父娘奮闘記 前編 星空別館相互記念小説
(1)
ルナは重い身体に渇を入れながら起き上がり、エレベーターで一階に降りた。
ペタペタとスリッパを引きずりながら(土足厳禁の我が家にもようやく耐性がついてきた)、リビングへ向かう。
(うまくやっているかしら……)
不安で不安で、おちおち寝てもいられない。
だからわざわざ怒られるのを覚悟で、下に降りて来たのだ。
人影を認識した扉が、自動的にスライドして開く。
そっと歩を進め、ルナは暖かなリビングに足を踏み入れた。
そして――
「…………」
「ん、やっ!」
「…………」
「やっ!」
その小さな攻防戦を、目の当たりにした。
カオルが口元に持って行ったおかゆを、右に顔をそらして避けるルイ。
すぐにまた目の前にスプーンを動かしても、やっぱり頭ごと逃げる。
口元やよだれ掛けがまだまだ綺麗なのを見るに、どうやらルイは、未だ一口もご飯を口にしていないらしい。
父娘の後ろでは、チャコが声もなく笑っていた。
無理もない。
あの、カオルの途方にくれた背中といったら……!
ルナは咄嗟に口元を手のひらで覆った。
当人にとっての切実な問題を笑ってしまうのは、人としてどうかと思うけど。
普段の彼がどんなのかを知っていれば知るほど、込み上げて来るものが止まらない。
「……っ」
小さくもれ出た笑い声。
身体をくの字に曲げ、思わずしゃがみこむ。
そこで初めて、ルイと目があった。
途端に、ルイはギュッと結ばれた口を開け、パッと表情を華やげる。
「まーま!」
ベビーチェアーごと身体を揺らし、大声でルナを呼んで。
泣いちゃうかなと思うくらい、顔が赤かった。
「え……」
カオルはそれまでルナの存在に気づかなかったらしい。
驚いて振り返った。
その時一瞬見せた、すがるような表情は……思わず抱き締めたくなるほど、可愛らしかった。
「……ルナ」
けれどそれは、すぐに咎めるような視線にとって変わる。
大人しく寝ていろと言いたいのだろう。
少しだけ残念に思いつつも、ルナは軽く笑いながら、チャコの隣に腰を降ろした。
「大丈夫よ。ちょっと様子を見に来ただけだから」
今は家全体を換気モードにしてある。
これくらい距離を置けば、ルイたちに風邪が移ったりもしないだろう。
ルナは苦笑してみせた。
「苦戦してるみたいね?」
「ああ……」
カオルは手元のスプーンを器の中に置いた。
心なしか肩が落ちている。
「どうも、警戒されているらしい」
「えー、まさか。そうだったとしたら、もっと泣き叫んでると思うんだけど」
人見知りはあまりしない子だけど、泣かない訳ではない。
本当に怖いなら、耳をふさぎたくなるほどの大声で泣く。
けれどカオルには、それが信じられないらしかった。
多分、彼自身がかつてはあまり泣かない子どもだったからだと思う。
「さすがに三ヶ月も期間が開けば、な……。忘れられるのも仕方ない」
「おかしいなぁ。いつもの番組を見た時なんかは、ちゃんとパパって言ってたんだけど……」
うーん、とルナはソファーにもたれかかりながら唸った。
一週間に一度はルイに見せる、あのビデオ……。
彼女がまだ生まれる前に放送された、カオルが乗る開拓船を追ったドキュメンタリー番組だ。
宇宙で最も危険な仕事の一つに数えられる環境の中で、必死に戦うクルーたち。
この手の番組は、世間へのアピールも兼ねて、定期的に全宇宙に放送される。
視聴率なんかも、下手なドラマより高いらしい。
そうなると必然的に、異例の若さで偉業と呼ぶに等しい功績を立て続けるカオルには、毎回強いスポットライトが当たる訳で。
しかもその回は本来、カオル単独の密着取材を中心に番組を組み立てていく予定だったと聞く。
本人の強い拒否でやり方を変えたとはいえ、もうほとんど主役と言って差し支えなかった。
だからルナも、あの録画したドキュメンタリー番組をよくルイに見せるのだが……
五日ほど前、台詞を覚えるくらい一緒に見た映像の中のカオルに向かって、ルイは確かにパパパパと連呼していた。
「言われてみればせやなぁ」
チャコもそれに思い至ったらしく、そう呟いた。
「ね? どうしたのかしら」
あれだけカオルを呼んでいた癖に、今はママ、ママとそればかり。
側に行ってやりたいが、これ以上近寄ると風邪が移る。
ルナは首を傾げた。
チャコも眉の間にシワを寄せ、カオルとルイを見つめる。
すると、突然――
「ああ、そうか」
そう言って、チャコはぽんと手を叩いた。
(2)
『……本当にこれでいいのか?』
「さあ……?」
寝室からの通信に、ルナは素直に首を傾げた。
チャコは隣で胸をはって答える。
「当たり前やろ。うちの勘はよう当たるんや」
『……勘か』
「でも、やってみる価値はあるかもよ? 何もしないよりはマシ、ってことで」
最早体調の悪さなど無視し、ルナはそっとカオルの背中を押した。
『……そうかもな』
それで上手くいくなら、目っけ物程度の気持ちで。
どの道ルイがもう少し大きくなったら、ちゃんとわかることのはずだから。
リビングの扉が開き、再びやって来たカオルの姿に、ルイはきょとんと首を傾げた。
そのリアクションに、やっぱり駄目だったのかも……と思った次の段階だ。
カオルがだんだん近づいて来たところで、ルイはパッと目を輝かせた。
「ぱーぱ?」
思いの外落ち着いた声。
カオルがほっと息をつくのが、目に見える。
ルナとチャコは顔を合わせ、そっと微笑みあった。
青い制帽に、白いラインが何本か入った青いスーツ。
彼が今見にまとうその制服は、カオルが務める組織のパイロットスーツだ。
「ほら、うちのゆうた通りやろ?」
「お見それしました」
ルナは素直に、チャコに頭を下げた。
――あの番組に映るカオルは、いつだって正規の制服に身を包んでいた。
プライベートな時間になると、決してテレビに映らないよう、雲隠れしていたそうだ。
だから今日のルイは、困惑していたのだろう(カオルは警戒と言ったけれど、あれは困惑で間違いない)。
目の前の人間は自分の父に似ているけれど、雰囲気も、服装も、ルイが知るものとは全く違うのだ。
ルイにとってパパは、開拓船のパイロットとして必死に働く姿も込みで、パパ。
毎日同じ時間に帰って来て、同じ時間に家を出る、普通のお父さんではない。
滅多に帰って来れない、今そのままのカオルを、ルイはちゃんと認めることが出来ている。
ルイが嬉しそうに、両腕をいっぱいに広げた。
カオルはおずおずと、慎重な手つきで、その小さな身体を抱き上げる。
その口元は、確かな笑みを描いていた。
ルナも立ち上がり、チャコを抱いて、カオルに寄りかかる。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
それは、カオルが本当の意味で家族に迎えられた瞬間だった。
あとがき
こういうネタが大好きなので、かなり力入っちゃいました。
光の子のルイがうんと小さな頃のお話。
リアル一歳児はこんなんじゃないのはわかってます、ええ。
カオルが唯一ルイに食べさせた手料理=離乳食という話をどっかに書いてたと思うのですが、それを形にした訳です。
もう書き出したらもう思いの外楽しくってですね。
ベルシャ夫婦まで引っ張って来たのですが、あまりに長くなりすぎちゃったので、なくなくカット。
収集もつかなくなりそうだったし。
カオルナシーンもばっさりと削り、父娘に焦点を絞りました。
これでも半分くらい削ったんですけどね……。
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