
息がうまくできない。喉がぶつかってくる風のようにびゅうびゅう鳴る。
「ねえ、サイケ。きみの服ぼくに貸してよ。ぼくのと交換しよう」
サイケはイザヤの言葉のほとんどを理解できない。理解できない言葉は不安になる。言葉でない声は恐怖を呼ぶ。
それはまるで悲鳴のようだから。
「服ってなんて言うんだっけ。まいっか。これ…イッツ、チェンジ、プリーズ」
イザヤが黒いコートを脱ぎ差し出し、サイケの白いコートを掴み引っ張った。
サイケは知る。イザヤがサイケの服を着たい事を。
サイケは想像する。イザヤがサイケの服を着たらどうなるか。
サイケは妄想する。サイケがイザヤの服を着たらどうなるか。
「い…」
突風がきた。
悲鳴のような風音は、もう遥か遠く。