Kiss me Good bye06
目を開けると、すでに太陽は高く昇り窓から日差しが降り注いでいた。
草臥れた毛布から出てヒカルはノロノロと洗面所に向かう。鏡に映し出された顔は我ながら酷いもので、赤く充血した目が何とも言えなかった。蛇口を捻り、顔を洗うと不意に小さな痛みが唇に走る。
水を滴らせたまま顔を上げると、昨日まで無かった傷がそこにはあった。
悪い夢だと思いたいのに。
その傷が、昨夜の事は現実なのだと主張する。
(……キンブリー…。)
次に会うことを考えると、気まずくて仕方ない。
だが、ずっと引きこもっているわけにもいかず、彼女は意を決して部屋を出た。
昼間のラウンジに降りると研究所から共に逃げてきたキメラ達が、幾人かバラバラに寝入っていた。
ヒカルはキンブリーが居ない事を確認すると、雑然とした薄暗いラウンジの中を足音を立てずそっと歩く。
カウンターの奥まで来ると、適当に食材を取り食事の準備を始める。基本的に昼間は大半が寝ているので食事を取るものは少ない。
稀にドルチェットが匂いにつられてやって来るので一緒に食べたりもするが、昼は大抵一人だった。
「よォ…今からメシか?」
故に、眠たそうな声が聞こえた事にヒカルはびくりと身を竦ませた。
顔を上げると、気だるそうに戸口に立つ黒い男が目に入る。フリーズする。調理器具を握っていた手に、無駄に力が篭る。赤い瞳に魅入られたように、彼女は目が逸らせなかった。
「……グ……グリードさ…ん……?」
呆然としたままのヒカルにグリードは小さく苦笑すると、彼女の前のカウンターに腰を降ろした。
「驚きすぎだろオマエ。それ、俺にも作ってくれねえ?」
「……あ…、……は、はい…っ」
顔に一気に熱が集中する。頭の中が真っ白になるのを感じながら、ヒカルは調理を再開した。まさか自分がグリードさんの食事を作る日が来ようとは。あ、味付けはどうしよう…。一品でいいのかな…。聞くに聞けず、背中に冷や汗を感じながら彼女は完成を急いだ。
「お……お待たせしました。口に合うか分かりませんが。」
「おう。サンキュ。」
震える手で食器を彼の前に置くと、グリードはそれを口に運び始めた。リラックスしたその様とは対照的に、ヒカルの方はもはや緊張が限界に近い。
自分の分の皿を椅子2つ分空けて置くと、ヒカルも静かに腰を下ろした。
「ん、うめえ。」
「そ…そうですか。良かったです。」
ぎこちなく返事を返しつつ、彼女もスプーンを口に運ぶ。こんな時、何を話せばいいのか分からない。
近くにいる事、久しぶりに会話出来た事はもの凄く嬉しい。
だが、それが素直に喜べないのは……
”あなたにここは相応しくない。”
耳にこびり付いたように頭から離れない昨日の彼の言葉。食べかけのスプーンを静かに置く。すると、あっという間に皿のものを平らげたグリードが徐に席を立ちヒカルの隣にどかっと座った。
「…!?グ、グリード…さん?」
「難しい顔してんな…。なんかあったのか?」
「…え?」
「いつもはぼんやり、ふわふわ笑ってるだろ。」
開いた口が塞がらないほど驚愕するヒカルにグリードは呆れたよう脱力する。
「何だよ、その顔。」
「い、いえ。グリードさんが私なんか見てると思わなかったので、」
「あのなァ……俺が俺の持ち物、見てねェわけないだろうが。」
「は、はあ…、」
「はあ…、じゃねぇよ。やっぱりぼけっとしやがって。そんなだから、キンブリーの野郎につけ込まれんだぞ。」
ぐ、っとグリードの言葉に息が詰まる。どうしてそこでキンブリーの名前が出てくるのか。
狼狽した様子でヒカルがじっと彼の目を見つめると、グリードは彼女の唇に視線を落とし小さな傷を指先で触れた。
身を引こうとするが、顎は緩く掴まれている。
「……あ…こ、これは……っ」
「――昨日の……噛まれたのか。…妙なヤツに気に入られたな、お前も。」
「……っ!!?」
見られて、いた…!?
その言葉に昨晩の事が思い出されカッと頬が朱に染まる。
同時に思い出される恐怖。
錬成陣の彫られた骨ばった手が自分を押えつける感触。ヒカルはそれに反射的にグリードの手を払いのけ、震えながら俯いた。
「おい?」
「……ご、ごめんなさい…」
絞り出すような声で謝ると、ヒカルは呼吸を落ちつける。青ざめたその横顔にグリードは少しばかり複雑な顔をすると、ぽんぽんと彼女の頭を軽く撫でた。
「あ゛ー…その、なんだ。お前は俺が拾って帰ってきたから俺のもんだ。」
「………。」
「だから…ちゃんと俺の近くにいろ。じゃないとお前が怖がっても助けてやれねえし。痴話喧嘩なら話はまた別だが」
その言葉に、ヒカルはぼろぼろと涙を零し始めた。ぎょっとして、慌てるグリードに謝りながら彼女は顔を手で覆う。
ああ、やっぱりこの人が好きだ。
別に何とも思われていなくても。
何も出来なくても――――ここに居たい。
グリードさんの……隣に居たい。
「……グリードさん………グリードさ……」
「あー…もう、泣くなって。ここに居るなら笑っとけ。」
そうして髪を梳いてくれる彼の手はあの日と同じくらい温かかった。
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過去log.
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