01
(此れは)
(能く在る何処かの御噺)
「倫太郎(りんたろう)さん、洗濯物此処に置いておきますね」
「ん…あぁ、うん。有り難うね、依千子(いちこ)ちゃん」
部屋の向こうから彼女の声がして、目が覚める。ちょっと仮眠するつもりが、本格的に寝てしまったらしい。身を起こして大きく伸びをすると、フワリと夕餉の良い香りがする。……今夜は秋刀魚かな。
現金にも腹が鳴る。思っていたよりも眠っていたのかも知れない。
まだ何か手伝える事が在るだろうか、と襖を開けると、出てくるとは思って居なかったらしい彼女は驚いた様に目を見開いた。
「ん?」
「いえ、あの、えっと……」
何故か困った風にどもる彼女の顔は次第に朱に染まっていき、しまいには視線すら合わせてくれずに「まだ準備の途中なので……!」と足早に駆けて行ってしまった。
……逃げられちゃった。
内心そうため息を吐いて、もう一度伸びをする。その後手櫛で髪の毛を整えて、僕は自室を後にした。
***
彼女──旗本(はたもと)依千子と僕は、遠い遠い血縁者だ。尤も、一度も会ったことのない仲だったけれど。
両親を事故で亡くし、近くに身を寄せる親戚も居らず路頭に迷った彼女をこの家に導いたのが僕の恩師だったと云うわけで、色んな意味で無下には出来ずに──今に至る。
「あぁそう言えば、もうすぐ依千子ちゃんが来て一年だね」
「はい」
「何か欲しいものとか有る? 御祝いに買ってあげる」
「えっ…いえ、そんな…。居候させて頂いているだけで、充分ですから」
睫毛が震え、穢れを知らない黒橡の眸がチラッと一度だけ僕を見て、けれど、また直ぐに元の位置へ戻されてしまう。そんな風に後ろめたさを感じなくても良いのに、と僕は微笑した。
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