父娘奮闘記 前編 | ナノ








父娘奮闘記 前編
 
星空別館相互記念小説






(1)


「……どうだ?」

カオルの問いかけに、チャコは頭を左右に振った。

「あかん。また高なってるわ」
「もう一度病院に行くか?」
「いや、セカンドオピニオンのことをゆうてるんやったら、まだその必要はあらへん。安静は絶対に必要やけどな」
「そうか……」

カオルはふう、と息を吐いて肩の力を抜いた。

目の前には、血の気が去ったかのような頬に、ぎゅっと瞳を閉じて眠る、ルナの姿。


三ヶ月ぶりの休暇を貰い、自宅に帰って来て、彼女の暖かい手料理に舌鼓を打ったのも束の間。
ルナの様子がおかしいことに気づいた時、彼女の体温は既に三八度近くまで達していた。

すぐに車を出して病院に向かい、風邪という診断と薬をもらっては来たが……。

チャコによれば、ルナの体温はとうとう三八度を超えたらしい。
既に微熱を超えて、中等度熱の域に入ってしまっている。

「顔色の悪さと言い、手足の冷えと言い、ゆうとくけど、これからまだまだ熱は上がるで? とりあえず今は暖かくせな」

チャコはカオルに警告するように、真ん中の指を立てた。

「ま、こっちの心配なら今はいらん。何か異常があったら、うちが見逃すはずないしな。問題は、や……」

チャコが息を吐き出しながら扉の方を見つめる。
カオルもそれにならい、そっと視線をそちらに落とした。

そして――

思わずくらりと目眩がする。
確かに、これは大きな問題だ。


「――まーま」


部屋の入り口で、一歳になったばかりの幼児が声を上げる。

この前会ったときよりだいぶ丸みが抜けた赤ん坊は、それでもすぐに壊れてしまうんじゃないかと思うくらい、小さくて。


風邪が移ってはいけないからと、チャコが隣の部屋で夕寝をさせたばかりだというのに……。
いつの間に目を覚ましたのだろう。

タオルケットをずるずると引きずりながらここまで歩いてきたルイの足取りは、しっかりとしたものだった。
同じ年代の子どもと比べても、ルイは人一倍歩き出したのが早い。

「ママは風邪や。今は勘弁したって」

ルナのベットから飛び降りたチャコが、自分とほとんど同じ高さにあるルイの目を見つめて言った。

ルイは、零れそうなほどに大きな瞳を瞬かせ、じっとカオルを見上げる。
それから少しだけ、沈黙が流れて――


「……まーま」


この、一言。

…………。

やはり、問題だ。






(2)


カチ、カチ、と時計の秒針が刻むレトロな響きが、やけに耳に残る。
解放感溢れる広いリビングの中、カオルはルイと二人きりだった。

「…………」

ルイは目の前に散らばったオモチャに、さっきから一つも手をつけない。
泣いたり、笑ったりもしない。
赤ん坊にあるまじき大人しさで、じっとカオルの顔を見つめてくる。

「…………」

カオルは、ペちゃんと地べたに大きなお尻をつくルイの前に座っていた。

どうも居心地が悪い。
ありったけのオモチャをひっくり返して目の前に並べてみても、この通りの反応。

チャコはルナに付きっきりだし、ルナはあの通りだし……。
さて、どうしたものか。


「…………」
「…………」
「……ルイ」
「……まーま」
「ルナは風邪だ。そうではなく……」


カオルは、ふう、と息をついて頭をかきむしった。

彼女が一体何を考え、何を望んでいるのか――
ルナはその声の高低、表情、状況などを見て、だいたいは理解できると言う。
カオルにとっては、雲をつかむような話だ。

そもそもルイは、どの程度こちらの言葉を理解しているのだろうか。
歩けるというのも知ってはいるが、どのくらいの距離を?
好きなものは?
嫌いなものは?
普段は、何をして過ごしている?


カオルは、ルイが毎日どれだけ歩き、床を転げ、どんな言葉を口にするのかを、まるで知らない。
故に、コミュニケーションが上手く取れない。
反応のない相手に一方的にペラペラ話し続けられるほど、お喋りでもなかったから。

(俺は一体、どうしたらいい……)

戸惑うことばかりだ。
何をしたらいいのかもわからない。

一応、三ヶ月前に彼女を抱き上げた時は、それなりに喜んでくれたと思う。
けれど今朝、久方ぶりに顔を見たルイは、ただルナの腕の中で、じっとカオルを見つめていた。
一瞬、睨んでいるのかと思うほど強い目で。


――……睨む?


そこで、はた、と気がついた。
考えてみればそれは、至極当前のことだった。

(……ああ、そうか)

“そう”だから、こうして気を張って、カオルを見つめる。
カオルが自分に危害を加える人間かどうかを、見極めようとしている。

ルイは……カオルの娘は、多分――


「俺のことを、覚えていないんだな……」


改めて言葉にすると、ひどく胸の辺りが痛んだ。
感情の起伏が乏しいなりに、確かに傷ついている。
なんとも勝手な話だ。

ルイがこの世に生まれ出てきて、既に一年が経つ。
その間、二人が共に過ごした期間といえば、ほんの二、三ヶ月程度で。

最もめまぐるしく日々が流れてゆくこの時期だ。
たまにしか帰って来ない人間のことを記憶に留めていられる赤ん坊が、どこにいる。


娘に、忘れられた父親――
情けなくて、ため息すら出てこない。

ルイにとってカオルは、全く見知らぬ、赤の他人も同然の存在。
家に押しかけ、我が物顔で居座る怪しい人物。
今彼女が事ある毎にルナの名を呼ぶのは、母親の庇護を求めているからなのだ――

「……すまない」

わずかに目を伏せる。
それもこれも、全ては滅多に家族にすら顔を見せられない己の、身から出たさびだ。

同じパイロットになるにしても、旅客機、運送業、警察関係辺りならば、もう少しまともに帰ってくることも出来るのに。
娘に忘れられることも、あまつさえ警戒させることもなかっただろうに。
もっとちゃんと、ルイの成長を近くで見つめて、あやして、いけただろうに。

――質が悪い。

そうなるかもしれないとわかっていながらも開拓船に乗ることを選んだかつての自分も。
その選択に、今でさえ後悔していなことも。

だってカオルには、家族を犠牲にしてでも諦めきれない、夢があったから。

「ルナにも、お前にも、チャコにも、迷惑をかけてばかりだな」

そっと、手を伸ばす。

ルイは一瞬、ぴくりと身体を強ばらせた。
それでも黙って、カオルの手のひらを、自分の頭を撫でる温もりを、受け入れる。

今さら変えられない生き方の中で、ただ一つそれだけが、今は救いだった。






(3)


グツグツと、鍋の中身が音を立てて煮えてゆく。
カオルはテーブルの上の広げたままのレシピに目線を移した。

夕食を作り始めてから、そろそろ二十分。
自分やルナの分は、早々に出来上がった。

問題は、ルイの離乳食の方だ。
手順の難しさ、と言うより、一つの工程を終える度にいちいち本を見て次を確認するから、時間がかかる。

レシピなんてとっくに頭の中に入っているのに。
何度確かめたって答えは変わらないことも承知で、そうせずにはいられない。
味付けはこれでいいのか、具は大きすぎないか。
写真を見つめながら、ゆっくりと進めていく。


背後から、若干の呆れを含んだ笑い声が聞こえてきた。
チャコだ。

「あーあ、またあないに不安そうにして……。昔のあいつからは考えられへん姿やで。なぁ?」
「うー」
「情けないっちゅうか、なんちゅうか、肝っ玉が小さすぎる。これやから男親はあかんねや」
「んまーま」
「ほんま、あの背中をあいつの信望者らに見せてやりたいわ。そしたら、受験やら資格試験やらのたんびに家を拝みに来るアホな奴らも減るっちゅうもんやろ」

(……そんなことがあったのか)

チャコの話に、カオルは思わずこめかみの辺りを押さえた。

なんだそれは。
最近の学生は一体どうなっているのだ。
願掛けのつもりか?

その間に勉強の一つでもしていた方がよっぽど為になるだろうに。
よしんば神頼みするにしても、何故お参りするのが近所の教会や寺ではなく、自分の家なのだ。

(……まさか本気で俺のことを生き神扱いしてる訳じゃないよな?)

初対面のパイロット連中からたまに向けられる、キラキラとした瞳を思い返す。
尊敬というより崇拝に近い、あの輝き。

とにかくあれは、娘一人満足に面倒を見れない、ペットロボットに良いように転がされるような人間を見る目じゃない。
緊張されるのには、もう慣れきってしまったけれど。


……これ以上想像するのが嫌になって、カオルは無理やり意識を深層からすくい上げた。

「ええか、ルイ。男はふらふらふらふらと頼りない生き物なんや。あんたはしっかりそれを支えて、なおかつコントロール出来る、エエ女にならんとあかんねんで?」
「ぁい」

「…………」

チャコの言葉に、またため息がもれる。
余計なことは教えなくていいと言おうにも、口から先に出来たようなあのロボットに、口が最後に、それも申し訳程度に付いてきたような自分が勝てるはずがないのは、わかりきっていた。

カオルは無言のまま、鍋の加熱モードを止めた。







前編|後編









人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -