ひえんそう
王都へ足を踏み入れて、かなり時間が経っている。
情報収集へ向かったナルサスとダリューンと分かれたサルシャーンはひとり、夜の更けた入り組んだ路地を歩いた。
ここへ来るまでにも、やはり王都中ルシタニア兵で溢れ、でかい面をして振舞っている者が沢山いた。広場では、ルシタニアのボダンという男が、国中の書物を焼き払う騒ぎもあった。
あの男にはサルシャーンも恨みがある。兄を痛めつけたのは、あの男だ。努めて冷静であったナルサスも、ボダンの残酷非道な行いには腹わたが煮えくりかえる思いだっただろう。
一刻も早くアンドラゴラス王を助け出し王都を奪還せねばならないとアルスラーンが焦る気持ちも、わからなくはない。国の政策には然程興味のなかったサルシャーンでも見過ごす事のできないほど、彼らは悪逆であった。
路地を暫く行くと、建物の入り口から細い灯りが漏れ、背の低い男が顔を覗かせた。彼はサルシャーンの姿を見ると、身体を更に縮こませて、小さく手招きをする。サルシャーンは周囲に人がいないのを確認すると、彼に駆け寄り、建物の中へと入っていった。
「姿が見えないから心配していたが、無事だったのだな。」
「ええ、サルシャーン様もご無事で何よりです。」
男は、幼少の頃からサルシャーンがよく兄と訪れた武器商人であった。普段はバザールで店を開いていたが、ルシタニアの者の略奪を受ける前に、自宅に引き取ってきたそうだ。
以前エラムと訪れた屋敷の女に彼の居場所を教えてもらい、サルシャーンは武器の調達をするため、ここまできた。
「何をご所望で?
と言っても、今は大したものは取り揃えておりませんが…。」
「良い。剣がほしいだけだ。」
エラムとの潜入と、此度の潜入。サルシャーンはそのどちらでも武器を所持していない。王都を抜け出す際、何も考えずに槍を手に取ったはいいものの、こうして忍び込む際には長物は目立つ故、仕方なくアルスラーンたちの元へ置いてきたのだった。
「左様ですか。
でしたら、今いくつかお持ちします。」
男はそういうと、奥の部屋から数本の剣を抱え、決して広くはないテーブルの上へと並べる。サルシャーンがそれらを持ち、試し振りをする最中、男は一歩離れたところで彼女を眺めていた。
「狼に育てられた者=v
不意に男が呟いたその名にサルシャーンが剣を振る手を止める。男はサルシャーンの側へ一歩寄ると、蝋燭の炎が揺らめく彼女の琥珀色の瞳を見つめた。
「ルシタニア人たちがそう噂しておられましたぞ。
諸侯たちの元へ噂が届くのも、時間の問題でしょうな。」
「……。」
「……サルシャーン様が無事と知れば、イスファーン様もさぞお喜びになりましょう。」
「ああ……そうだな。」
「私どもの方から、イスファーン様へ便りを出しましょうか?」
男の提案に、サルシャーンは今は離れた場所にいるもう一人の兄を思い浮かべて、目を細める。兄には、然るべき時、自ら手紙を認めるつもりでいた。サルシャーンは男に首を振り、断る。
「身を隠しているそなたがそんな危険を冒すことはない。
今は生き延びることだけを考えてくれ。」
それと、これを頼む。
鍔に金の装飾が施された、剣を差し出すと、男はそれに見合う鞘をつけ、サルシャーンの腰に巻いてやった。くるくるとその場で周り、身体に重さが馴染むと、サルシャーンは満足げに頷く。
「ありがとう、助かった。幾らだ?」
「あなた様のお力になりたいだけですので、お代は頂きませぬ。
礼の言葉だけでも私には十分でございます。」
「そなたらは本当に私に甘いのだな。」
あの屋敷の者といい、この商人といい、非常時ではあるが、些か甘やかし過ぎる。照れ臭そうにもう一度礼を告げて建物を出るサルシャーンに灯りを持たせて、男は深々と頭を下げてその背を見送った。
「ご武運を。」
*
商人のもとを出たサルシャーンは再び路地を歩いた。ダリューンたちと落ち合う予定の場所はこの路地を通り抜けた先の、王都の外れだ。彼らは先に着いているかもしれない。サルシャーンの足は自然と早まっていく。
火が半分ほど、皿の中の蝋を溶かした時、サルシャーンの耳が足音を捉えた。狭く、幾つもの道が交差したこの場所では、どこからその足音が来るのかは特定できない。ただ、ひどく慌ただしく駆けていることだけは確かだ。
敵か、味方か?
いずれにしろ早くこの場を離れるのが得策だと駆け出すサルシャーンだが、意気込んだ矢先に、突然横の路地から飛び出した足音の主と衝突することになった。
どん、と予期せぬ思い衝撃に灯りが手から離れる。受け身が取れず、地面に叩きつけられる形で倒れたサルシャーンが身を起こすと、ぶつかった人影は、サルシャーンの落とした灯りのそばで蹲っていた。
蝋燭はまだ弱い炎を灯している。
「す、すまぬ!怪我はないか!」
うぅっ、と時折声を漏らすその人に、サルシャーンは怪我をさせてしまったのではないかと慌てて駆け寄り、その身体を支え起こした。
「そなた、どこか痛むところは、ない、か……?」
「貴様……」
顔を上げたのは、秀麗な顔立ちをした男だった。ひどく険しい顔をしてこちらを睨む男だが、サルシャーンは言葉を止めたのはそのためではない。男の目が、怯えていたのと、彼が片手で隠した顔の火傷であった。
「その火傷、まさか…!」
「何をするつもりだ!見るな!」
我に返ったサルシャーンは火傷を隠す男の手を取り払う。当然男は暴れたが、それよりも早くサルシャーンは隠すもののなくなった男の右半分の顔に触れた。
頼りない灯りのもとでじっくりと観察してから、サルシャーンはおもむろに男の顔から手を離した。
「その火傷はかなり時間が経っているのだな。」
「……だから、どうした。」
「あ、いや…その、勝手に触ってすまなかった!
先刻ルシタニアのボダンというものが炎の中へ人を突き落とすのをみて、もしやそなたもあの者にやられたのかと思ってな。」
単なるサルシャーンの勝手な思い込みだった。もし負ったばかりの傷であったら、見ず知らずの相手でも治療を施すつもりだったのだろうか。申し訳なさそうに目の前で座る少女を、男は怪訝そうに見ている。
こいつ、まさか、気付いていないのか。男の警戒を余所に、サルシャーンは他に怪我はないか?と尋ね、手を差し出す。暫く躊躇した後、男はその手に捕まって立ち上がった。
後ろ手に持っていた剣はマントの中に隠した。
男はサルシャーンよりもずっと背が高かった。辺りが暗いおかげで言及されていないが、男の纏う衣服も上質なものである。
しかしサルシャーンは気にすることなく、じっとこちらを無言で見下ろす男にきょとんとしていた。
「どうした…?
や、やっぱり勝手に触ったのがいけなかったか。
すまぬ…。」
「いや……。」
「でも、案ずるな。
私の知人にも片目の潰れた御方がいらっしゃる。ああ、いらっしゃった…かな…。
とにかく、火傷くらい気にすることはないぞ。」
どうやら、本当に気付いていないらしい。男とは一度王宮の地下水路で会ったというのに。すっかり毒気の削がれた男は、呆れにも近いため息を吐いて、自ら少女へ声を掛けた。
「……名は。」
「私はサルシャーンだ。そなたは?」
「……。」
「えっま、まってくれ!」
男は答えなかった。目の前を通り過ぎて去ろうとする男をサルシャーンは引き止めたが、男は無視して路地へと足を踏み入れる。
「待て、せめて名を教えてくれ!」
言葉で引き止めはするものの、追ってくるつもりはないらしい。男は闇へと溶ける寸前、少女を振り返る。
「次に会った時に生きていれば教えてやる。」
そう言い残して、男は今度こそ消えた。ひとり佇むサルシャーンは、男の真意を読み取れず、首を傾げている。
皿に乗った蝋燭はとうに燃え尽きて、ほのかなあたたかさだけがサルシャーンの手に伝わった。
飛燕草 -清明-