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ぱち、ぱち。 火鉢の中、爆ぜる音。 祖母の手引きで審神者になってから、もうすぐ一年が経とうとしている。 雪の夜は、少し明るい。庭一面が月を写して磨りガラスの向こう、囁くように光っている。 雪が降ると、音が遠くなる。 なにもかもを吸い取ってしまうような、清らかな雪。 こんなふうに静かな夜は、記憶を爪弾いて音を探してしまう。 今日はバレンタインだ。 恋、乞う日。 私の初恋は今日までずっと、爆ぜることなく静かに火種を抱えたまま。 未だ胸の奥くすぶる想いは、火鉢の中ですっかり飼いならされて。そっと、私の胸を温めるに留まっている。 ーーーーー初恋。 大それたものじゃないけれど、そのタイトルに相応しい思い出は、たった一つ。ほんの一夜の不思議な出来事だ。 あれは夏休みだった。 まだ小さい頃、祖母の家に里帰りをしていた。 ぺっとりと体に張り付くような暑さと、なだめるようにうなじを冷やす、山から降りてくる風。じんじんと鳴く蝉、まっすぐな道の上、燃える陽炎。りり、風鈴の音が軒先に踊って、涼しい匂いのする小さな町。 ちょうどお盆の時期で、祖母の住む町ではお祭りがあった。 山の袂の小さな神社にずらりと屋台が並び、となりの広場では櫓が組まれ、盆踊りの輪が長い長い影を作っていた。 胸を揺するような、太鼓の音。はしゃいだ人々の笑い声。焦げた鉄板の、香ばしい匂い。かろかろという、下駄の音。甘い甘い飴細工が、工業用のランプにまばゆく光っていた。過ぎる、喧騒。 「母さんはおばあちゃんの手伝いしてくるから、一人で見ておいで。」 お祭りに行きたいと駄々をこねたものの、祖母は町内会の役員で、母もそれを手伝いに行ってしまった。 千円札を首から下げた財布に入れて、人混みを歩く。昼間の暑さとはまた別の、賑わいと、人が発する熱気。 「ああ!出目金!逃げられたー!」 「おっちゃん、いまの当たってただろー!」 「次なに食べる?」 「人形焼、分けようよ。」 たくさんの人の中、自分だけが一人きりで、わくわくしていた心がゆっくりと、しぼんでゆく。 歩幅はゆっくりと狭くなって、視界はどんどん下を向いて。 提灯が朧、遠くを照らして、余所者はうちへお帰りよ、と囁いているような気がした。 もう帰ってしまおうかな。 せっかく着付けてもらった浴衣も、ひどくつまらないものに思えて、世界でいちばん孤独になったような気分だった。 そのときだ。 「きみ、退屈そうな顔をしているな。」 「…え?…だれ?」 「なに、怪しいもんじゃないさ。俺もちょうど一人きりで退屈していたところだ。祭、一緒にまわってくれないか?」 真っ白い浴衣のその人の笑顔は眩しくて、しゃがんで合わされた目はきらきら光っていた。だからだろうか、幼い私は彼のことを、ここの神社の神様なんだろう、と思った。 「…うん、いいよ。」 「ああ、よろしく頼むぜ。」 覚えているのは、一緒にヨーヨーすくいをしたこと。 その人はとても上手に、ほいほいと次から次に釣り上げてゆく。器用な指先は、とても綺麗で、憧れた。 「…ちぎれちゃった。」 「きみの狙いはこいつか?」 早々に千切れてしまった私のと、同じ釣り針を使っているようには見えなくて、口を尖らせた。 「そら、きみにやろう。」 「…いいの?」 「ああ、きみのために取ったんだ。」 「ありがとう!」 ぱしゃん、ぱしゃん。 中指に通った輪ゴム。 透明な水風船の中で、水がしゃばしゃばと鳴る。 ぱしゃん、ぱしゃん。 からころ、からころ。 しぼんでいた私の心も、いつのまにか膨らんで、身体のあちこちが、楽しそうに音を立てている。 意地悪な提灯の声は、もうとっくに聞こえなくなっていた。 「ねぇ、次はかき氷食べよう!」 「ああ、きみは何味がいい?」 「メロンがいい!」 「じゃあ俺はイチゴだ!」 境内の隅、石段の上に腰掛けてかき氷を頬張る。しゃくしゃくと、雪を踏むような音。 溶けた氷を吸いあげると、きいんと頭が締め付けられて、いたい。ぎゅうと瞑った目を開けて、隣を見上げたら、その人も同じ顔をしてこめかみを抑えている。神様でも痛いんだと可笑しくて、笑った。 「みてみて。私、ほんとは宇宙人なの。」 べーっと、舌を出す。 その人は、少し目をまあるくして、笑う。 「はっはっは、それは驚きだな。きみはどこの星から来たんだ?」 この人が、笑うと不思議だ。どうしてこんなにも、嬉しくなるんだろう。 「えっとねぇ、あの星。」 夜空を差した。星の名前も知らない、まだまだ無垢な、まあるい指先。 燦々と星降る、宇宙に浮かび上がるような夏の空には、両手じゃ抱えきれないほどの星粒が散らばっていた。 「そりゃあ随分遠くから来たんだな。」 「あなたは、どこから来たの?」 「俺か?俺は、そうだなぁ。」 その神様は、いたずらに笑って、ちょん、と私の鼻先をつついた。 「きみの中から来たのさ。」 よくわからなくて、首を傾げる。 手の中のかき氷はすっかり溶けて、色水のようになっている。 「きみを退屈から救うために来たんだ。」 「…変なの。」 「ははは、まいったなあ。きみは昔っから手厳しいのかい?」 「むかし?」 「さあてなぁ。…っと、そろそろきみの母上がお見えだ。俺はもう行かなきゃならん。」 その人は、すんなりと立ち上がる。 かき氷を持っていた両手から、冷たさはすっかり逃げていて、ぬるい。 風が止まって、あんなに響いていた太鼓の音も遠のいて、私はあっけにとられて、動けない。 遠くから、お母さんが呼んでる。 「なあきみ。覚えておいてくれ。俺は、きみのそばに居るぜ。きみがひとりきりだと思っているときでも、そばに居る。」 「待って…!」 その人が振り返り様、後ろ手に手を振る。 へらりと笑った顔に、頬も胸も焼けるように熱くなった。 「ああ、いつまででも待ってるさ。楽しい時間をありがとう。…またな!」 瞬間、ぶわりと強い風が吹いて思わず目を閉じる。晒された額に、柔らかいものが触れて、世界が音を無くす。あれは口付けだったのだろうか。 瞬きを二つしたら、遠くなっていたざわめきが突然耳に戻って、その神様は蜃気楼のようにすっかり消えてしまっていた。 恋と言っていいのかわからないほどの、遠い記憶。 だけど初恋というものを思うとき、私はその神様を、思う。もう顔も思い出せない、名前も知らない神様の、笑顔のことを想う。 風鈴の音、太鼓の音、笑い声、喧騒。 水の跳ねる音、下駄の音。 その人の声は、どんなだっただろう? 水風船は帰り道、確かに私の指先に引っかかっていたのに。 とっとっとっとっと、廊下を走る音で現実に引き戻される。 寝入り前のこんな時間に騒がしいのは、顔を見なくてもわかる。一人きりだ。 「主、俺からきみにばれんたいんを用意したぞ!」 鶴丸国永。審神者だった祖母が形見として唯一私に残した刀。 私の近侍である。 人好きのするこの刀は、私を主として見ていないと思う。強がりや見栄の一切を見透かされて、いつも手のひらの上、子ども扱いだ。 「バレンタインって、これ?」 鶴丸が手に持っているのはかき氷だ。なにが嬉しくてこんな雪の日にかき氷を食べないといけないのか。 「驚いたか?」 「…寒いよ。」 「俺が温めてやろう。」 「要らない。」 「はっはっは、かき氷も驚きの冷たさだな。」 まあまあ、そう言うな。と、鶴丸はてんで話を聞かない。いつもそうだ。唯一、引き継いだ刀だからなのか。親族の形見を初期刀とする審神者は少なくないらしいが、きっと、鶴丸の主は祖母のままなんだろう。 鶴丸は至極嬉しそうに、あれこれと机に並べ始める。 いちご、めろん、れもん、宇治金時、ラムネ、練乳。色とりどりのシロップ。 わくわくと書いてある横顔にため息をついて、外を見た。雪にかけて、食べてしまえば、静かな夜も終わるだろうか。 「きみは何味がいい?」 ほう、と思考に耽っていたときに、かけられた声で我に返った。 「え…?」 ぽかんとしていたことだろう。 二人きりの部屋の中、あの夏の日の喧騒が蘇る。折り重なり、だぶって見える。ひどいデジャビュだ。 「そら、きみのだ。」 差し出されたメロン味のかき氷。 記憶が鮮明に像を結びはじめる。 しゃく、しゃくしゃく。 いちご味のかき氷をつつく鶴丸の横顔をまじまじと見た。 目をぎゅうと瞑って、こめかみを抑えるその仕草。 「ん〜〜。やはり冬に食ってもきーんとするのか。」 表情や仕草、朗々とした声。あの夏の日、隣に居てくれたのは。 ぼやけていた記憶の中の彼の顔が、晴れたように「きみも食べてみろ。」目の前で笑った。 幾何学模様の記憶が突然、あやとりの糸のように意味を持って形になる。 わかってしまった途端、顔が熱くなった。 「えええ!」 「なんだ!?いちごが良かったのか!?」 違う違う、まさか、そんなはず…。 いやいや、だってあの人は、すらっとしていて格好良くて、笑顔が素敵で、優しくて、紳士で、眩しくて、どこか儚げで。 記憶を辿れば辿るほど、初恋の人は鶴丸国永と重なり、さも本人であるような気がしてくる。 「嘘だ…。」 「きみ、さっきからおかしいぞ。熱でもあるんじゃないか?」 私を見かねるように、鶴丸がふわ、とおでこに手を伸ばしてくる。 ひたり、触れた冷たい手。気安い触れ合いが苦手で、いつもなら避けるのに、どうしてか動けない。 合わされた瞳も逸らせなくなって、幼い頃のように、気持ちが言葉にならない。 私の顔を覗き込んだ鶴丸に、瞳の色を読まれるのが分かった。すると彼は、心得たと言わんばかりにいたずらに笑む。 「…ん?…なんだ、やっと気付いたか?いつまでも待ってるとは言ったが、さすがに退屈で死ぬかと思ったぜ。」 なんで、こんなに近くに居たのにずっと気づかなかったのだろう。 あなたは鈍いのね、と、ぱちり、いつかの提灯みたいに火鉢が笑う。 「ほ、ほんとに鶴丸なの?」 「こりゃ驚きだなぁ。きみ、好きな男にはそんな顔を見せるのかい?」 冷たい手のひらが、するする。頬に降りてくる。火照った肌を思い知らされて、悔しい。 「からかわないで…。」 「からかってないさ。俺は、ずっときみを好いている。」 お願いだから、そんなに熱く見つめないでほしい。お願いだから、優しい手で触らないでほしい。 鶴丸に主として認めてもらいたくて、今日までずっと積み上げてきたものが、簡単に溶けていく。 机の上のかき氷と同じに、私が私じゃなくなってしまう。 「知ってはいたが、きみは随分と意地っ張りだな。」 「…う、うるさい。」 「ああ、俺も好きだぜ、愛している。」 「いつも話、聞いてくれない。」 「そりゃあ、こんなに可愛い顔をしたきみが、うるさいなんて言うはずないだろうからな。」 至近距離で笑った顔を、じっとにらむ。 雪のせいで、鶴丸の声だけがしっかりと耳に届く。 「俺のことが好きかい?」 「……。」 悔しいから、言ってやるものかと思って口を閉ざしたら、冷たくて柔らかいものが、唇の上、ちゅうと音を立てて離れた。 キスされた。 あまりの事態に絶句する。飼い慣らしたはずの初恋の火種から、火柱が上がる。ぼうっと燃え上がるような勢いで、頬に血が集まった。 よく聞こえるのは声だけじゃない。この部屋の中で、二人きりの息衝く音、とくとくと胸の駆ける音、まばたきの音さえ、閉じ込められて耳に残る。 「…俺のことが好きか?」 確信に細められた、余裕綽々の眼差しだ。それでもほんの二文字が言えない、私の唇はあわあわと震える。 「う、うむ…っ」 言葉の途中で、また唇を奪われる。 閉じることもできないまま、目が合って、羞恥が頭を茹で上げる。 困り果ててぎゅっと目を瞑ったら、角度を変えて、何度も何度も強請るように唇がくっつく。ちゅう、ちゅっ、っというリップ音がひどく静かな部屋の中で響いて、何度も何度も何度も鼓膜を震わせる。 鶴丸が身体を擦り寄せてくる。 行き場なく胸元にあった手を、握り取られて、肩を押される。 目を開けた時には、とさり、髪が畳を舐めるように広がる。鶴丸の背後に、天井が見えて慌てる。 「待って、」 「…もう充分待ったさ。」 泣きそうな目の切ない顔に、力が抜ける。 胸の奥の柔らかいところが、降伏したかのように、ひとつに繋がった気がした。 ずるい。って言おうとしたのに、さんざん絆された唇が声にしたのは、「好き。」だった。 「俺も好きだ。きみのことが、大好きだぜ。」 心ごと、全部を抱きすくめられるような眼差し。頬を染めて、笑った顔。 この人が笑うとどうして嬉しくなるんだろう。 幼い私が今日に重なる。 嬉しくなるのは、幸せで胸が痛いのは、それは、恋をしているから。 「俺は、もっといろんな君を見たい。」 「…うん。」 「もっと俺を頼って、俺なしじゃあ故郷の星に帰れないようになるといい。」 「…それ、あのときの」 「…覚えていたのか。まあ、きみは安心して、俺を好きでいてくれればいいさ。」 唇がまた合わさって、甘えるような仕草に愛おしさが募って、鶴丸の頭を撫でた。 夏の空にある私の星は、あの日と違わず無垢なまま、地球の裏側で光っていることだろう。
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