空論だねと君は笑った





 微風が心地好く過ぎてゆく屋上。

 朝から堂々と此処での自主学習を極め込んでいる(つまりはサボりだ)僕は、ヘッドフォンから流れるiPodの音楽を止めて、向こう側からガチャガチャとノブの鍵穴を掻き回しているひとに「開いてますよー」と声を掛けた。
 数秒の間があって「あ、ホントだ」と可愛らしい声が聞こえる。ギィ、と鍵はルーズな癖重苦しい音を立てる鉄扉から現れたのは、見るからに“優等生”。品行方正そうな、女子生徒だった。

「どうも」

 とりあえず片手を上げてそう挨拶してみる。「どうも」と律儀に同じ動作で返してくれる彼女は、扉を後ろ手で閉めて「先客かぁ」と呟いた。見た目よりも、意外とフランクらしい。

「朝なら誰も居ないと思ったのになぁ」

「はは、お邪魔してます」

 同じことを考えるひとは何処にでもいるものだ。そう思いながら、僕は柵の方へ向かう彼女を観察する。

「……飛ぶの?」

「うん」

 まさかな、と思って口にした言葉はあっさり肯定された。

「そりゃまた、何で」

「全部効かなくなっちゃったの、くすり」

 だから飛ぼうかなって、と女子生徒。「へぇ」と我ながら気のない返事をすると、彼女はふと振り向いて、

「ねぇ、名前は?」

「僕? 僕は犀川戯曲(さいかわぎきょく)」

「偽名?」

「せめて『芸名?』って訊いて欲しかったな……至って本名だよ」

「へぇー、戯曲くんかぁ。ギキョク……うん、言いにくいね!」

「そうだね」

 君づけすると『く』が続くから更に言いづらいだろう。心中御察しする。

「ぎきょきゅ……ぎ、戯曲、くんは何で朝から屋上にいるの?」

「んー、空が近いから?」

 盛大に噛みながらも負けずに問い掛けてくる彼女にそう応じる。

「空が近いの、すきなんだ?」

「まぁ……好きなんじゃないかな。翔べないってわかってるから、なんか安心だし」

「ふぅん……」

 自分から訊いた癖に、腑に落ちないように口を尖らせて彼女は曖昧に口内で呟いてじっと此方を見つめてくる。

「……なに」

「……戯曲くんは、飛ばないの?」

「は? いや、むしろ翔ぶように見えるの、僕」

「んん、なんて言うか……ふわふわしてるから」

 ゆるりと首を傾げた彼女は「勿体無いね」と屈託なく笑う。

「私は飛ぶよ。空が嫌いだから」

「…………矛盾してない?」

「してないよ。空を飛んだら落ちるじゃん。落ちるのがきっと一番空から離れる感覚を感じられる。そしたらね、『ざまあみろ』って笑ってやるの」

「……」

 ──そんな感覚、

 感じる前に死ぬだろうに。

 そう開きかけた口を、けれど、閉じる。
 それは彼女の横顔が、あまりにも清々しく、晴れやかな表情をしていたからかもしれない。

「……、……飛ぶの?」

「うん」

 数分前と同じ問い掛け。彼女の答えは変わらずブレない。「よいしょ」と声を上げて、彼女はいよいよ柵を越えた。

 風が止む。

「ばいばい、戯曲くん」


 空を見て、笑いながら顔だけ振り返って──彼女は、飛んだ。

 ほんの、一瞬。

 彼女は浮いて、けれど、重力が存在するこの世界でそれが保てる筈もなく、墜ちていく。

「………」

 不思議なことに、音はしなかった。
 柵の此方側から眼下を覗けば、其処に在るだろう彼女の死体も、肢体も、悲鳴も、ない。

「……あ、名前」

 此方の名前は教えたのに、彼女の名前を聞きそびれてしまったと、今更ながら思い出した。

 微風が、頬を撫でる。僕は空を見上げて、一言、呟く。


「………ざまあみろ」

 そう笑えば、もう一度くらい彼女に会えるような気がして。

 その時はまず名前を訊こう、と僕は心に決めたのだった。


空論だねと君は笑った
/fin



cube様に提出
(第二回企画:ニュートンの教え)



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