昔、誰かに訊ねられた事があった。境界線とは一体何を守っているのかと。
 線の内側を守っているのか、外側を守っているのか。もしくは右側と左側でもいいし、あっち側とこっち側と言ってもいい。とにかく、そのどちらを守っているのかと。
 その時、傍にいた別の誰かはこう答えた。境界線はその両方を守るためにあるのだと。
 その時、俺は心の中でこう考えた。境界線は境界線を守るためにあるんじゃないかと。
 何かと何かを区別した――その事実を守るために、境界線をつくるんじゃないかと。





 不思議な人間だ。
 会議室で出会った少年に、折原臨也はそんな感想を抱いた。
 何が不思議だったのかは不思議なくらい分からないが、ただなんとなく、不思議だと感じた。
 それを今、思い出していた。

「お前、本当にここで寝るのか?」

 そう彼に声を掛けられるまで。
 臨也は現在、会議室を離れ、とある部屋の中にいる。

「そうだよ。だって俺は君の付き人だもの」

 親しみを込めた声で返事をすると、目の前にいる金髪の少年――今日から自分の主人となった平和島静雄という名の少年に、にこり微笑みかける。もっとも、静雄は臨也に対して背を向けて立っている為、正確には背中に微笑みかけた事になるのだが。
 その背中の向こうにはそこそこ広い和室が広がっていおり、年季の入った桐のタンスや使い古された書見台などの些か時代錯誤な和風の家具がある一方、テレビやその他のAV機器は最新型の物が揃っていた。

「まるでリサイクルショップみたい」
「何だ、何か言ったか?」
「いいや、何も。それよりも意外だな。こんなにすんなりと入れてもらえるとは思わなかった」

 いい部屋だね。と、さっきまで抱いていた感想などすでに忘れたかのように称賛すると、臨也は一歩前に進む。
 すると、静雄の背中がぴくりと動いた。

(さすがに警戒されてるなあ)

 静雄はこの部屋に着いてからまだ一度も臨也の顔を見ていない。というよりも、会議室を出て以来臨也の目の前にあったのは常に水色の後ろ姿のみ。
 早くも顔を見たくない程に嫌われたのか、それとも正面で向かい合った場合の“危険”を警戒しているのか。数秒の間考えて、後者だと判断する。

(ま、学習能力はあるってことかな)

 どこか自嘲気味に口の端を上げると、臨也は静かに目を閉じた。




 一時間前、静雄が繰り出した二度目の椅子フルスイングを躱した臨也は、二度も全力の攻撃を避けられ呆然としている静雄に、お返しとばかりに再度“不意打ち”を食らわせてやった。

『そういえば。リップ、桃の香りなんだね』

 この時、タイミングよく静雄の父親が会議室にやって来て、顔を真っ赤にしている息子を宥めてくれたから被害が椅子一脚だけで済んだが、そうでなかったら一室と一人が最悪全壊していたかもしれない。

『何かあったのか?』

 開口一番、父親は静雄にそう聞いた。恐らく静雄の怒号が聞こえていたのだろう。しかし静雄が何でもないと一言だけ返事をすると、それ以上は追求してこなかった。
 納得したとか諦めたとかそういう感じではなかった。だだ、本当にそれ以上の事に興味が無い。そういう印象を受けた。
 それから父親は静雄と臨也に座るよう指示し、自分も適当な席に腰を下ろすと、二人が着席したのを確認してから話を始めた。

『静雄、お前にはこれから今以上にこの家に貢献してもらう。その為に役に立つに人間を呼んだ。名前は折原臨也。彼には常時お前に付いていてもらい、必要に応じてサポートをしてもらう。明日からはお前と同じ来神高校の二年生になる。部屋は…』

 と、そこで父親はちらりと臨也に目を向けた。だがすぐに目線を外されたから、臨也は何も言わず、これといったリアクションもしなかった。

『部屋は、お前の部屋で一緒に暮らしてもらう。それが会長からの――お前の祖父からの伝言だ』




「なんで今更付き人なんか…」

 不満に満ちた低い声がまた聞こえ、目を開く。

「そう思うならどうして会議室で何も言わなかったの?」
「それは――」
「自分が文句を言えるだけの人間に値しないから?育ててもらった恩があるから?親の言うことを聞くのが子の役目だから?」
「俺はまだ何もっ――」
「それとも仕方のない事だとか割り切ってるつもりなのかな?原因は自分にあるんだって反省してるつもりでいたりするのかな?」
「だから俺は…!」
「それとも、ただ流されてるだけだったりして」
「――――ッ!」

 ボンッ!と、小爆発が起きたような音が臨也のすぐ耳元を掠めていった。

「……あーあ、駄目だよ。これくらいでキレちゃあ」

 顔の右側を通った突風によって、黒髪が後方へなびく。

「もし今、俺が君のパンチを避けなかったら、俺は明日から楽しい高校生活の代わりに淋しい病院生活を送るハメになってたよ」

 目前には酷く歪んだ静雄の顔。臨也はわざと大袈裟にため息を付くと、形のいい眉を寄せ睨むような目付きで静雄を見た。

「君がそんなんだから、こんな事になったんだよ」

 静雄も当然自分を睨んでくると思った。だけど何故か静雄は睨んでこなかった。それどころか驚いた顔で動作を停止している。臨也も一瞬素で驚いた顔をしたが、すぐに先程以上に鋭く相手を睨んだ。

「君はもっと知るべきなんだ。色々な事を」

 途端に温度を下げた声。臨也は大きく踏み込むと、静雄に顔を近付けた。
 静雄はすぐに何をされるか予想がついたらしく、咄嗟に頭だけを後ろへやり回避しようとする。だが、そのせいで男らしい出っ張りのある白い喉が臨也の目前に曝されることになり、最初からそれを狙っていた臨也は躊躇なく喉に指を食い込ませた。

「――ぅっぐ!」
「例えば、首と目への攻撃には注意したほうがいい、とか」

 ぐっ、と更に力を入れて気道を圧迫させれば、静雄の口から蛙の鳴き声のような呻きが漏れた。

「ここへの攻撃も注意するべきだとか」

 それから片脚を上げ、膝で静雄のモノをぐりぐりと押してやる。

「ぐ…ッん!」
「ここは男の最大の急所だからね。流石の君も、ここまで頑丈なわけじゃないでしょ?」
「ひっぅ、ぁ゛…っ、ぁ…がっ」
「ちょっと触ってるだけなのに随分と苦しそうだね。ああ、そっか。俺が首押さえてたんだっけ」

 ごめん。と、全く心の籠もっていない謝罪を伸べると、脚を下ろし首から手を離す。
 静雄は崩れるように畳に膝と手を付き、時折咳き込みながら必死に息を吸った。

「て、めぇ…はあ、こん、な事…していいと…っは、思って…」

 鋭い、殺意の籠もった目が下から睨み付けてくる。それに対し臨也は顔に薄ら笑いを浮かべて相手を見下した。どこか、嬉しそうに。

「それって、従者が主人に逆らうなって言いたいの?」
「…当たり前、…だろッ」
「ふーん、意外。君はそういう事を、どちらかといえば嫌うタイプだと思ってたよ」

 その場にしゃがみ込んで薄ら笑いを更に濃くしてやれば、相手もより深い憎しみを込めて睨んでくる。

「今日…会ったばっかの、てめえが…何を、知ってるってんだ」
「――そうだね。その通りだ。なにも知らない」

 俺は、なにも知らない。
 聞こえるか聞こえないくらいの小さな呟きは、果たして相手に届いたのか。

「――――――」

 そして今度は誰にも聞こえない声で何か言うと、臨也は上着のポケットから小さなビンを取出し、片手で蓋を開け桃の香りがする唇に無理矢理ねじ込んだ。

「んぐっ!」

 ねじ込むと同時に静雄の顎を掴み、上を向かせる。口の端から桃の色をした液体が漏れ出たが、それは唇の匂いとは程遠い、ただ甘ったるいだけの匂いだった。

「ん…っぐ!」

 ごくり。という音がして、白い喉が上下する。そのまま何度がごくごくと飲ませると、口からビンを引き抜いた。

「ごほッ!…ごほッ、ごッ、はっ…!てめっ、はっ…何…飲ませ、やがった」
「魔法の薬」

 空になったビンを部屋の隅に放りながら答えると、臨也はおもむろに静雄のズボンに手へ伸ばす。

「なっ、触んな!」

 静雄の手がすかさず臨也の手を払うよりも早く、ズボンからベルトを引き抜いて立ち上がりる。そして静雄も反撃をしようと立ち上がろうとして、

「返しやが――えっ…ッ!」

 前に倒れた。

「ぁっ、あっ!…なんだ…これっ…はぁっ!」
「魔法の薬の効果だよ」
「薬…の、こう…か?はんっ!」
「君が知るべき事その三。君にも媚薬が利くという事。良かったね。今日だけで自分の弱点を三つも身をもって知る事ができたんだよ」

 畳に頬を付けたまま、まるで団子蟲のような格好で自分で自分の身体を抱いている静雄に、臨也はにこりと微笑み掛けた。この部屋に来たばかりの時、彼の背に投げ掛けたのと同じように。
 それから後ろに下がり、持っていたベルトを自分と静雄の間に横一直線にして置いた。

「これは君と俺の間にある境界線だよ。君がつくった主人と従者という二つのカテゴリーを分ける線。君の中にはっきりと存在している線。それを、今から俺は取り払おうと思う」

 静雄は最早喋ることすらままならないようで、ただ目の前に置かれた自分のベルトを湿り気を帯びた瞳で見つめている。
 そんな“主人”に見せ付けるようにゆっくりとベルトに足を掛けると、

「そーれ」

 思い切り遠くへ蹴飛ばした。

「はい、終了」

 そして臨也は満足気に笑った。
 目を細め、口角を上げ、満面笑みを携えたまま堂々と“静雄”に近づいた。
 身を屈め、濡れた焦茶の瞳と視線を合わせ、なお笑い続けた。
 だがその瞳にはもう、正常な感情は無かった。

「これで、俺は君に何をしてもいいわけだよね?」

 返事の代わりに、臨也の真っ黒なコートが弱々しく掴まれた。





二人の間の境界線は二つの動作で消えて

(さて、次は本物を消す番だね)



2010.7.4
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