かんざし加えた白猫、追いかけて、裸足で駆けてくー。
愉快な某さんの替歌が脳裏に過ぎる。
いやいやいや、そんな場合じゃない。
廊下を走る。おやつを食べたばかりなので、脇腹がつきんと痛い。
時折廊下の曲がり角でこちらを振り返りながら、猫は駆けて行く。見失うと、「にゃーん。」こっちだぜ?と言うような鳴き声がする。
これぜったい遊ばれてる…!
なまえは極短刀を総動員したい気持ちに駆られたけど、連帯戦明けの彼らにはゆっくり休んでもらうと決めているので、その選択肢は断固拒否だ。
たったった、というなまえの足音に、シーツを干していた洗濯当番の宗三左文字が振り返る。庭沿いの縁側をしゅっと横切る白猫、それを追いかける主。
何をしているんでしょうか、というため息を飲み込んで「あるじ、転ばないでくださいね!」と声を掛けた。
姿が見えなくなった廊下の向こうから「ありがとー!!」と返ってくる。
「はあ。まったく、元気ですねえ。」
「…ツルか。」
追加の洗濯物を運びながら、大倶利伽羅がぽそり。
「猫では?」
「…なんでもない。」
「そうですか。」
「……。」
「……。」
無言で作業が再開された。仲が悪いわけではない。この二人の当番は、私語が無いためめっちゃ仕事が早い。貴重な冬の晴れ間、てきぱきてきぱきと山のようなシーツが干されては、洗剤のいい香りを漂わせて風に踊った。
廊下を走りながら、宗三でよかった…!となまえは密かに胸をなでおろしていた。いや、動作としては腕を振りおろして走っているのだけど。
あれが歌仙だったら、廊下を走るんじゃない!という壮絶なブーメランをかましながら猛スピードで追いかけてくる。なまえが歌仙を初期刀に選んだ理由は、ちゃんと叱ってくれそうだな、と思ったからなのでその見込みは正しかったのだけど、やっぱり実際叱られるのはいやだ。
長い廊下の角を曲がる。10メートルくらい先で待っている猫がこちらをちらりと振り返り、そのまま悠々とした動作で隣の部屋へと入っていった。
追いかけっこは終わった…のだろうか??
上がった息を整えながら、なまえもまた足早に部屋へと向かう。
「入ってもいいー?」
「ああ、いいぜ。」
なまえが襖を開ける。胡座をかいたまま、かんざしを光に翳すように眺めている鶴丸と、その手のひらの上に抱えられた白猫。どうやら捕まえてくれたようだ。
「鶴丸、それ、」
「きみのだろ?大変だったな、こいつが持ってきたんだ。」
猫が鶴丸の腕を抜け出す。ぴょいと地面に降り立って、なまえの足元にすり寄ってくる。にゅうーん、と額から首筋をなまえのふくらはぎに撫でつけている。さっきまでの逃走劇はなんだったんだという甘えっぷりだ。
「ふむ。こいつはどうやら逃げまわって悪かったな、と言いたいらしい。」
「…もう、しょうがないなあ。」
なまえがしゃがんで白猫の背を撫でてやると、うりうり。猫は手のひらに頭を擦り寄せる。そのままぐうん、と首筋、しっぽの付け根までをつかって掌の感触を堪能する。
なんだこの魔性の白いもふもふ。甘え上手すぎて、叱れない。
しゃがんだなまえの膝のところに前足を掛けて、にゃあんとひと鳴き。猫の気持ちを代弁するように鶴丸が言う。
「まあそんなことより甘えさせてくれよ。」
「えー、ふふ。」
にゃーん。
「ほらほら膝に乗せろ。」
「っかわいいな…!おいでー。」
なまえはすっかりこのモフモフの可愛いさの虜になっており、白ネコ(cv.鶴丸国永)という甚大なる違和感もスルーしていく。
鶴丸は胡座に肘をついて、猫に夢中ななまえを見ている。出陣の指揮をとりっぱなしだったから、疲れているだろうと思っていたが、よく笑っていて安心した。
…いや、この猫は鶴丸の差し金なので、走り回らせておいてどの口が言うんだと思うが、心配していたのは本当だ。
審神者業界には、脳死周回なんて恐ろしい言葉もあるらしい。なまえにはそんな思いをしてまで頑張ってほしくないというのが本音である。
鶴丸はすこし目を細める。
残念ながら俺の主は、手を抜くということを知らない。昨日も遅くまで連帯戦のレベリング計画書なるものを書いていたのを知っている。彼女の瞳がいつもよりとろんとしているのは、猫に絆されているせいだけじゃあないんだろう。
ご機嫌のなまえは、猫に声を掛けている。
「名前はなーに?」
答えるように猫は鳴く、んにゃーん。
「俺か?俺はツルだ。」
「………。」
幾らかの間と、ほんのり白けた視線が鶴丸国永に向けられる。突然マジレスされて恥ずかしい。なまえは、猫に話しかけてしまったことに、今更すこし照れている。
「……いや、鶴丸じゃなくて、猫の名前。」
さっきからその猫役をやってるのは彼だということはスルー済みなので、鶴丸には聞いてないと言わんばかりである。
「いやいや、から坊がそいつのことをツルって呼んでるんだ。」
「え…。…ほんまに?」
「ああ。紛らわしいだろ。俺も何度かうっかり煮干しを貰いそうになったぜ。」
どんなうっかりやねん。
というか実際そうなら大倶利伽羅も猫と鶴丸の判別がついてないということになる。
ものすごいうっかりだな。
にしてもネーミングセンスのくせがすごい。となまえは思った。これは黒猫のミツも居る流れなのでは?
「大倶利伽羅のそういうとこかわいいよなぁ。」
「…まあ、きみはそう思うんだろうけどなあ。」
いまひとつ煮え切らない返事である。
鶴丸の脳裏に蘇る記憶。
『ツル、お前の好物を持ってきてやったぞ。』と言われて、目を輝かせて振り向いたら、大倶利伽羅は鶴丸の横をスッと通り過ぎていってしまったのだ。
おいおいどこへ行くんだ、と思ったら、なんと後ろにいた猫に話しかけていた。一部始終を見ていた光忠に、ぽん、と肩を叩かれて『鶴さん…。』と憐れみに満ちた眼差しを向けられたのである。鶴さんは悲しかった。新手の反抗期かと思った。苦い記憶だ、煮干しのように。
そんなことはつゆ知らず、なまえはあらためて猫を観察する。
…たしかに。
控えめに言ってかなり似ている気がした。綺麗な顔立ち、上品な毛並み、金の目。いたずらされたのに、憎めないところとか。
構ってほしくてかんざしを持ってったのかな、と思うと言語化できない愛しさがじぃんと込み上げてくる。
なんなら構ってほしくてかんざしを取ってこさせたのはそこにいる大きい方の鶴なのだが、なまえはそれを知らない。
この白猫を撫でながら、「仕込みは上々。」と悪い顔をしていた付喪神のことなど、なまえは知らないのである。
にゃーあん、猫は鳴く。
「ん?」
応えたなまえに、鶴丸が話す。
「手がお留守だぜ?」
「はいはい、ツルは甘えたやなー。」
「………!!」
鶴丸国永、ここにきてなまえの言葉が自分に向けられているような錯覚をおぼえてしまう。
ツルはその猫のことだとわかっているというのに、なぜだか脳が誤解をやめない。
「ふふ、気持ちいい?」
にゃーーん。
「………。」
鶴丸国永、なんとなく居た堪れない。頬をほんのりと染めて、俯いた。
自他ともに認めるモフリストのなまえが徐々に本領を発揮しはじめる。細い指先が、的確に猫の弱点をくすぐる。
ごろごろごろと喉を鳴らして、猫がうっとりと眠たげに目をつむる。
「んー?ツル、眠いん?」
にゃーん。
「………。」
いつになく甘いなまえの猫撫で声に、鼓膜をこちょこちょと擽られてこそばゆい。
もはや猫の吹き替えどころじゃなくなっている。
耳を澄ませて、なまえの声に意識を集中する。ここ最近の供給が少なすぎたのがいけない。
「じゃあ一緒に寝る?」
「……っくっ…!」
「いいこいいこ。」
cv.鶴丸国永、もう仕事にならない。
一緒に寝る?…だと…!?
あの主が。めっっったなことがない限り甘えてこない主が。主の声で『鶴、一緒に寝る?』なんて台詞が聴ける日がくるなんて今日は僥倖か。貴重すぎる。
猫に言ってるというのは百も承知。だけどその声だけ聴いてたら、俺に言ったも同然だという積極的な湾曲解釈をした。
…ああ、尊い…。
鶴丸国永はぎゅうと唇を噛みしめて感謝した。猫と、それからこの猫をツルと名付けた大倶利伽羅が心当たりのない恩を被った瞬間である。
なまえをちらりと見る。
伏せられた目はどこまでも優しく、慈愛に満ちた眼差しは、膝の上の猫に向けられている。
鶴丸の胸のうちで静かに溢れ出したのは、愛しさと嫉妬をない交ぜにしたような気持ちだ。そして気付いたときには、そっとなまえのほうへと手を伸ばしていた。気配にふと顔があげられて、互いの目が合う。
なに?と言いたげななまえの視線に構わず、鶴丸は、彼女のこめかみのところから髪へと指を差し入れる。
手櫛でそっととかすように、ひと撫で。髪の先まですべらせて、もう一回。今度は追いかけるような親指が、目じりのところを優しくなぞった。
ほどけた髪をするすると滑る指先はとても丁寧だ。
鶴丸のゆったりと優しい仕草が珍しくて、なまえはされるがままになっている。平たく骨張った鶴丸の指先は、なにか、ぽうっとした灯りがともっているように暖かく、触れられるのが心地良い。
「…いいこってのは、きみのことだろう。」
労わるみたいに優しく、鶴丸がなまえのことを撫でる。三度、四度とくりかえされると、その手の暖かさが尾を引くようになまえの頬にくっつきはじめる。
……気持ちがいい。
彼女自身も知らないうちに積み重なっていた重たい何かが、鶴丸の手によってひとつひとつ剥がされていく。
心地よさに、うっとりと下がりそうになる瞼をあげて鶴丸を見たら、ものすごく優しい顔と目が合った。
その表情に、ぎゅうと胸を絞られて、息が詰まる。予期せぬ人から、傘を差し出された仔犬のような気持ちになった。それからどうしてだろう、ため息と一緒に泣いてしまいそうになる。
自分が疲れているなんて思ってもみなかったなまえが、はじめて自分に降り積もった疲労を自覚した。
「よく頑張ったな。」
「…う、ん…。」
頑張ったのだろうか、でもこれが仕事だから普通のことだと思う自分もいて、なまえは曖昧に頷いた。
膝の上の猫が大きなあくびをして立ち上がり、ふらりと部屋を出て行ってしまう。 なにも気に止めない足取りは軽くて、後ろ姿を見送ったら、その軽やかさが、ほんの少し羨ましく思えた。
無理なんてしてないはずだ。自分よりも、実際に出陣しているみんなの方が、ずっと頑張っている。だから疲れてなんかない、疲れたなんて言えない。なのに、なんで、こんな風に撫でられると、泣きたくなるのか。
「…はあ。」
鶴丸がわざとらしくため息をついて、言葉を続けた。
「皆のほうがずっと頑張ってるのに、甘えてたまるかって顔だな?」
なんなく図星を突かれてなまえは閉口する。鶴丸は、あきれたような顔でやれやれとかぶりを振った。撫でる手が止まって、そのまま頬にぴとりと留まる。
それから、言い含めるように視線を合わされた。金いろの瞳に、目の奥を読まれる。
眉間にしわを寄せて、自分でもよくわからないなにかを堪えているなまえに、鶴丸は優しく笑って言う。
「だからって、きみが頑張ってないことにはならないだろ。」
「…う、うーん。」
「…まったく、きみは変なところでいじっぱりだな。」
変わらず視線は合わされたまま。
しょうがない子だな、というように微笑まれると、自分がわがままな子どもになってしまったような気持ちになる。素直に疲れた、って言うだけでいいはずなのに、どうしてか、それを認められなくて、なまえ自身こそ、自分の頑固さに困ってしまった。
鶴丸は、彼女がいつだって主としての務めを果たそうと背筋を伸ばしているのを知ってる。
皆を労わり、ねぎらい、笑顔を絶やさないのを知ってる。
その影に努力や我慢があることも、知ってる。痛いくらいに知っているから、それごとぜんぶ教えてほしかった。
泣きごとだって、弱音だって、きみのものなら欲しい。そう願っているやつが此処に居ることを、知ってほしかった。
笑顔を引っ込めた鶴丸国永は拗ねたような顔でなまえを見た。
「きみがなかなか甘えてくれないから、おかげで俺は退屈で、寂しくて、死にそうだったぜ。」
「…へ?」
ぱち、ぱち、きょとん。なまえは目を瞬かせる。退屈はわかる。言いそう。でも寂しいなんて言われるとは思ってなくて、すこし驚いた。
その表情に、わかってないなあ。と鶴丸はため息を吐く。
わかってない。俺がどれだけ主を恋しく想っていたのか、まるでわかっていない。
「きみが甘えてくれなくて寂しいと言ってるんだ。」
「う、ん。」
「だから別段甘えたくなかったとしても、俺のためだと思って多少はよっかかってくれ。」
こんな言い方をしたら、なまえが断れないのをわかってて言った。
もちろん、言い方を変えただけで、ぜーんぶ本心だ。主が甘えないというのなら、俺が甘えると言わんばかりのおねだりである。
なまえが主として気丈に振る舞うことが、誇らしくもあり、もどかしくもあった。
きみの弱くて脆いところだって、愛おしくてしょうがないと言ってしまいたい。
なまえもやはり、ずるいなあ、と思った。こんな甘やかし方、聞いたことない。すこし茶化すような顔をして問いかける。
「…甘えなかったら?」
「俺は泣くぜ。」
「ふふっ、なんで?」
「ほんとうは甘えたくて仕方ないはずの、きみの代わりに泣くのさ。」
なんだそれ、と思った。
可笑しくて、笑ってしまうのに、たまらなくうれしくって、へんな気持ちだ。
「泣いて泣いて、きみにくっついて離れない。きみは出陣も鍛刀も日課もお預けだ。困るだろう?」
「…うん。それはこまる。」
「それじゃあこっちだな。」
おもむろに、ごろんと横になった鶴丸を見て、なまえは、はてと首を傾げる。
横向きに寝転んだ鶴丸が自分の隣をぽすぽすとたたいた。
「一緒に寝るか。」
「え!?」
「鶴、一緒に寝ようって言ったのはきみだろう?」
「あれは猫に…!」
「ああ、あれは猫だからな。鶴っていったら俺のことだ。」
片眉をあげた、したり顔で言う。
に、と笑った口もとは、いじわるなのにどうして憎めないんだろう。
「…へりくつ。」
「なんでもいいさ。きみと眠れるなら。」
甘えないための足場は、ことごとく鶴丸に取られてしまった。まっすぐ立つために、きつく結んでいた糸もすべてほどかれてしまって、敵わない。
「ほら。わかったなら、おいで。」
「もう…、ずるいなあ。」
結局いつも、がまんをさせてくれない鶴丸に、うまく甘やかされてしまう。
なまえは照れくさかった、こうも真正面からベタベタするのには、どうしても慣れない。
ぎゅうと何かを堪えるように寄せられた眉間と、むんずと閉じられた唇。
言葉とはうらはらに、嬉しそうに赤らんだ頬がいとおしくて鶴丸は笑ってしまう。ずるいのは可愛いきみのほうだ、と思った。
寝転んだら、そっと頭の下に腕を差し入れられて、そのままふわりと抱き込まれる。肩の上からまわされた腕がなまえを囲うようにして、後ろ髪を優しく優しく撫でている。
窺うように鶴丸を見たら、ふ、と表情をたゆませるような笑みを向けられる。
顔が近い。
朝陽で織られたみたいな白銀の睫毛の瞬きが、音になって落ちていくのさえ見えてしまいそうなほど。
鶴丸のまぶたが、ゆったりと落ちる。
それから、すり、と鼻先が頬に寄せられる。猫が額をすり寄せる仕草と、よく似ていた。
瞼、こめかみ、額、と順に触れ合わされる甘い沈黙のあと、やがて再び視線が合う。
「んー?きみ、どきどきしてるのか?」
「し、してない!」
「そうか、なら平気だな。」
「…?」
わずかな身じろぎのあと、額にちゅ、と口付けが落とされる。予備動作なんてない。なんせ奇襲が好きなのでしかたあるまい。
「…!鶴丸、今のって、。」
「きみがあまりにも可愛いから、ついな。」
「あ〜〜もう寝られへん!」
「はっはっは!すまんすまん。」
言いながら、じゃれるように鶴丸はなまえを抱き締める。
すっかり茹だってしまった顔を見られたくなくて、なまえは鶴丸の胸に顔を埋めた。彼女だって鶴丸のことが好きだ。みんなのことも同じように好きだから、言えないけれど。鶴丸がなまえを大事に想っているのに等しく、なまえもまた鶴丸を大切に想っていた。
暖かい腕の中で、寄り添った胸板から鶴丸の心臓の音が聞こえる。どっどっど、と、それはなまえ自身のものと同じくらい駆け足で鳴っている。
「…鶴丸のほうが、どきどきしてるやん。」
「ああ。きみとこうしてるんだから、当然どきどきもするさ。」
「……。」
この伊達男。そういうのを人の世では口説いてるって言うんだけど。なんと返せと?という沈黙である。
鶴丸国永は、ぜんぶわかった顔で、ほんの少しの寂しさに蓋をするように笑う。
「あるじ、俺は幸せだぜ。」
「…うん。」
ぎゅう、と隠れるように抱きついて、なまえもまた、そっと、転がすように言葉にかえた。なんて、柔らかで危うい。まるで雛鳥のような言葉だ。
「私も、幸せ。」
心臓のおと、呼吸の温度。しあわせ。
暖かく、心までもを簡単に絆してしまう。優しい体温に包まれて微睡むのは、とても心地が良かった。
やがて、人知れず強張っていた胸の奥さえ溶け出すような、深く甘やかな眠りがなまえの意識を覆う。
「おやすみ、主。」
そっと上下する肩。無防備な寝顔。
腕の中の柔らかな体温に、まるで陽だまりでも抱いているみたいだな、と思いながら、鶴丸国永もまた眠りにつくのだった。
幸せで、幸せで、もしも消えてしまうときがくるのなら、こんな終わりが良いと、願うほど。