distress
あ、と思った時には既に遅い。
輝いていた月は厚い雲に覆われて、その光が完全に遮られてしまった。
「……奇麗だったのに」
ぽつり呟くと同時、その微々たる音さえも取り零さない聴覚を持つ『彼』が目を覚まして、背後から私を抱き締める腕の力を少しだけ強めた。
「…………未だ起きていたのか」
気怠げで不機嫌な彼の声音。その言葉は暗に「早く寝ろ」と告げていて、けれど、私は頭(かぶり)を振る。……至近距離と云えど灯りも月光も無い今、彼の表情は見えないが、きっと更に険しい顔をして居るのだろう。
「……もうすこし」
「あ?」
「もう少しで、月がまた見えるから」
そう言えば数秒黙る彼は、軈て私の耳許で溜め息を吐いた。呆れたのだろうか、それとも面倒臭いと思ったのだろうか。だが言葉にして伝えればそれ以上咎めることはせずただ抱き締めてくる彼は、やっぱり優しいと思う。
「……褥で月見もまた一興、か。酒が無いのが惜しいな」
くつくつと喉元で笑う彼は、指先まで整った手で私の髪を梳く。其れがとても心地好くて目を細めると、彼は私の頭上でまたひとつ笑った。
「どうした? 早速眠くなったか?」
「……む。違う」
一度眠った彼とは違い、此方は湯を浴び直してから今までぼんやりと満月を眺めていた訳だが、不思議と眠気は無い。ゆるゆると首を横に振ると、ふと彼は私の頭を撫でる手を止めた。
「……鴇(とき)」
こんな真夜中にその名で知られる淡紅色の鳥が飛んでいる訳も無く、彼が呼んだのは間違いなく私の名前なのだが、応じる前に彼はもぞりと動いて私の項に顔を埋めた。
「……迦嶺(かりょう)?」
問い掛けに答える様に聞こえて来たのは、潜めた吐息。
傷が痛み出したのだろう、彼が負った其れは夜毎疼くのだと当人から聞いたことがある。
──まるで呪いの様に。
「……ッ、大丈夫だ。今夜は然程痛くない。直ぐに治まるさ」
大丈夫だから、と宥めるように彼は私の頭を優しく撫でる。
「……迦嶺」
「鴇」
応じる様に名を呼ばれたかと思えば、ぐい、と腕を引かれ体勢を崩す。そのまま彼が纏う着流しの衿元に手をつくと今度は相向かいで抱き締められた。
「……なぁ、教えてくれ。俺は……否“俺達”は、何処で間違えた……?」
そしてぽつりと落とされる、縋る様な、請う様な、問い。答えとなる明確な言葉を欲する彼を満たせるような其れを、私は持ち合わせていない。
其れでも。
「……好き、だから」
「……」
「好きだからこそ、間違う事だって有るでしょう?」
そう言って顔だけ振り返れば、暗がりに馴れた目が彼の驚いた表情を捉える。
……奇麗な翡翠色の眸と、銀色の髪。
それらを携える彼の頬に触れようとして、ふと月が再び現れ始めた事を知る。
いち、
に、
さん、
嗚呼、ほら。
触れた銀色も、彼に降り注ぐ月光も。
「……やっぱり、奇麗」
distress
/fin
世界が丸い理由。様に提出
お題:「好きだからこそ、間違う事ってあるでしょう?」
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