風の華

もし、もしも。
今と世界が違っていたら。
私達は、どうしていただろうか。何か、違っていただろうか―――。



***



「もうっ!いい加減にしてよ、トモっ!!」
これで何度目だと思ってるの!?
フウカが叫んだ言葉は家中どころか隣の家にまで響き渡った。
トモとフウカが結婚したのは、ダイチがソラと出会ったあの日から、八年後の事だった。
結婚することになった。一番に報告したのはやはりダイチで、けれどダイチはあっさりとそうか、と呟いただけだった。今になって訊くと、トモと結婚しなかったら誰がお前をもらってくれたんだよ、とのことで、その台詞を聞いた瞬間、みぞおちに一発埋めておいた。失礼だ。
気がついたら、結婚してから、三十年たとうとしていた。子供はとっくに独り立ちして、子供たちと住んでいた家には、今やトモとフウカの二人きり。まるで、新婚のころに戻ったみたい、そう呟けばトモは何と言っていただろうか。
「何度言ったらわかってくれるの!?私、前にも言ったよね!?それで、前にも約束したよね!?もう、虫は飼いませんって!!」
「仕方ないでしょ?ほら、フウカも触ってみてよ、可愛いから」
「可愛くないし、仕方なくもない!!今すぐ森に返してきなさい!!」
「森?この御時世、そんなものある訳ないでしょ」
「うっさいわね!!さっさと元いた所に戻してきなさい!うちでは虫は飼いません!!」
フウカの虫嫌いは、幼いころの思い出に基づく。
忘れもしない、小学校一年の時。当時からダイチとフウカとトモは三人ひとまとめで、夏休みも同じように三人で遊んでいた。ある、八月の日。他でもない、トモがフウカの服の中にセミの子供を入れたのだ。
きっかけは、何だっただろうかと考える。とにかく、今思えば本当にしょうもない事でケンカして。元は温厚で大人しい性格とは言えトモも男の子で、怒ったトモが、そう、反撃して来たのだったか。
今でも、思い出すだけで鳥肌が立つ。肌の上を、セミの爪が行き来する感触。取り払いたいのに、手が届かない背中に入れられた為に取り払えないもどかしさ。元々あまり得意ではなかった虫が、自分の見えない背中を、這っている感覚。柄にもなくダイチとトモの二人の前で大泣きしたのは、あの一回きりだ。
ダイチもトモも、フウカの虫嫌いは知っていて、その上で共の行動で、それはもう、ダイチは恐ろしい勢いで友を説教した。号泣するフウカを背に庇って、真夏の日差しを受け、湯気さえ見える公園の砂場にトモを正座させ、何時間説教していただろうか。ダイチとてそうそう怒った所は目にしない子供だったのに、あの時の激昂の仕方はフウカを激しく戸惑わせた。
さすがにトモも反省したらしく、大人しくダイチの説教を受け、ごめんね、もうしないから、と指切りした、あの幼い日。
それが、フウカの虫嫌いに輪をかけた日の思い出であり、同時に初恋の日の思い出であった。
「…っ、もう、フウカしつこい!買って来ちゃったんだから仕方ないってさっきから何度も言ってるよね!?俺、昨日ちゃんとフウカに言ったよ!買って帰るからって!!」
「買って帰るで分かる訳ないでしょ!?」
「うん分かったって言ったのはフウカの方だろ!?」
「…っ、とにかく、返してきて!!」
「やだ」
話は平行線をたどるばかりで、進まない。最初はのらりくらりとしていたトモもだんだん子供っぽい口調になって、強情になり始めて。
―――知っている。こうなったトモは、怒る直前だって言う事も。こうなった時、この続きがどうなるかという事も。
「…じゃあ、いい。私が、返してくる」
「勝手な事すんなよ!!俺が面倒みるって言ってるだろ!フウカは何もしなくていいんだから、飼うのも飼わないも俺の勝手!そうだろ!?」
「私が虫嫌いなの知ってるでしょ!?いつになったら約束守るの!?二か月前も同じケンカしたよね!?」
「絶対返さないから!!」
 二人、静かににらみ合う。こうなったら、戻れない。分かっていて、この後起こる出来事はなるべく避けたくて、けれど、フウカとて、負けられない。自分の嫌いな物が、同じ家で暮らすなんて、そんなこと、耐えられない。
 だから。
「…勝手にしなさいよ!!私、出てく!!」
「好きにすれば!?」
 叫ぶやいなや、携帯や財布が入ったカバンを引っ掛け、玄関を出る。
 あぁ、またやってしまった。頭を抱えたのは扉を閉めてすぐの事だった。



***



「…で?今回はどれくらい続きそう?」
「わっかんない…あーもー…どうしていつもこうなるのよー」
 それはこっちの台詞だ、というのは呑み込んで、ソファにぐったり沈み込んで頭を抱える幼馴染に湯気の立ったマグカップを差し出す。中身はココアだ。
 ありがと、とさっきまでの叫び声とは一転、弱々しく呟いて受け取るフウカにどういたしまして、と呟いて、ダイチもマグカップに口をつける。ダイチのマグカップの中身は、レモンティーだ。
 一部始終を聞いて、ダイチはまたか、と思わずため息をついた。ダイチの家はトモの家の隣、つまり、二人の住居の隣で、先程聞こえて来た叫び声にまた始まったな、と思いつつ一人台所に立ち、お湯を沸かし始めた。お湯が沸いて、インスタントのココアの粉をマグカップに入れている頃にインターホンが鳴って、今日はぴったりか、なんて呟いて。
 言い合い、もとい夫婦喧嘩をした際は、必ず二人のうちのどちらかがダイチの家に逃げ込んで来る。隣なんだからしいて変わらないだろうに、というと壁があるだけで違うとかなんとか。いつの間にか隣で叫び声が聞こえたらお湯を沸かして、ココアの準備をするのがダイチの決まりになっていて、ダイチの家には何故だかトモとフウカ用にいつもココアが常備されるようになった。ダイチはココアをあまり飲まないので、なくなる頃にフウカが買ってくるようになったのも、そう最近の話ではない。
 いい年して何してるんだか、と思いつつフウカの様子を窺うと、今更反省しているらしく、肩を落として珍しくしおらしい態度をとっている。反省するならケンカしなければいいのに、言うと、そう出来たら苦労しないわよ、と怒られたのはいつのケンカの時だったか。
「…まぁ、今回の件に関してはトモが悪い」
「…そう、思う?」
「うん。だって、フウカが虫嫌いなのはあいつのせいだし、約束したのも二ヶ月前。忘れてました、じゃ済まない話だしな」
「うん」
「早く仲直りしろよ、とは言うけど。まあそう焦って仲直りしろとは言わない。好きなだけいればいいよ」
「…ありがと」
 なんだかなぁ、とダイチはもう一度ため息をついた。



***



フウカの初恋は、小学校一年の夏休み。虫嫌いに輪をかけた思い出と一緒に存在する。相手は幼馴染の、ダイチだ。
 ダイチは、元より優しい子供だった。同級生の男子達とは違って落ち着いていたし、ちょっと拾い癖が酷かったけれど、そんな物、虫さえ拾って来なければ気にならない物だった。フウカは虫は嫌いだけれど、動物は嫌いじゃない。むしろ、好きだったのだ。ダイチが虫を拾って来たことはフウカが知る限り一度もない。ハリネズミはあったが。
 何より、あの日、あれほど自分の為に怒ってくれたのが嬉しかった。あまり声を荒らげたりしない、怒った所もあまり見ない、そんな男の子が、号泣する自分を背に庇って、自分が号泣する原因を作った、これまた幼馴染に説教してくれたのだから、幼い少女が恋をするのも仕方がなかったようにも思う。
 しかし、初恋は実らないとはよく言ったもので、フウカの初恋もまた、実る事は無かった。
 ずるずると初恋を引きずった、高校三年の夏休み。お得意の拾い癖を披露したダイチは、あろうことか少女を拾って来た。
 ―――ソラ。当時、ダイチが大嫌いだったものの名前を持った少女は、その名と同じ色の髪と瞳をして、ダイチが手を引いて、目の前に現れた。
 一目見て、確信した。この子は、自分達の関係を狂わせてしまうと、一目見て気付いて、そして、恐怖した。
 壊さないで欲しい。もう少し、この初恋を続けていたい。そんな願いも叶わず、ダイチは、少女に、恋をした。ダイチが大嫌いだった空を作った“ありえないもの”がソラ本人だと分かっても、ソラを見つめるダイチの目は変わらなかった。―――敵わない。そう、突きつけられた気がした。
 あの別れ以来、ソラは一度も姿を現していない。いつか、迎えに行く。なら、私はそれまでに空を変える。そう、約束したのだと聞いた。
 あの出来事から、ダイチが空を見つめる目が変わった。以前は、忌々しそうに、憎悪のこもった瞳で見上げていたのに、あの日から、愛おしそうに、嬉しそうに、けれど、どこか寂しそうな目で空を見上げて、小さく笑うようになった。その変化が、嬉しくないと言えば嘘になるけれど、それと同時に、フウカの初恋が砕け散ったのだと、理解するのも容易だった。
 結果、空は変わった。いつも同じ、快晴。雲一つかからない、同じ時間に陽が昇り、同じ時間に月が輝き、いつも同じ色をしていた空は、大きく変化した。雲が昇るようになったのはあの出来事から一年位経ったときで、それから、雨が降るようになったのは早かった。雨が降った時には、それはもう社会現象になって、テレビのニュースでも、ラジオでも、新聞でも、しばらくはその話題で持ちきりだった。その一つ一つを目にするたびに、ダイチは嬉しそうに微笑んで、そして、頑張ったな、と小さく呟くのだ。
 もう、絶対に振り向かせることはできない。はっきりとそう確信したのはその頃で、そして、トモと付き合うようになったのも、同じ頃だった。
 やはりぼんやりとしているのはその辺りの記憶で、どちらから声をかけて、付き合いが始まったのかは、憶えていない。きっと、トモも憶えていないだろう、と思う。とにかく、最初の内フウカはダイチを忘れようと必死で、トモには本当に失礼な付き合い方をしていて、その罪悪感だけを感じていた記憶だけが鮮明に残っている。
 素直に、好きだと思ったのはまた、何時の話だっただろうか。自分とトモの関係に関する記憶がこうも曖昧だとは思わなくて、フウカは小さくため息をついた。
 結婚して、子供を産んで。幸せな家庭だったとは、思う。子供にも恵まれて、小さい頃からの付き合いなだけあって気を使わない旦那が居て、また、幼い頃からお世話になってる旦那の両親が居て。そして―――近くにダイチが居て。
 夫婦喧嘩する度に、ダイチの家に逃げ込んだ。子供を叱る度に、大泣きする子供達はダイチの家に逃げた。ダイチは嫌な顔一つせず、ただ小さくため息をついて、仕方ないな、なんて言って受け入れてくれて。本当に、恵まれている、と思う。
 ―――本当は、文句なんて、言えたモノじゃないのかもしれない。フウカは、トモに本当に失礼なことを続けて、それでもトモは、ずっと笑って過ごしてくれて、何も言わず許してくれて。それに甘えていたのかもしれない。ダイチが受け入れてくれるからといつまでたっても甘えているのかもしれない。
 本当に、これでいいのだろうか。
 自分の言ったことは、正しい?
(でも…虫は、どうしてもだめなんだもん…)
 子供じみた口調で年甲斐もなく呟いて、フウカはため息をついた。



***



「……反省する気は?」
「…ない事もない、こともない、ことも、ない…」
「どっちだよ」
 呆れた、というように肩をすくめてため息をつくダイチの前、トモも小さくため息をついた。そうすると、ため息つきたいのはこっちだよ、と苦笑したダイチが小さく頭を小突いて来て、その、いつもと変わらない態度がありがたかった。
 ダイチから呼び出しをくらったのは、フウカと喧嘩してから二時間後の事だった。相変わらず、ケンカしたらダイチの家、は変わらないらしくフウカはダイチの家に転がり込んで、けれどそのことはとっくに予測していたトモは、携帯に表示された名前を見て、あぁやっぱり、とも思わなかった。こうは言ってみるものの、もしトモが家出する側だったら、やっぱり間違いなくダイチの家に転がり込んでいただろうから。
 指定されたのは、やはり変わらない、小さい時よく三人で遊んだ公園だった。とはいえ季節は冬。ダウンを着こんで、マフラーをしたダイチにせめてもの、と自動販売機で温かいお茶をおごっておく。そのことに関してはダイチも遠慮することもなく、どうも、と一言言って受け取っている。
 は、と息を吐いたダイチは寒いな、と小さく呟いて。
「まぁ、今回の件に関しては俺もフウカと同意見。約束したんだろ?」
「でも、フウカにちゃんと買って帰るって言った」
「主語をつけろ主語を。“虫を”買って帰るとは言ってないんだろ?」
「……言ってない」
 むぅ、と唇を尖らせると、子供か、と今度は肩を揺らして笑われた。お互い、もう五十も半ばに差し掛かり始めたとはいえ、ダイチはあまり見た目が変わっていない。元より童顔な方だとは思っていたが、まだ頑張れば三十代だと言ってもおかしくは無いだろう。
「まぁ、俺はいつまで預かってもかまわないけど。なるべく早く仲直りしろよ?あとになればなるほど、言いだしづらくなる事位わかってるだろ」
「分かってる」
「ん、じゃあ俺の話はそんだけ。お茶、ゴチソーサマ」
 ふ、っと彼の手を離れた空き缶が、まっすぐ公園に設置されているごみ箱に吸い込まれる。カコン、と乾いた音が響いて、夜の闇に溶けた。ひらひらと手を振って歩き出すダイチの後ろ姿をぼんやりと見つめて、トモはやっぱりため息をつくことしかできなかった。



***



「ねぇ、好きだよ?」
 これは、精一杯の告白だった。
 大学の休講が重なって、二人でダラダラ歩き回っていた、そんな昼下がり。何の前触れもなく囁いた言葉に、彼女はひどく泣きそうな顔をして、それから、それから―――。
 トモは、幼馴染で、それと同時にライバルでもあったフウカの事が、それはもう、物心つく前から好きだったと、記憶している。
 そもそも、トモとフウカが出会ったのは空手の道場だった。まだ、幼稚園に入ったばかりの、四つの時だっただろうか。
 最初は正直、気に入らなかった。後から入って来て、さらに女の子なのに強くて、すぐに溶け込んで、笑って。今思えばこれも幼いながらに彼女の才能に嫉妬していたんだろうけれど、言葉にも態度にもしないまま、トモは彼女をひどく嫌っていた。
 更に彼女を嫌う気持ちに拍車をかけたのが、幼稚園での出来事だった。当時から仲が良かったダイチを、フウカが道場で習ったばかりの一本背負いで投げ飛ばした。きょとりと目を見開いたダイチが得意げに胸を張るフウカを見つめて、それから、同じ道場に通うトモに目を向けて。―――くしゃり、と表情を歪めた。彼が涙する所を見るのはこの時が初めてで、ひどく困惑した記憶がある。痛かっただろう、まだ、四つの子供が同い年の少女に床に叩きつけられて、心も、身体も、痛かっただろう。ぼたぼたと涙を溢れさせるダイチを目の前にして、フウカも狼狽して、それから、私、悪くない、と小さく呟いてその場から走り去って行ったのを見て、トモは静かに激昂した。そして、次の道場で、組み手をした時、彼女がダイチにしたのと同じように、一本背負いをかましたのだ。
 ここで、一つ訂正しておこう。一本背負いは、空手の技ではない。フウカが一本背負いを道場で習ったと言うのはあながち嘘ではないが、習ったと言うよりは、彼女が師範に柔道と空手の違いについて訊ねた際に、師範が一本背負いを説明したと言う事だ。習った訳でもなく、ただ、一本背負いをしてみたいという安易な気持ちでダイチを投げ飛ばして、末に泣かせて逃げだした彼女が、トモは許せなかった。
 結果を言うと、怒られた。それはもう、みっちり。投げ飛ばされたフウカは、ダイチと同じようにきょとんと目を大きく見開いて、それから、顔を歪ませた。今にも泣きそうなその表情を、冷たく見降ろした自覚はある。
「ダイチは、もっと痛かったんだ」
 静かに吐き捨てた。トモが投げ飛ばした先は、畳の上。女の子を相手にしたのだからそれなりに力加減はしている。ただ、考えなしに興味本位で冷たく硬い床の上に、碌に受け身もとれない素人を投げ飛ばしたお前とは違う、と言外に吐き捨て、顔を背けると、後ろで激しい泣き声が聞こえた。ざまあみろ、と内心で冷たく吐き出したと同時に師範からの拳骨が落とされたのだが。
「そんなことしたのか」
「だって、ダイチ泣かせたもん、あいつ。俺、あいつ嫌いだ」
 翌日幼稚園でダイチにそう話すと、彼はそれはもう他人事のように呟いて、ふうん、とうなずいただけだった。師範にすべてを話して、二人して道場の廊下で並んで正座させられて怒られて、ホント散々だった。と唇を尖らせたトモに、ダイチは苦笑して。
「確かにビックリしたし痛かったし、俺も泣いたけど。女の子泣かせたトモも悪い」
「はぁ?何言ってんの、ダイチ。悪いのあっちでしょ?」
「だって、男の俺が泣くぐらい痛いのに、女の子のあいつにそれしちゃダメだろ?そりゃ、あの子が悪くないかって言ったらそうじゃないけど。二人とも、悪い」
 喧嘩両成敗、とはまさにこの事だったのだろう。何でもない事のように笑ったダイチが、ちゃんと仲直りしろよ、とぐしゃぐしゃ頭を撫でて来たのは、あとにも先にもこれきりだった。
 嫌いだった彼女を、恋愛感情で見つめるようになったのは、小学校に入る直前だった。
 件の出来事で少し確執が出来て、顔を合わせてもあまり会話をする事は無かったけれど、週に何度も道場で顔を合わせて、毎日のように同じ教室で過ごして、全く会話がなかったかと言えばそうでもない。フウカは、自分が同じように投げ飛ばされてようやくダイチにしたことへの重大さに気付いたらしく、きちんとダイチに謝ったようだったし、何よりダイチがよくかまっていたので、ごく稀に一緒に遊ぶこともあった。それでも、あまり好きでなかったのは確かだったが。
「…何してるの」
 そんなある日、小さく蹲っている彼女を見つけたのは、偶然だった。
 あれは、確か五歳の春。いつも通りダイチと遊ぼうと家を出て、少しした公園の滑り台の下で、その姿を見かけたときは、正直、げっ、と目を逸らした。会いたくない人物、と言っても過言ではない少女を見かけて、嬉しいはずがない。
「……何でもない」
「あっそ」
 我ながら、冷めた子供だったと思う。今考えるとひどい話、声をかけたのも気まぐれで、彼女がどう返事しようと足早にその場を去ることはすでにトモの中で決定事項だった。
 肩をすくめて通り過ぎて、少ししてから小さく悲鳴が聞こえて、思わず立ち止まる。
 ―――悲鳴?あいつが?
 道場で、どんなに大きな子に負けても、師範に叱られても泣き声一つ上げないあいつが。唯一、トモが一本背負いをした時にだけ泣いたあいつが。悲鳴を上げたことに、何より驚いた。
 思わずぐるりと振り返って、目を瞬く。相変わらずフウカは蹲ったままで、けれど、遠目から見ても震えているのはすぐに分かった。ずかずかと大股で近づいて、ねぇ、ともう一度大きな声で呼びかける。
「何してるの」
「何でもないって言ったでしょ…っ」
「何でもなく見えないし聞こえないから訊いてるの」
「何でもない…っ」
 意地っ張り、と悪態ついて、同じようにしゃがみこむ。彼女の目線の先を辿って―――トモは、思わず目を見開いた。
 ―――虫。彼女の目の前には、毛虫がうにゅうにゅしていた。
「……虫?」
「ほっといてよぉ…っ」
「へぇ…虫、苦手なんだ」
「ほっとけっつってんでしょ!!」
「うん。俺、別にお前に興味ないし。いいよ、そのまま蹲ってれば?」
 冷たく言い捨てて、立ち上がるとフウカの肩がびくりと震えた。そもそもどうして後ろに動こうとは思わないのだろう、と考えて、ふと毛虫の近くにヘアピンが落ちていることに気付いた。なる程、これを取りたいのか。なんて考えて。
「早く行きなさいよっ、どうせ、今日もダイチと遊ぶんでしょ!?」
「……」
「私のこと嫌いなんでしょ!?じゃあ、早く行けばいいじゃない!!」
「……」
「…っ、何で、ずっといるのよ…っ」
 彼女の声が、泣きそうに滲む。ふと、どうして自分はずっと彼女の蹲る後ろ姿を眺めているのだろうかと、考えた。
 フウカは、嫌いな奴。苦手、じゃなくて、嫌い。なのに、どうしていつも目で追っていたのだろう。どうして今、立ち去らないのだろう。どうして、どうして、どうして。
 幼いながらに理解した。自分は、本当はフウカの事が嫌いなんかじゃなくて。―――ただ、気になっているんだと言う事を。
 最初は確かに嫌いだったのかもしれない。仲の良いダイチを投げ飛ばして、挙句ダイチをとって行ってしまいそうで、嫉妬していたのかもしれない。でも、今は。
「…言ったら、協力してあげる」
「……は?」
「一言、取って、って言ったら、取ってあげるよ?ピン」
「…っ」
「取りたいんでしょ?それ」
 うぅ、と呻いた少女がずるい、と呟く。好きに言えばいい、と思っていた。トモは、結局彼女が言っても言わなくても、取ってあげるつもりになっていた。
 沈黙が、降る。ひらひらと散る桜の花びらにぼんやりと目を向けて、トモは黙って少女の言葉を待った。
「…あの、」
「うん?」
「……取って、…ください」
 ブハ、と思わず噴き出した。
 さっきまであんなに強気だった少女がおずおずとこちらを見上げ、屈辱とでも言いたげに顔を歪めて何故か敬語。いっそ笑うしかないその様子に、トモはおなかを抱えて笑った。
「な…っ何よっ!!何で笑うのよ!!」
「い、いや…っ、あははっ…わ、分かった、取る、取ってあげるよ…っ」
 かあ、と頬を朱に染めて涙目で言い募るフウカに爆笑しつつ、近くにあった枝で毛虫をよけてからヘアピンを拾い上げてやる。
 そんな方法思いつかなかった、と言いたげに目を輝かせる様がまたおかしく、くすくす笑いながらヘアピンを差し出し、じゃあね、と背を向ける。
「あ、あのさ…っ」
「ん?」
 ぐい、と強い力で肩を掴まれて、振り返る。顔を赤くしたままのフウカが目線を上げたり下げたりして宙を彷徨わせたのち、ちらりとトモで焦点を結んで。何とも悔しげにもう一度、あのさ、と呟いて。
「あ、りがとう…ございます」
 だから何で敬語。
 突っ込む所はたくさんあったが、そう言った少女が何故か今までになかった位可愛く思えた。何だ、こいつ普通にかわいい。おかしさに肩を震わせたトモはぼんやりとそんな事を思って。
「どういたしまして?」
 多分、これが初恋だったんじゃないかと、思う。
 小学校になって、三人で遊ぶようになって、虫嫌いをいじりすぎて泣かせて、彼女の初恋はダイチに向いてしまったけれど。トモの初恋は、間違いなくフウカだった。
「……虫、可愛いんだけどなぁ…」
 うにうに動くそれを眺めて、ため息をつく。昔から、事あるごとに喧嘩して、そうして、その理由は大体虫だった。
 そもそも、フウカの虫嫌いに拍車をかけたのはトモで、その自覚もあるのだから、トモが間違っていると言うダイチの言葉も理解はできる。けれど、好きな物は好きで、買ってしまったから仕方ないんじゃないか、と思う自分さえいる。
「でもなぁ…いつまでも奥さん、他の男のとこにやっとく訳にはいかないよなぁ…」
 変な所で独占欲強いよね。―――それは、誰の言葉だっただろうか。全くその通りであることは自覚しているし、否定するつもりは毛頭ない。
 さて、どうしようか。
 困ったなぁ、なんてのんきに呟いて、トモはもう一つため息をついた―――。



***



「…何してるの」
「ん?奥さんの帰りを待ってたの」
 おかえり、なんてのんきに笑って手を上げるトモに、フウカは盛大なため息をついた。
 何のためらいもなくダイチの家に帰ろうとしたフウカは、ふと、その手前のドアの前に大の大人がうずくまっているのを見かけて、顔をひきつらせた。あいつ、何で追い出された子供みたいにうずくまってんの。無視して通り過ぎようとしたフウカはしかし、痛い位に向けられる視線に耐えられず、ついぞ口を開いた。
「あのねぇ…」
「ねぇ、好きだよ?」
 懐かしい台詞。悪態を突こうと開いた口は音を紡ぐことなくはくはくと息を吐き出し、固まる。言葉を紡ぐことができなくなったフウカをトモは幸せそうに目を細めて笑い、まっすぐ見つめた。
「好きだよ、フウカ。だから、帰ってきて?」
「……虫、」
「返してきちゃった」
 えへへ、なんて、五十を過ぎた男がする笑い方でもないだろうに、眉を下げて笑ったトモは、だからね、とまるで幼い子供のように言葉を続けた。
 目の前に突き出された、小さな毛玉。
「この子、一緒に飼おうよ。俺も、この子でいいから」
 わん、と甲高い声で鳴いたそれは、茶色い毛の、トイプードル。にへら、と笑ったトモと、その丸い濡れた瞳に、フウカも思わず笑みを漏らした。
 しょうがないなぁ、なんて笑って。おかえり、という言葉をもう一度紡ぐ彼へ。
「ただいま」



***



 やっと帰ったか。静かになった部屋を見渡し、ダイチは小さく微笑む。隣からは明るい笑い声が聞こえていて、そこに混じった鳴き声に、目を瞬いた。あいつ、考えたな、なんて、苦笑して。独り静かに紅茶をすする。
 ピンポン、とインターホンの音が鳴り響いた。
 おいおい、早速なんてことは無いよな、なんて嫌な予感に顔を顰め、立ち上がる。ゆっくりと廊下を抜けて、焦れたようにもう一度、ピンポン、と鳴らされたインターホンにはい、と返事をして、ドアを、開けると―――。
「こんばんは、ダイチ」
 立っていた少女に、目を見開いた。変わらない、容姿。あの頃より少し長く伸びた空の髪は、夜の闇の中にふわりと揺れて、色白の肌が月に照らされ、薄ぼんやりと浮かび上がる。
「お、前…」
「ダイチがなかなか迎えに来てくれないから、来ちゃった」
 なんて、と続けようとした少女を、衝動に任せて、抱きしめる。耳元で息を呑む気配がした。
 懐かしい、声。自分は、あの時とはもう変わってしまったけれど、少女は少しも変わっていなくて。それが寂しくもあって、けれど、その時間の流れの中で、約束が失われていなかった事実が、嬉しい。
「…おかえり、ソラ…っ」
 唸るように小さく呟くと、抱きしめた少女は小さく息を漏らして、笑って。そっと、小さな腕が背に回された。
「ただいま、ダイチ」
 空には、満天の星が輝いていた―――――。



fin.


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