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今日は光忠と二人で出掛ける約束をしている。一ヶ月も前からバレンタインの予定を押さえられたら、今日こそ何か変えられるんじゃないかと期待してしまう。 好き、言えない気持ちを指先に宿して、手に取ったチョコレートを鞄に忍ばせる。 普段はまとめている髪の毛をおろして、きちんと巻こう。スイッチを入れたコテの、赤い点滅を見ていたら、どきどきと胸まで熱くなった。のぼせないように吐いた息は、鏡ごし、桃色に映る。 新しい服やおろしたての靴は、精いっぱいの意思表示だ。あなたと並んで歩きたいという、歯がゆい想いに背中を押される。紛うことなく、私は彼に恋をしていた。 「あーるじー!みっちゃんがお待ちかねだぜ?」 言いながらひょこりと顔を覗かせたのは貞ちゃんだ。はっと時計を見あげて驚いた。待ち合わせの時間をすでに10分も過ぎている。 「わ!もうそんな時間?」 「おっと、悪い。身支度の途中かい?急がなくていいぜ。」 鏡越しに目が合うと、貞ちゃんは満足気ににっと笑う。 「へえ、可愛くしてるんだな!髪、俺が手伝ってやるよ。」 「…ありがとう、お願いします。」 「おう、任せとけ!」 後ろ髪を、器用な指先が撫でるように掬って、コテがしゅるりとなめらかに滑る。ぱちっと毛先のところで止まって、くるくるくるり。とても手際が良い。貞ちゃん、人の体も初心者なはずなのに、なんでこんなに器用なんだ。 落ちた髪は肩をすべり、嬉しそうにぷるりとはねた。 「ほらよ、こんな感じでどうだい?」 「貞ちゃんすごい…美容師みたい!」 「へへ!まあな!」 得意げな貞ちゃんに笑い返して、鏡の向こうの見慣れない自分を見た。いつもより華やいで、緩んでしまう頬に少し戸惑う。 「…変じゃない?」 「可愛い顔してなに言ってんだ。はーあ、みっちゃん、喜ぶだろうなぁ〜。」 貞ちゃんが呆れたように笑う。 「…ほ、ほんと?」 可愛く、できているんだろうか。光忠と貞ちゃんはよく似ているので、彼が言うなら大丈夫な気がしてくる。 「可愛いぜ、主。俺が保証してやる!」 とん、と背中を叩かれて、貞ちゃんの自信がくっついたように背すじが伸びた。 「そっか…うん、ありがとう!」 「ああ、楽しんできな。」 貞ちゃんに見送られ、玄関を出てから少し歩くと、正門の前に、光忠の姿が見えた。疼くように、胸が跳ねる。なんてかっこいいんだろう。立っているだけで、人目を惹くんだ、この人は。これはきっと惚れた弱みじゃない。 光忠は、気遣いの人だ。言わずとも、こちらの意を汲んで動いてくれる。口下手で、上手く話せない私は、何度彼の思いやりに救われたかしれない。 誰と対峙するときも、光忠がとなりに居てくれるだけで、守られているという安心感があった。 気付いた時には人見知りの壁もよそよそしさも乗り越えて、私は光忠に恋をしていた。 「遅くなってごめん!」 小走りで近付くと、きゅるんと巻かれた髪は肩でくずれるように弾み、ふわふわと空気に踊った。はしゃいでいるのがばれてしまいそうで、少し照れてしまう。知ってほしい、気づかないでいてほしい。一秒で矛盾する気持ちが胸の中で、ひらり翻って戸惑う。 今日は一段と寒い、吐き出した息は濃く、ミルクのように空気に溶ける白。 息をついて目が合うと、光忠は少し驚いて、くずれるように笑う。 「ううん、大丈夫だよ。」 ああ、この顔だ、と思った。屈託のない笑みに、心を直接撫でられたような心地になる。不安や心配事は、橙の瞳が細められるだけで、いとも簡単に消えてしまう。光忠と会って、格好つけることと気取ることは、違うことなんだと知った。 「髪型、いつもと違うね。よく似合ってるよ、可愛い。」 視線を合わせるや否や、照れる言葉を平気で言われて、閉口する。いざ正面立っていわれたら、面映ゆい。 「そっ…そんなことない…。」 素直に、嬉しい、ありがとうと言えないなんて、可愛くないなぁ、と思っていたら、俯いた視界の中で、指先をそっと掴まれた。 おでこの上で、ふふ、と笑う声が聞こえる。 「ね、手を繋いでいこうか?」 「…うん。」 今日はいつもと違う。そんな予感に支配されて、顔をまともに見れない。 優しく奪われた右手の指先に、大きな手が絡む。柔らかに握られた手が、寒空の下で火を灯すように温かい。鞄の中のチョコレートが溶けないように、そっと深呼吸をした。 冬の街。 人は少なく疎らで、いつも以上に静かだ。 光忠がいる右側だけが、ぽかぽかと陽だまりのように暖かい。 「主、寒くない?」 「大丈夫。」 「よかった。」 かけられる言葉のひとつひとつが暖かくて、白い息がふんわり、光って聞こえる。 買い物をして、お茶をして、これはきっとデートだ。 時間は瞬く間に過ぎる。チョコレート、いつ渡そう。そもそも告白なんてできないかもしれない。いつもよりずっと足の速い陽が傾き始める。 密やかについたため息が、ほうと登って、雲に溶けたら、空にちらちらと影が見えた。 「雪…?」 「ほんとだ、雪だね。」 夕陽に雪雲が重なって、あたりが薄暗くなる。 ゆっくりと落ちていた雪は、徐々に早さと量を増し、こんこんと降り積もる。 本丸に帰るまでに凍えてしまいそうだ。 びゅう、と吹いた風に身を固くしたところで、繋いだ手を引かれた。 「雪が収まるまで、少し待とうか。主、こっちへおいで。」 細い路地の軒先で、雪宿りをする。 さんさんほろりと降る雪を見上げる。駄々をこねるように帰りたくない私の心を埋めるように、雪の粒がいたずらに笑った気がした。 光忠もまた、ほう、と息をついて空を見ている。穏やかな横顔を、独り占めしていることが、嬉しく、はがゆい。 「…荷物、一つくらい持つよ。」 なんとなく、黙っているのが居たたまれなくなって、声をかけた。買った物はすべて光忠にやんわりと奪われて、そのまま彼の右手にぶら下がっている。 「大丈夫、僕が持ちたいんだ。それに、君はもう持ってくれてるからね。」 「…なにを?」 首をかしげたら、繋いだ手を持ち上げられる。意図が読めないまま、見つめ返すと、光忠が照れくさそうにはにかんだ。 「僕は君のもの、だからね。」 そうだ、私は彼の持ちぬしで、主だ。 だけど私は、光忠が自分のものだと思った日なんてない。いくら従えることができたとしても、心に手綱は付けられないのだ。 一方通行の所有権は、なんてつまらないんだろう。光忠になら、なにをされてもいいのに。奪って、独り占めして、離さないで、願うことは、許されないのだろうか。 切なさが、背中を押す。 ふわふわと揺れる髪にくっついた雪の粒が、このままで良いの?、囁く。 今日が終わってしまう。 …このままじゃ、嫌だ。 新しい服も、靴も、髪も、チョコレートも、ぜんぶ今日のため。 いまここに居るのは、光忠のための私だ。 雪が止む頃には、魔法が解けるように、いつも通りに帰るのだろう。 皆がいる本丸で、私は皆にとっての主に戻る。 髪をひと撫でして、雪を払って、息を吸った。 「…光忠に渡したいものがある。」 「えっ、」 目を見張る光忠をむんずと挑むように見上げた。バレンタインにデートをしておいて何もなかったら、ただの買い出しだ。 「荷物、置いて。」 繋いだ手を離さないまま、紙袋をたくさん下げた光忠の右手を指差す。有無を言わさない私の態度に、光忠はそっと従う。 「…うん。」 とくん、とくん、とくん。 鼓動が速くなるけれど、落ち着け、と自分を諭す。 鞄からチョコレートを取り出して、光忠へと手渡した。 「これ、あげる。」 「僕に…?」 「うん。」 「わぁ…ありがとう…!すごく嬉しいよ。」 ぱあっと花開くように笑うこの人は、なんて、近くて遠い。 「…みつただ…。」 好き。光忠のものになりたい。 それだけを言いたくて、見つめるけれど、言葉は声にならずに、あいまいな吐息が空気に解けるばかり。 「どうしたの?」 光忠が、言葉を待っている。 このまま帰るなんて、嫌だ。 …嫌なのに。 「あのね…、あの…。」 わかってほしくて、そばにいてほしくて、同じ気持ちになりたくて、違う私になりたいのに、どうして言えないの。 繋いだ手にぎゅうと力が入る。応えるように握り返してくれた指先が胸に引っかかるみたいに、くるしい。 「あの、…っ。」 「…うん。」 目を合わせていられなくて、俯く。意気地なしの自分がくやしくて、下唇を噛んだ。 「……なんでもない。」 やっと出た声は、気持ちからかけ離れたもので、自分にがっかりする。 視界のなか、光忠が身じろぐ。 チョコを仕舞った右手で、顔にかかる髪をそっと、耳へと掛けられる。 「…困ったなぁ。」 落ちてきた言葉に、そっと光忠を見上げたら、眉尻を下げて笑う優しい顔。 困らせてしまった。主である私からの恋慕は、やはり迷惑だったろうか。 髪をかけた指先が、頬をつうっとなぞる。 誘われるように顔を上げたら、秘密を明かすように光忠がそっと口をひらいた。 「…僕は君がほしかったんだ。一日だけでも、君の時間を…その、僕だけのものにしたくて。…それだけで幸せなはずだったんだけど…。」 言葉に追いつけなくて、まばたきをする間にも、やわく頬に触れた手は熱く、優しい声は止まない。 「今日だけじゃ、足りないみたいだ。ごめんね、主、…僕は君が好きなんだ。」 「…へ?」 「ねぇ、ぜんぶじゃなくていいから、二人きりのときの君を、僕にくれないかな?」 胸のところに舞い込んだ雪が、ふるり、震えて溶けた。何度も何度も頭の中で言葉を反芻して、やっと意味を理解して、頷く。 「…うん。」 私も好き、光忠のことが好き。言葉に出来ない想いのかわりに手をぎゅうと握ったら、そのまま引き寄せられて、包むように抱きしめられた。暖かい体温が、擦りよせた頬、冷えた皮膚へそっと染み込む。 「…ありがとう。」光忠の声が直接、合わせた胸に伝わる。お礼を言いたいのはこっちなのに、先を越されてしまった。どんよりとした雪雲が割れて、夕陽が差し始める。 「じゃあ今は、この髪も僕のだね。」 髪に鼻先を寄せられて、吐息が耳をくすぐる。そのまま、ちゅっと頭にキスをされる。 「…う、ん。」 やばい、やばいやばい、どっどっどっと心臓が耳の中で鳴っている。 くすぐったい。 耳も、どこかしらない胸の奥も。 目に涙が溜まる。恥ずかしくて嬉しくて、あふれる想いに、霜焼けになってしまいそうだ。 やめてほしい、やめないでほしい。相対する感情に、なにも言えず口を噤んでいると、 「ふふ、頬が熱いね。」光忠がひどく楽しそうに、耳のそばで笑った。 「この耳も…僕の、かな。」 ちゅうっ。 耳たぶに、全身の血が集まってしまったのではないかというくらい熱い。雪に反射した夕陽が眩しく、降ったそばから溶けていく。 そのまま頬を掴まれて、視界がぼやけるほど近くに、顔が寄せられる。冷たい鼻先が擦りよせられて、はあ、と二人してこぼした白い息が、水に溶いた絵の具のように混ざる。 「…光忠、恥ずかしい。」 人通りが少ないとはいえ、いつ誰が通りかかってもおかしくない。 このままでは死んでしまうかもしれない。なけなしの理性を総動員して、光忠の胸板をそっと押さえた。 光忠の目が、愛おしそうに細められる。 ほんとうに抵抗する気が無いことは、すっかりばれてしまっているらしい。 指先を取られる。暖かい、ひろい手は、それだけで胸の高鳴りを助長する。 「だめだよ。…ずっと望んでいたことが叶ったんだ。…あと少しだけだから。ね?」 甘えるように、唇に唇がくっついて、お互いをお互いのものにする。 心の奥の想いをあばくように、口付けはどんどん深くなる。 「今は、僕だけのものなんでしょ…?」 口付けの合間に吹き込まれた言葉は、焼きついてしまいそうな、熱を持っている。 こんどは幸せで、言葉を失くした。 吐息を奪われて竦む足の間に、光忠の足が差し込まれる。体を支えるように、重心を取られて、身を預けてしまう。 大きな手のひらに背中ごと引き寄せられたと思ったら、下唇が、食べるように口に含まれる。味を確かめるみたいに、ぬるりと舌が這う。こそばゆくて、どうしようもなくて、ぎゅうと目を閉じていると、ちゅうと音を立てて、唇が離れる。 そうして今度は瞼の上に、キスをされた。 ちゅっという音が弾んで、おそるおそる目を開けると、今度は頬に唇が降りてくる。 慈しみ、愛おしむ仕草のひとつひとつがやおら眩しく、夕焼けを吸った雪に、世界が燃えるような橙色をしている。 胸板を押し返したはずの手は、いつのまにかすがるように光忠の服を握っていた。 「主。」 呼ばれて目が合った。瞳の奥の焔が、背中越しに差す夕陽に重なりあう。 取られた手が握り直されて、指の間、苦しく押しいる光忠の指。簡単には離れそうもない。 「ねえ、あーん、して?」 ねだるように、耳たぶをもう一度、ちゅっと吸われる。 「…?…」 まぶしい光に見染められるように、ぼんやりと、理由もわからないまま口を開く。 「うん、…いいこだね。」 開いた唇をにべもなく塞がれて、背中から這い上がった手は頭の後ろに。ほとんど上を向くような格好で、光忠の舌を食べさせられた。 どろり、甘さでふやけてしまいそうだ。つま先にきゅうと力が入って、苦しい。 上顎をちゅるりと舐められて、歯の間を遊ぶように味わうと、舌がすくい上げられるようにして光忠の口の中に招かれる。 ひとつになった咥内で、舌先がこすれ合って、ざらざら、にゅるり、知らない衝動が胸に押し寄せて、たまらない。 苦しいのは、自分の意思を離れた呼吸のせいだけじゃない。 溶け出した頭の中で、すべてを舐め取られる感覚に、こわさと、諦めにも似た気持ちが湧く。 どんな言葉も相応しくないような想いに替えて、光忠の背中に手を回したら、さらにぎゅうと、隙間なく抱き竦められる。 どこかで聞こえる足音も、凍てつくような風も、何もかも遠く、遠くなって、いま私はこの人だけのために居るんだと理解して、涙が落ちて、雪と混ざった。 帰り道、私たちの足跡は、甘い橙色をしていた。
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