空色世界

『本日もいつもと変わらない晴天が続くでしょう』
テレビから聞こえてくる声が無くなったのはいつからだっただろうか。



2XXX年



ダイチは、空を見上げていた。
雲1つない快晴は、今日も世界が“通常”な証だった。が、それがダイチの最も嫌いなものだった。
 ―――吐き気がする
目が眩むほどの太陽の光も、抜けるように青い空の色も、言葉では言い表しようのない温かな匂いも、すべてがダイチに苛立ちを覚えさせた。
 水の惑星、地球。自然が大地に生き、生命が芽吹く星。―――そう形容されていたのはどれくらい前の事だろうか。
ダイチの知る“地球”には、確かに自然が溢れていた。大地を吹き抜ける風も、今も7割を占める生命の根源たる水も、すべてが“自然”。もちろん、ダイチ達人間も動物も例にもれず、草も木も花も、数百年前は消えてしまうのではないかと心配されたこの世界は、今もこの時を変わらず転がり続けていた。
 ―――ただ1つを除いて。
憎々しげに舌打ちをして、ダイチは空を仰ぎ見るのをやめた。湧き上がった苛立ちを押さえるように、短い髪をくしゃくしゃに掻き混ぜる。
 今見えているのは、“自然”の空じゃない。今降り注ぐ光は、“本物”の光じゃない。ダイチは1度もこの身で“本当”の空を感じた事はなかった。
 『―――で、本日もいつもと変わらない空で、平和な日々でしょう』
つけっぱなしで音を垂れ流していたテレビからそんな声が聴こえて、ダイチはまた1つ舌打ちをした。何がいつもと変わらない空だ。何が平和な日々だ。
 ―――お前達が、奪ったくせに
 大昔、ダイチの祖父の祖父のそのまた祖父位がまだ子供だった時、世界には“本物”の空が存在していたらしい。毎日毎日天気が変わり、雲があって、雨があって、雪があって、何より、本物の太陽があった世界。今では想像もできない話に昔は嘘だ嘘だと騒ぎ立てたような気もするが、今ではわかる。本当にそんな世界は存在していた。
 世界の変化は、突然だった。
 オゾン層の破壊により強まった紫外線の影響で、世界中で“ありえないできごと”が発生。世界の人口は当時の半分以下になった時にはすでに世界は滅びの道を辿っていたと言う。そんな世界を救ったのは“ありえないできごと”によって生まれた生命体、“ありえないもの”だった。突然現れた“ありえないもの”はヒトの姿ではなく、ヒトの言葉を話す事もなければ、文字を書くこともない。それなのにもかかわらず、それはやってのけてしまった。当時の科学技術では絶対不可能と言われた“空の人工化”を。
 空の人工化、とはシンプルな言い方で、簡潔に説明してしまうと、地球をすっぽりと包む形に広げられた特殊なディスプレイに時間と共に変化する空を映し出したのだ。紫外線はディスプレイが弾き、届かない太陽の光は人工太陽が補う。何も言えないほど、それらは完璧だった。と、どこかの本で読んだ。
 空を見上げると、変わらずそこには人工太陽がある。雲1つない、抜けるような青がある。
 ため息を1つついて、いつまでも不愉快な音を垂れ流し続けるテレビのスイッチを切り、ひょい、とリモコンをやや乱暴にソファに投げる。傍らに置いていたカバンを引っ掛けるようにして肩に担ぎ、台所を覗いて、奥で何やらご機嫌に戸棚をあさっている母親に声をかける。
「行ってくる」
「あ、いってらっしゃい。今日もクラブ?」
「ん。帰りにウミんトコ寄ってくる」
「そう。気をつけてね」
 短い会話を交わしてから靴をつっかけて扉を押し開ける。今日もまた、大嫌いな空の下に。暑い位に照りつける造り物の太陽を目の上に手をかざして見上げ、もう1度、今度は大きく舌を打った。



***



トモ、事自分はダイチの幼馴染だ。小さい頃、それこそ生まれて間もない頃から高校3年生の現在に至るまで現在進行形で一緒にいるのだから、付き合いは相当長い。だから彼の事はよくわかっていたつもりなの、だが。
 「コレはねぇーよ、どう考えても……」
「知らねーよ。通学路に落ちてた」
「落ちてたからって人間拾ってくるアホがどこにおるんじゃこのアホ――――――――っ!!!!」
 すぱぁん、といっそ清々しい位の音を立ててダイチの頭をはたいたもう1人の幼馴染の少女、フウカに、トモは全力で同意して、ため息をついた。



***



 幼いころから、ダイチはよく面倒で、風変わりなものを拾った。とはいっても、最初は見た事のない柄のお札で、どこか日本から遠い国の貨幣だったとトモは記憶している。最初は物珍しいものをよく拾う、その程度の事だったのだが。
 ダイチの面倒な癖は日に日にエスカレートして、拾ってくる者がもはや自分達だけの手には負えないような、犬や猫に変わったのは小学校に入って間もないころだった。何度そのせいで飼い主探しに走り回った事やら。事あるごとにそれらを拾ってきては、若干困り顔でどうしようかと意見を求めてくる。ある意味これはもう彼の一種の病気と言っても過言ではない。過言ではない、が―――
 「なぁんで人とか拾っちゃうかなー……」
「あんた、いい加減その何でも拾ってくる癖治しなさいよー……」
さすがにこればっかりは仕方ないと言って、飼い主探しをするわけにはいかない。徐々に拾うものの面倒さもグレードアップしてるよな、これ以上巻き込まないで欲しいよね、なんて話あっている所に、犬や猫などと比べ物にならない位面倒な……“飼い主”を探せない人間を拾ってくるとは。
 「別に癖じゃねーよ。拾ってくれって言うから……」
「おのれは拾ってくれ言われたら何でも拾うんかアホっ!!」
あーもーさっきから話が進まないっ!! ふてくされたように唇をほんの少し尖らせてそっぽを向くダイチを、毒を吐きながらフウカがどつく。日常と言えば日常のやり取りなのだが、トモとしては全力で遠慮したいシチュエーションである。と、言うか高3にもなって唇を尖らせてふてくされる男子ってどうなのだろう。
 「そもそも拾ったって言うより、拉致った、でしょ?」
「人聞き悪い事言うなよ。誘拐とか、そんな趣味悪い事してない」
「どうだか」
座る所が回転する職員室にあるような灰色の椅子が、ダイチの体重移動にぎし、と音を立てる。呆れ半分、苛立ち半分のフウカの台詞に空間に沈黙が降り、存在しないクーラーの代わりに本日も絶好調に働いている扇風機の音だけが、静かに響いた。
 「君、どこから来たの? 名前は?」
 慣れたくて慣れた訳ではないが、もうすでに慣れてしまった事態に苦笑を漏らして、未だダイチに手を引かれてここに来た時と変わらず、無表情に2人のやり取りを眺めている少女に訊ねた。日本人のものとは思えない空色の髪と瞳が、涼しげにゆれる。
 「……ソラ」
ぴくりとダイチの肩が揺れた。“ソラ”―――きっとこの言葉のせいなのだろう。
 トモは知っている。ダイチが今までどれだけこの、“空”を嫌って来たかを。“空”を憎んで来たかを。それは多分、フウカも同じで。
 「お前……ソラって言うのか」
「うん」
「そうか……」
 口を開いたダイチとたった今ソラと名乗った少女のやり取りに、こめかみをじわりと嫌な汗が伝う。ダイチを見上げる少女は無表情。少女を見下ろすダイチも無表情。しかし、ダイチの無表情の瞳の中に映るのは微かな拒絶と苛立ち。これだけ長い付き合いをしていて気がつかないはずのないそれに、トモもフウカも、そろって身震いした。
 「……ダイ、」
「じゃあソラ。お前はどうして『助けて』なんて言ったんだ」
「……はぁ?」
 またそんな大事なことも言わないで。ややこしくなるなぁ、なんて小さくつぶやいた横で、三度フウカがダイチの頭をはたいた。



***



 桜ノ宮高校文芸部部室。いつもはにぎやかなここにしては珍しく、しん、と静まり返っているこの空気に耐えられない、と次々と人が帰路につき、昼を過ぎるころには、最初にいた3人と、ソラと言う名の少女だけになっていた。
 「……えっと…ソラ?」
「うん」
「一体何に対して、助けてって言ったの? 私達は、あなたをどう助けたらいい?」
「……」
 フウカの疑問は最もだった。怒りも収まった所で、結局はダイチの拾ったものを…今回は人だが、ダイチと共に助けようとする所は変わっていない。
 ソラは無表情を微かに動かし、窓から外を見つめた。外、と言うよりは、空を、だ。自分達から焦点が変わったその空色の瞳は、どこか哀しそうだった。
 「……逃げてるの」
「え?」
「私は、逃げてる。怖い人達が毎日私を追いかけてくる。私はそれから逃げないと―――また、あそこに連れ戻される」
 まるでドラマの中の台詞のように、少女は言った。“怖い人達”“あそこ”―――漠然とした言葉は、今この瞬間が本当に現実なのかどうか疑いたくなる位突飛で、けれど、無表情にそう語る少女が口から出まかせに言っているとは思いがたい、そんな、静かで不思議な響きを持っていた。
 「そういう訳。で、助けようと思う」
ソラの言葉に沈黙した俺達に満足そうにうなずいてから、ダイチがまるでなんて事無いかのように、それこそ「きょう帰りに本屋寄ってこーぜー!」みたいなノリで軽く言ってのける。それに1早く「バカっ!!」と声も手も上げたのはフウカだ。
 「あんたバカ!? いや、バカだバカだとは思ってたけどここまでとは思ってなかったわよ!! こんな話、信じられる!? いきなり来て、追われてるんです助けて下さいって一体何百年前の物語よ!? それを、ああそうですか、じゃあ助けてあげましょう、なんて簡単に言える訳ないでしょ!」
「俺にはこいつが嘘をついてるように思えない。それはお前らだって一緒だろ」
「それでも! ううん、だからこそ簡単に言って良いもんじゃないの! ソラは今までの犬や猫と違うのよっ!?」
「わかってる。だからここに連れて来てるんだろ?」
「わかってないから言ってんの!! コレは現実! 本の中の話じゃないっ!!」
そんな話、あり得ない!!
 叫び切ったフウカの声がしんと静まり返った部室に嫌な位ハッキリと響き、通り抜けた。じっと黙って言葉を受けたダイチも、いまいち表情の掴めないソラも、フウカの言葉にぴくりとも反応を示さず、ただ真っ直ぐに見つめている。かちり、と音を立ててかたまる空気。
 「……なら、いい。わかった」
ふ、と息を吐いてその空気を打ち破ったのは他でもない、ダイチだった。いつもと変わらない真っ直ぐな瞳。吐き出された言葉を紡いだ声は、どこかかすれて小さく感じられる。
 ―――それはまるで、
「行こう、ソラ。ここではお前を匿えない。こんな所までついて来てもらって悪かった。今から改めてお前を匿える場所を探す。出るぞ」
 ―――無言の圧力のようで、
「2人も、巻き込んで悪かった。もう連れて来ない。今日の事は忘れてくれ」
 ―――無言の訴えのようで、
「じゃあ、また明日」
 ―――無言の絶望のように、じわりと胸の内にしみ込んだ。
 ずるいよ、ダイチ……。
パタリ、と静かに閉められた扉をちらりと一瞥してからその場にしゃがみこんだフウカがぽつりとこぼすのを、ただ何をするでもなく立ち尽くしたまま、見つめていた―――。



***



 「あの……」
そっと、気遣わしげな声がこちらに向けられて、ようやくダイチは沈み込んでいた思考を浮上させた。昼を過ぎ、“いつも通り”の時間に強く照りつけ始めた“人工太陽”の光が肌をじりじりと焦がしていた。
 「大丈夫。ソラは悪くない。何とかするから、心配しなくていい」
うん、と歯切れ悪くうなずく少女にこちらも取ってつけたような微笑みを浮かべる。少女を半ば引っ張るようにして部室を出てからすでに30分は経過している。いつまでも同じ場所にとどまっている訳にはいかないな、と内心舌打ちしたい気分になり、すっと双眼を細めた。
 少女―――ソラは、逃げていると、そう言った。助けて、とも。
 もちろんフウカの言うように少女の言葉が冗談や、ウソの類であることも一瞬頭をよぎったが、それは違うと即座に否定する事も出来た。
 (今日は、おかしい)
 大きな変化がある訳でもなく、根拠がある訳でもない。なのに、今日は変だと言いきる事がダイチには出来た。それこそ、フウカに言わせてみればただの予感や、勘でしかないのだが。
 ふ、と空を見上げる。“いつもと同じ”空がそこには存在したのに、今日は何かが違う。それが“自然”の空であるのなら、そんなこと当り前なのだが、今ここに存在する空は“自然”のそれではないのだから、変化を感じるはずがないのだ。
 「―――空」
「なに?」
「……あ、違う。そうじゃなくて、こっちの空」
ぽつりと漏らした言葉が届いてしまったのか、同じ名前を持つ少女が事ん、と隣で首を傾げて、人差し指で上を指し示して見せる。何に触れる訳でもなく、ただどこまでも続く真っ青な空があまりにも広くて、時々酷くこの行為が恐ろしく思えてしまう。そういう面も含めて、自分は空の事が嫌いなのかもしれない。
 なぁんだ、と言うようにうなずいた少女の肩で空色の髪が零れ落ちた。その髪と瞳の色がこの頭上に広がる忌々しい存在に同化して、消えてしまいそうに思えて、そう思ってしまうとつきりと痛んだ胸が苦しくなった。
 「……空、嫌いなの?」
「え……?」
「大っ嫌い、って顔、してたから」
「……そんな事ない」
「でも……」
「そんな事ない」
何か言いたそうにこちらを見つめる視線が、痛い。それでも強く言い張って、首を振って見せるとソラはそれ以上言い募ってはこなかった。抜けるように澄んだ空色が、言葉なく何かを問いかけて来てはいたが。
 しばらく2人で歩き回った。人通りの多い所、少ない所、公園、商店街、路地裏。意味もなく黙々と2人で歩を進めた。
 ソラは何も言わなかった。ダイチも何も言わなかった。ただ、細い腕を引いて、目的もなくダイチは自分の知る限りで街を歩き回った。
 そうして、1時間と少し、たった頃だった。
 「……っ!!」
引いていた腕が、びくりと震えて2人は立ち止まった。家からそう遠くない商店街で、人通りはそこそこ。けれど、ソラは一点を見つめたまま足を止めた。
 「……ソラ?」
「いる……あの人たちが……」
怯えたように小さくつぶやいた声を拾って、ダイチはソラの見つめる先に目を向ける。
 見慣れた町並み。どこかで1度は見た事のある人、記憶に残ってない人、小学生に、知り合いの母親。そして―――
 (……サラリーマンに……白衣?)
 目に留まったのは、この暑いのにきっちりと黒いスーツを着て、ネクタイを締めた2人のサラリーマン風の男性と、姿は見えない、白衣の裾。どちらもこのような場所で見るような風貌ではない。ましてや、今はまだ会社が終わっているには早すぎる時間帯で、昼休みと言うには遅すぎる。もちろん、その可能性がない訳ではなかったが、ソラの様子がおかしい所から、“おかしい”と、ダイチは判断した。
 「……逃げなきゃ」
ポツン、とこぼされた言葉に、そして、そうこぼした少女の様子にダイチは息を呑んだ。まるで人形のように感情の読みとれない瞳。虚ろなそれは、ただ景色を映しだすだけのレンズでしかないようで、ぞくりと肌が粟立った。
 一瞬、ダイチは逡巡する。動いていいのか。本当に、この少女を信じてしまって良いのか。この局面で迷っている場合ではないのだが、じっと思考を巡らせる。
 思考を絶ち切ったのは、短く唸った、風の音だった。
「……ッ!!」
「走れ、ソラっ!!」
 得体のしれない“ナニか”が、ソラのすぐ隣を通り過ぎた。は、と身体を硬くした少女の腕を引いて、反射的に走り出す。肩越しに振り返った後ろで、スーツの男が2人、こちらに駆けて来ていた。再び風が唸って、今度はすぐそばに“ナニか”が落下した。確認する事は叶わなかったが、一瞬見えたソレは、あまり気持ちのいいものではなかった気がする。
 (どこに行けば……っ!)
走り出したのはいいものの、ダイチはノープランだった。だれにも迷惑をかけず、かつ捕まらない場所。必死で頭を回転させて、様々な場所をピックアップする。三度“ナニか”が横をすり抜けた時、視界の端に白衣がちらついた。
 (あそこなら……!)
「ソラ、こっちだ!!」
突然方向を切り替えたダイチにソラが今まで聞いたこともないような慌てた悲鳴を上げる。それにかまう暇はなく、ただ無言で腕を引き、細く狭い路地の角を曲がり、肩越しにまた後ろを振り返る。追ってくる影は、ない。静かな路地裏に響く足音は自分達のものしか聞こえない。
また角を曲がって、すぐの角を曲がる。何度も何度もそれを繰り返し、ようやく目的の場所にたどり着いた時、すでに2人の息は絶え絶えだった。



***



 ち、と舌打ちを1つ打った自分の片割れに宥める意味を持って首を振って見せる。“なるべく目立つな”―――低くしゃがれた上司の声に紡がれた自分達への命令に背く訳にはいかない。この時間にスーツで立っている事自体非日常なのに、そんな男2人が少女と少年を追いかけていたとなると、嫌でも目立ってしまう。現に、今自分達に向けられている人々の視線は、優しいものではなかった。
 自分達の目的は少女だけだったはずなのに、いつの間に味方につけたのか1人の少年が少女をリードしていた。このあたりの道に詳しいらしく、路地裏に逃げ込んで狭い道と曲がり角の数に翻弄されている間に巻かれてしまった。この辺りの学生だろうか。この辺りに来るのはあまりない自分にとっては見覚えのない制服を着た少年だった。
 「まだ遠くには行ってないはずだ。近くを当たろう」
声をかけて歩き出す。どこにいったのだろうか、と思考を巡らせる半面、頭の端にちらつくのは、少年が自分達に向けた、一瞬の憎悪と怒りに満ちた真っ直ぐなまなざし。今時の子どもには珍しい正義感にあふれたソレは、すぐに逸らされ、少女に“ソラ”と呼びかけて走り去ってしまったが、あれを見る限り少女は自分について彼に何1つ語っていないらしい事が窺えた。そんな相手を何1つ疑わず共に逃げて見せた少年に多少の同情さえ覚える。
 ―――本当に、可哀想に。だって、彼女は…
 「ちょっと……! トモ!! どこ行くのよっ!!」
「だーから、ダイチ探すってば。1人にしといたら何するか……」
「私行かないってば!! だってさっき、」
 後ろから聞こえて来た声に何気なく視線を向けて、思わず2度見してしまう。何やら言い合いをしながら歩いてくる少年と少女の2人組は、こちらに視線を向ける事無く横をすり抜けて走っていく。少年は、先程自分達を巻いて見せた少年と同じデザインの制服を身にまとっていた。
 「反省してるんでしょ? ほら、行こ。多分、あいつの事だからウミの所にいると思うし」
「反省なんかしてないってば!! もう、トモってば!!」
 はいはい、と呆れた仕草を見せながらずるずると少女を引きずるように走っていく少年と、引きずられるようにしながらもきっちりついて走る少女の会話に耳を澄ませて、2人の目的地を探る。同じ制服を着ているのだ、もしかしたら、先程の少年に接触する事があるかもしれない。
 その旨をほぼアイコンタクトで伝えると、2人から少々距離を開けてつける事にした。



***



 『お兄ちゃん』
 舌足らずな声が耳の奥に響く。いつの間にか聞こえなくなった、忘れないと決めた声。あの日以来、この声は自分に向けられる事が無くなった。
 『ボクね、大きくなったら―――――になりたい!』
大切なはずの部分が消える。何と言っていただろうか。あの時の少年の満面の笑顔を思い描く事が出来るのに、何と言っていたか思い出せない。ただ、ひたすら無邪気なその言葉に、言い表しようのないような絶望を幼いながらに抱いた記憶だけが、鮮明に残っている。きっとなれるさ、お前なら。そう言って彼の頭をなでた自分はどんな顔をしていただろうか。
 ちゃんと、笑っていただろうか―――



***



 「……ウミ、久しぶり」
静まり返った部屋に自分の声だけが嫌に響いた。手を伸ばした先に、ベッドに横たわる少年。正真正銘、自分の弟だった。
 ダイチの弟、ウミは6つ年下の、本来なら小学校6年生のはずだった。けれど、3年前の事件をきっかけに彼の時間は動いていない。止まってしまったままの弟の時間は、けれどダイチを待つ事はなく、無慈悲にも間が空いて行くばかりだった。
 3年前の夏休み。高校受験を目前に控えたダイチにとって大切な時期であったのと同時に、当時のダイチは中学校でサッカー部に所属していて、引退試合を控えた時期でもあった。
 当時小学校3年生だったウミは毎日毎日、絶対に応援に行くからね! と目をキラキラさせて言って、ボールを蹴る真似をして笑っていた。普通に、幸せな日々だった。
 けれど、ウミが大地の試合に来る事はなかった。引退最後の試合、宣言通りに両親と応援に向かっていたらしいウミは、信号無視の車に撥ねられて―――
 次に見たウミは動かなくなっていた。頭を強く打ったらしく、この3年間目を覚まさず、今もこうして街1番の大病院のベッドで眠り続けている。
 窓の外に映る空を眺め、ため息をつく。ダイチはサッカーコートの芝生の上から見るこの抜けるような空が、昔は大好きだった。けれど、今は違う。この空は、ウミを奪ってしまったから。ウミの止まった時間の中で、流れて行く自分の時間の中で、空は無慈悲にもいつだって変わらない色で、形で、そこにあった。
 まるで変わらない弟と、変わっていく自分を嘲笑うかのように―――
 「その子……」
「あぁ、うん。弟……ウミって言うんだ。病院だったらそうそう騒げないと思って。ウミ、こいつはソラ。フウカ以外の女連れてくるのは初めてだろ?」
 そっと髪をなでる。もちろん反応はないが、それでもよかった。ちょっとだけ笑って、居心地悪そうにドアの前で立ち尽くしているソラに合図して、病室を出る。騒げないと言っても、いつスーツ達がここに来るかわからない以上、ウミを巻き込む事はしたくない。廊下を進んで目指したのは屋上だ。
 ギイ、と軋んだ音を鳴らした屋上の扉を開いたのはほぼ3年ぶりだった。初めて開いたのはウミがここに運び込まれたあの日で、それ以来ここに来る事はしなかった。ならどうして突然ここに来る気になったのかと聞かれると首を傾げるしかないが、そうするのが1番良いような気がしたのも確かだ。
 扉を開いた先に広がっていたのは青々と広がる空だった。雲1つない、抜けるような空色と、じりじりと照りつける太陽の光。作り物だとしても、今は嫌悪しているとしても、昔確かに、この風景が好きだった時期があった。
 ウミがここに運び込まれた日、ダイチはいてもたってもいられなくて、けれど試合を抜ける事は許されなくて、試合が終わるなりここに駆けつけ、屋上の扉を開けた。ここなら、ウミが何とかなるようなそんな気がしていた。けれど、広がっていた世界は変わらなかった。いっそ気持ち悪い位にソラはいつも通りで、日々はいつも通りでないのに、ここは変わらなくて、それに気付いた瞬間、ダイチは怖くなった。
 進まない時間の中のウミ。日々変わらない空。その2つが重なって、進む時間に生きる自分がただ1人取り残されてしまうような、そんな感覚に陥って。そんな負の感情は日々積もって、いつの間にかそれは空への嫌悪に変わっていた。
 四方をぐるりと囲んだフェンスを握りしめ、空を見上げる。隣で不思議そうな顔をしたソラは、ことりと首を傾げてから、そっと同じようにフェンスを握って空を見上げた。
 ソラは、本当に“空”に似ている。風に揺れた空色の髪をぼんやりと見やりながら考える。真っ直ぐに見つめてくる瞳の色は抜けるように透き通った青。少しでも目を離せばソラは“空”に同化して消えてしまいそうだった。
 「……俺は空が嫌いなんだ」
「……?」
「ソラじゃなくて、“空”が。公園でソラが言った通り、俺は空が大っきらいだ」
 突然吐き出した言葉にソラの表情が硬くなったのを見て、訂正する。けれどこちらを見つめているソラの表情はどこか影を落としていた。
 ずるずると座り込み、“光”に手をかざす。暑いな、と呟いた声がほんの少し震えた。隣にちょこんと腰を下ろしたソラが膝を抱えてじっとこちらを見つめる。
 「……あんまり楽しい話じゃないけど、聞いて欲しい」
こくん、と小さくうなずいたソラにほんの少し微笑んで、ダイチはポツリポツリと言葉を紡ぎ始めた―――。



***



 ソラはそっと目を伏せた。ぽつりぽつり語られるダイチの物語。空が大嫌いなんだ―――そう、言って困ったように笑った彼は、一体どんな気持ちなんだろう。
 ―――わからない
 じく、と胸に痛みが広がる。わからない。わからない。わからない。
 わかりたいのに、わからない。彼はきっとこんな話ししたくないだろうに、話してくれている。それがどれだけの勇気がいるか、それはわかるのに、彼の気持ちが図れなかった。
 じくりじくりと痛む胸。どうしてそこが痛むのだろう。自分には“   ”がないはずなのに、どうして。
 ぎゅう、と服の裾を握りながら、ごめんなさい、と口の中で呟く。
 ソラも、黙っている事がある。本当は、1番最初に信じると言いきってくれた時に言うべきだった事。なのに、言えなかった。言おうとするとぎゅう、と胸が痛くなって、声が出せなくなった。どうしてそうなったのかも、わからない。
 (ごめんなさい―――)
 彼なりに真っ直ぐ語ろうとしてくれているのがわかるからこそ、ソラにはそれが痛かった。酷く優しいダイチの声が、表情が、言葉の端々が、優しいと思う反面で、ひどく痛かった。
 (ごめんなさい、本当は私―――)



***



 「ダイチっ!!」
バン、と乱暴に開け放たれた屋上の扉に、思わずびくりと肩を揺らしてから俯けていた顔をあげる。会話を終えてからしばらく、ダイチとソラの間には未だ無言の空間が広がっていた中に飛び込んできたフウカの悲鳴に似た声は思った以上に響き渡り、一瞬時が止まったように感じた。
 「フウカ? トモも……どうしたんだ?」
「逃げて、ダイチっ!! その子連れて早く!!」
「はぁ?」
切羽詰まったような形相のフウカの頬はまるで激しい運動をした後のように紅潮していて、その隣に立つトモも首筋に汗がにじんでいた。その尋常じゃない様子の2人に一体何事かと眉を寄せ、首をひねる。自分の隣に座り込んでいたソラもきゅ、と細く白い手を握りしめて首を傾げる。
 「何か分かんないけど、変な奴らが俺らの後をつけてたから。多分ダイチとソラちゃん探してたんじゃないかな。一応巻いては来たけど、ここが見つかるのも時間の問題だと思う」
「あいつらが……?」
「そう。それからソラちゃん、ホントに追われてるみたいだね。あいつら、君の写真持って街中を回ってるらしい。疑ってごめんね?」
「え、う、ううん」
急に自分に話を振られて戸惑った様子で首を振るソラに、トモがふわ、と優しげに笑う。彼独特の柔らかい雰囲気を持つそれは、確かに優しく、温かい。けれど、それが心からのものではない事位、ダイチにも、フウカにもわかっていた。
 「―――でも、聞かせて? 君はいったい何者なの? あんな人たちに追われてるくらいだから、普通の女の子じゃないよね?」
「―――ッ!!」
びくりとわかりやすく大きく体を震わせたソラに、尚笑みを崩さないトモ。幼馴染ながらにいつまでたっても慣れず、見る度にぞっとするその笑顔にフウカも暫し固まっていた。何より相手の真意を測るように細められた瞳を笑みの形として表現してしまう彼は、ひどく冷たく感じられる。
 私は、と声を震わせたソラに全員の視線が集中する。トモからは、真剣な。フウカからは、まっすぐな。そして自分から向けるそれは、同情。確かにそうだったと、思う。
 永遠のような静寂。唇を小さく動かした少女の声が言葉を紡ごうと震える。3人は耳を傾けた。けれど―――その場で語られる事はなかった。
 「―――見つけたぞっ!!」
「「「「!!!」」」」
鋭くとんだ声と、フウカとトモが背にしていた扉が勢い良く開いた音に、4人とも弾かれたようにそちらに視線を向ける。そこに立っていたのは―――スーツ姿の男が2人と白衣の男が1人。先程“ナニか”を投げて追いかけてきた、ソラの追手だった。
 「君達、彼女から黙って離れなさい。私達の言う事を聞いたら、何もしないで返してあげるから」
「……どういう事だ」
「君達の事は調べさせてもらった。そう何度も仕事の邪魔をされると困るからね。君達は桜ノ宮高校の文芸部だそうじゃないか。大人しくした方が身のためだ」
 さあ、はやく。そう手を差し出した先にはソラ。びくりと震え、その空色の瞳を揺らした彼女は明らかに迷っている。自分がここにいる事でこちらに迷惑をかけるのではないか、と。
言外にそう告げたスーツ男を片側を睨みつけ、ソラの手をとる。迷惑なんかじゃない。そんなの、助けて、と言われた時から決まっていた。
 「―――フウカ、トモ、」
「わかってる……やるんでしょ? 私も、今のはちょっとムカついた」
「とか言いつつ、ホントはダイチの力になりたいんだよね、フウカ」
「はあ!? 何言ってんのよ」
呼びかけるとこちらを振り向いて、2人は笑った。まるで、幼いころに犬を拾って、一緒に飼い主を探して走り回った時のような、無邪気で、強気で、何より温かい瞳。じわりと広がった安心感に、ダイチも唇で弧を描き、2人を真っ直ぐ見つめた。
 「じゃあ――――頼んだ!!」
 ソラ! 腕を引き、一気に加速して走り出す。立ちはだかろうと扉の前に手を広げて立ったスーツ男に真っ直ぐ突っ込む。怖くない。ひゅ、と息を呑んだソラに一瞬瞳を向けて笑いかけ、ダイチは屋上の床を蹴る。その2人の脇を鋭い風が吹きぬけた。
 「はああぁぁぁっ!!!」
気合いのこもった声と共に、宙をむきだしの足が舞う。片方のスーツ男の首筋を見事にとらえたその足は、そのまま地面に降りる。キレイな回し蹴りと見せたのは、フウカだ。
 「行け! ダイチ!! その子、逃がすんで、しょ!!」
「ただの文芸部―――それも、高校生だと思ってなめんじゃないわよ!! 私もトモも、空手の段持ちなんだから!!」
叫びながら、トモがもう片割れを背負い投げる。鼻を鳴らして憤ったフウカはスカートのすそをパタパタと両手ではたいていた。その隣をソラの手を引いてすり抜ける。
 つくづく、強い幼馴染だと思う。そう何度も世話になりたくなかったが、自分の性質の問題で何度も見慣れてしまった2人の空手に、苦笑すら覚える。あれ、喰らうと痛いんだよな、なんて場違いにも和む余裕はある。
 病院の廊下を駆け抜けながら、後ろを振り返る。幸いにもまだ誰も追って来ていない。
 「ダイチ……! 今の、2人……っ」
「ああ、気にするな! フウカもトモも、将来は警察官になるんだ、とか言って、中学まで空手やってたんだ! そこらへんの大人なんかより、あいつらの方がずっと強い!!」
我が友ながら思う。なんてチート。確かに2人は自分の幼馴染で、ずっと一緒にいたもはや兄弟のような存在だが、自分とはまるで次元が違う。ただ、いつも2人を見ていて思っていたのは、1人だけ仲間はずれのようで寂しかったのは最初だけで、平凡に生まれてよかった、なんて言う2人にはものすごく失礼な事だった。
ダイチは走った。ソラの手を引いて、病院の玄関をくぐる。日暮れ時が近く、自動ドアのガラスは夕日の色を映して、朱色に輝いていた。その光景は、まるで―――

 『ボクね、大きくなったらパイロットになりたい! お兄ちゃんをボクが一番空に近い所に連れて行ってあげるね!! それでね、―――――――――――』

 「―――鬼ごっこは終わりだ、“SORA”」
扉をくぐった向こうに待っていたのは、スーツをぴっちり着こなした大人と、白衣の男だった。
確かにソラ、と発音したはずのそれは、ダイチの耳には自分とはまったく違う意味のように響いた。それは、まるで―――
―――まるで何か、モノを相手に話しかけるような
 まるで不協和音のようにいやな響きで頭を駆けまわる違和感に眉をひそめたその時、するり、と手の中から細く弱々しくも温かいぬくもりが、抜け落ちた。
「……ソラ?」
「……これ以上、ダイチ達を巻き込みたくないから……」
「何を……」
 小さく微笑んだソラの表情は今日1日一緒に過ごして、初めて見たものだった。優しく笑っているのに、どこか寂しそうで、どこか哀しそうな、儚げな、それ。記憶の中の、誰かの表情に似ていた。
 ソラは、ゆっくりとダイチから離れて行った。さんざん追いかけられて、さんざん逃げた相手の方へ歩いて行く足取りはしっかりしていて、その頼りなげな小さな後ろ姿は、誰かの後ろ姿と重なった。
 すっと、白衣の男がソラに向かって手を伸ばした。ソラの白い手が、その手を取った。引き寄せられて、白衣の男の隣にたたずむソラは、そのベビーブルーの瞳で、真っ直ぐこちらを見つめていた。その輝きは、誰かのそれと同じだった。
 「ソラ……、どうして、今更! 巻き込みたくないとか、そんなこと言うな! 俺が勝手に巻き込まれていったのに、俺だけじゃない、結局フウカも、トモも、お前を…」
「……何も話していないようだな、“SORA”」
 ダイチの言葉にそう呟いた白衣の男は、顔から一切の表情がそげ落ちたように無表情だった。なのにもかかわらず、その言葉の端々には、どこか、ソラを蔑むような、憐れむような、そんな響きが込められていた。
 「……あのね、ダイチ」
 コツ、と小さな足音を立てたのは、ソラのはいていた白いサンダルだった。こんなのを履いていてよくあんなに走れたな、とどこかで冷静に見ている自分がいた。
 1歩踏み出したソラは、今度は明らかに寂しそうな顔をして、それでも真っ直ぐダイチを見つめていた。
 「―――私は、あなたの1番嫌いな“モノ”なの」
「え……?」
 ソラの言葉が理解できなかった。正確には、理解しようとする思考を、拒否した。わからない。わかりたくない。心の内で、叫ぶ。
 つぅ、と冷や汗が背筋を伝った。
 「私は、“SORA”。―――あなたたちが昔、“ありえないもの”って呼んでたモノ」
「ナニ、言って……」
「あなたが嫌いな、何1つ変わらない“空”をこの世界に生み出したのは、私。ダイチと、ウミを苦しめた“空”は、私が作ったの―――」



***



“ありえないもの”
歴史本、純文学、そしておとぎ話などに出てくるその存在は、ある種の都市伝説のように扱われていた。数百年昔の話なのだから当然と言えば、当然の話である。
しかし、現代にもその存在を強く信用しているものも多くいた。“ありえないもの”は昔確実にこの世の中に存在し、人々を“ありえないできごと”から守るべくして“空の人工化”を成功させ、それからもこの世界に住み続けていたと―――そう、語った学者も1人や2人ではない。
けれど、どの定説も間違っていたと言える。
物語上の“ありえないもの”の存在は、あくまで“ありえないもの”であり、そこには絶対的前置きが必ず存在した。
『“ありえないもの”はヒトの姿ではなく、ヒトの言葉を話す事もなければ、文字を書くこともない』
今目の前で自分がその“ありえないもの”だと語っている少女は、どこからどう見ても自分達と同じヒトの姿をしている。自分達と同じ、ヒトの言葉を話している。どこをとっても自分達となんら変わらない、普通の少女だった。
―――なのに、何故?



***



淡々と語るソラの言葉の半分も、ダイチは理解できなかった。何故、違うのか。何故、彼女が“ありえないもの”なのか。そして何故、ソラはこんなにも寂しそうなのか。
けれど、ダイチにはそのソラの様子に憶えがあった。先程から何度となく巡る既視感。あぁ、コレは―――
コレは数年前の、自分の姿だ。『パイロットになりたい』喜々としてそう語るウミに幾度となく嘘をついて、幾度とない罪悪感にもまれ、埋もれていた、幼い自分の姿―――

『ボクね、大きくなったらパイロットになりたい! お兄ちゃんをボクが一番空に近い所に連れて行ってあげるね!! それでね、一緒に空にくもがたくさん浮かんでいる所を見に行くの!! あめが降っている所も、にじがかかっている所も、全部全部ボクが見せてあげる!!』
『あぁ、そうだな。きっとなれるさ、お前なら』
『うん! 楽しみにしててね、お兄ちゃん! 約束だよ!!』

 「『あぁ、約束だ―――』」
 “今”のダイチの声と“昔”のダイチの声が、ぴったりと重なった。そうだ、思い出した。コレは、約束だったんだ。
 突然のダイチの発言に、その場の全員がぽかんと立ち尽くす。その中には、ソラもいて―――やっぱり俺達と何も変わらない。そう結論付けて、ダイチは小さく微笑んだ。
 「……ソラ、俺は空が大嫌いだ」
「……」
「それで、この、今の空を作った大昔の“ありえないもの”も大嫌いだ」
「……」
ダイチの言葉に、ソラのベビーブルーの瞳が翳る。俯く少女の肩は小さくて、頼りない。でも、とダイチは言葉を重ねた。
「今からでも、遅くない」
「え……っ?」
顔をあげたソラに笑いかける。訝しげに眉をひそめる大人達の中で、すでに2人は別世界の出来事のように、浮いた存在であった。
見てろよお前ら。その意味を込めてちらりと白衣の男を一瞥してから、ダイチは先程のソラと同じようにゆっくりと歩を進めた。
「約束したんだ、ウミと。『大きくなったら一緒にくもがたくさん浮かんでいる所や、あめが降っている所、にじがかかっている所を見に行こうね』って」
「……」
 言葉を重ねながら、一歩ずつ、ソラに向かって歩みを進める。一瞬見せた宣戦布告を白衣の男はどう取ったのか、黙ってこちらを見つめている。
 きっと、訳がわからない子供だろう。関係ない。伝えたい事を、伝える。ダイチの頭の中には、それしかなかった。
 「小さい頃は、それが無理な約束だ、ってどこかであきらめてた。あきらめながらも、ウミの夢は壊したくなくて、約束だって、俺も言った。でもさ、無理な事なんて、ないんだよな」
「え?」
「ソラなら、できるんじゃないか? ヒトの姿じゃなかった“ありえないもの”を乗り越えて、ヒトの姿になった“ソラ”なら」
「!」
「確かに俺はまだ、空は大嫌いだし、その空を作った“ありえないもの”も嫌いだ。…でも、“ソラ”の事は、嫌いじゃない。―――もし、ソラがそいつらと行く、って言うんなら、止めない。けど、約束だ」
 ピタ、とソラの目の前で足を止める。真っ直ぐ見つめた空色の瞳の輝きは、いつか自分の夢を語った、小さな弟のそれとよく似ていた。差し出した手は、果たして。
 「―――いつか絶対、迎えに行くから。また会おう」
 はっと息を呑んだのは、ソラだけではなかった。白衣の男も、その周りにいるスーツの大人も、みんなみんな、驚いたように目を見開いていた。
 ソラは、俺達と何も変わらない。それは確信だ。例え、その正体が“ありえないもの”だったとしても、今日共に1日を過ごした少女は、間違いなく自分の友達だ。ダイチはそう言い切る自信があった。
 「俺達は友達だ。約束は、絶対守る」
 瞬間、少女の瞳から涙が溢れた。ぼろぼろと零れ落ちるそれは、少女の頬を濡らし、あごを伝って、地面を濡らす。雨みたいだ、とダイチは思った。
 困ったような顔をしてから、手の甲で涙を拭った少女は、それとは反対側の手をダイチの手の上に重ねた。潤んだ空色が細められて、笑う。
 「私も―――約束。いつか絶対、ダイチが迎えに来る前に、“空”を変える」
 つっかえつっかえに向けられたのは、自分と同じ約束。次々と溢れる涙を気にする事無く微笑むその姿は、どんなにきれいに澄み渡った空よりも、キレイで。
 「あぁ、約束だ―――」
 うなずいてから同じように笑って、重ねた手の小指同士をからめ合った―――。



***



――――数年後。
 「行ってきます」
いってらっしゃい、と向けられた声に小さく笑みを浮かべて、ダイチは靴を引っ掛けて玄関のドアを押しあけた。途端に目映く輝く視界に思わず目を細めて、目の上に手をかざしながら、ダイチは空を見上げる。
約束の日から数年、大学生となったダイチは何の因果か相も変わらずトモとフウカと同じ学校に通い、変わり映えのない日々を送っている。ウミは未だ病院のベッドの上だし、テレビから流れる朝のニュースもコレと言って変わった所はない。
けれど、確かにダイチにとって変化はあった。
1つ。ウミの意識が回復した。病院のベッドの上にいるのは低下した体力を取り戻すためのリハビリをすべく入院しているせいで、今では元気な笑顔を見せるようになった。
2つ。変なものを拾う頻度が低くなった。今でも時折迷子を拾ったり、落とし物を拾ったりはするが、大抵は自分で解決できるもので、この事に関してはトモとフウカに手放しで喜ばれた。若干複雑ではあるが、今まで多大なる迷惑をかけたのだから、文句は言えない。
そして、最後にもう1つ。
見上げた空は相変わらず抜けるように青い。けれど、時折うっすらと白い影を作るようになった。それは一瞬で消えてしまう事もあるけれど、その光景を目にするたびにダイチは小さく微笑むのだ。それは、彼女が頑張っている、証拠だから。
小さく笑って、ダイチは歩き出す。その横顔はあの頃よりほんの少し大人に近づいただけで、何1つ変わらない。変わったのは、その心のあり方。



 ほんの少しだけ、空が好きになった――――。



fin.


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