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長谷部にチョコレートを渡した。それはもう、一世一代の告白のつもりだった。一つだけ手作りの、だれがどう見ても本命のチョコレート、のはずだったのに。 返ってきたのは90°の最敬礼だった。 …そうじゃない。 「…ありがたき幸せ…!」 深々と下げられた頭、無邪気に跳ねた後ろ髪がふわ、夕凪の風に揺れる。 その姿に、ぎゅうと胸が絞られた。 …そうじゃないんだけどなぁ。 長谷部の顔があげられることはない。後頭部としか目が合わない。どんな表情をしているのだろう。しかし後頭部まで可愛く見えるなんて、恋心というものはどうかしている。 「…よろこんでもらえてよかった。」 なんとか絞り出した声は、想いが滲んだようにすこし震えていた。 長谷部は私の恋心に気付いてないのか、はたまた気付かないふりをしているのか。真意はわからない。 ただある事実は、私の本命チョコレートは彼にとって強制的に義理として受けとめられたということだ。 こんなに好きなのに、なんだかいつも空振りだ。 長谷部が慕ってくれていることは、その気遣いや態度の節々に現れる特別扱いから汲み取れるのだけど、それは私が主だからだと言われてしまえばそこまでだ。 なにせ私はたった一人の主で、さらにここには女の子が居ない。比較対象が無いので、好きの種類が分からない。 長谷部が好き。 私が欲しいのは、主へ向ける忠誠なんて綺麗なものじゃない。もっと甘ったるくて、苦くて、ときどき後ろめたくなるほどどろりとした、恋慕だ。 手を握ること、頭を撫でること、頬に触れること。そのすべてに、特別な意味がこもっている。 私に恋して。ひたむきな横顔に願っては、恥ずかしくなった。 長谷部が好き、恋人になって。 言ってしまえばきっと、嘘でも叶う恋だ。長谷部は、主命とあらば私が求める恋人像を被ってくれるだろう。 それでは意味が無い。 私はこの人と、ほんとうの恋がしたい。 ああ、なんて面倒くさいんだろう。 意気消沈して戻った自室は変わらぬ静けさで、とおく皆の声が廊下を渡る。目を閉じて、彼のそれを探して、揺蕩う気持ちはくたびれた金魚のようだ。 好き、大好き。想いがつのって身動きがとれない。いったいどうすれば、同じ立場で、彼からの好きがもらえるんだろう。 もしも主をやめられたなら、玉砕だってできたのに。 じんわりぼやけた視界に、金色の髪がたんぽぽの花のように揺れた。 「そげな顔してどしたと?」 「博多ぁぁ〜。」 視界の中にひょこりと顔をのぞかせたのは博多藤四郎。 私が長谷部に恋をしていることを、すでにこの聡明な少年は知っている。 打刀たちの鍛錬を見学しているとき、「まあ確かに真面目な男ばってん、主しゃん、こげな社畜のどこに惚れたと?」と言われた。 そんなに顔に出ていたかと尋ねると、博多はしたり顔で、「需要を見抜いてこその商人ばい!」と胸を張った。感服の一言に尽きる。 博多へのバレンタインは通りもんを用意していた。これを献上しつつ相談を持ちかける。 さっきあげた本命チョコはきっと主命を果たした褒美的なものとしてスルーされるだろうこと、このまま想い続けることに、疲れてしまった自分がいること。 博多はむぐむぐと通りもんを咀嚼しながら、「なーにを悩むことがあるったい、長谷部は主しゃんのこと好いとうよ?」と、どこか呆れを含んだ声で言う。 「それは私じゃなくて、主に対する好きなんだよ。」 私からでなくても、『主』から貰ったチョコなら神棚に供えるくらいはしそうだ。だってあの長谷部だ。審神者界でも名だたる主厨である。 「難儀なもんどおしお似合いやね…。」博多がぼそりとつぶやく。難儀だなんて、自分がいちばんよくわかっている。 「…よーかよか。主しゃんの頼みばい、俺に任せんしゃい!」 「ほんと!?ありがとう!」 博多さんの言うことには、長谷部に酒を飲ませろと。 「長谷部ん酔ったところば見れば、一目でわかっちゃろう。」 「…そんな簡単に酔ってくれるかな?」 「長谷部も九州男児の端くればい、好いとう女の酌を断るような男やなか!」 好いとう女だなんて、いっそ長谷部の主じゃなかったら、舞い上がることもできたんだろうか。 バレンタイン、甘い甘いそんな日に、好きな人に一升瓶で追い討ちをかける者はこの世に何人ぐらいいるのだろう。自嘲して、ため息を吐いた。 手加減は無用だと、日本号に手渡されたお酒のアルコール度数は21%だ。こんなものをストレートで飲ませるなんて、下手したら殺意を疑われる。恋心とはかくも凶暴なのか。 引き返そうかと何度も決意は揺らいだが、もう先に進むことでしか自分の気持ちに踏ん切りをつけることができないと分かっている。 さっさと気持ちをあばいて、長谷部にとってただの主に戻ってしまおう。くよくよするのもうじうじするのも、取り繕うように笑うのも、今日で終わりにしよう。さらばややこしい恋心、アーメン、神の導きのあらんことを。 長谷部の部屋の前で、深く深く息を吸って、吐いた。 落ちた決意にひとつ頷いて、障子越しに声をかける。 「長谷部、居る?」 がたたっと部屋の中でたたらを踏む音が聞こえた。「っはい!!」裏返った声が聞こえて間も無く、ざっと障子が開かれる。 「あ、主…?どうされました?」 「えっと、…長谷部にお酒持ってきた。」 誤魔化すように笑って、たぷりと胸に抱いた一升瓶を揺らす。 「俺に、ですか…?」 長谷部の顔にはわかりやすく、「戸惑ってます。」と書いてあったけれど、それはすぐに切なげな笑顔に変わる。障子を押し開けて、部屋へと通される。 「…どうぞ、お入りください。」何かを堪えるような表情の、真意はわからない。 必要最低限のものしか置かれていない、簡素な部屋。机の上に先ほど渡したチョコレートの箱が置かれているのが見えた。 殺風景な和室に、それだけが甘く浮いている。自分の恋心の場違いさを突き付けられたようで、どきりと胸が跳ねた。 「…おじゃまします。」 「どうぞ。主はこちらへ。」 座布団を勧められるがまま座る。四角い卓の向こう側に、長谷部もまた正座した。まるで面談が始まるかの如く、この堂々たる距離感。上座と下座もきっちりと弁えた長谷部。これが主従の距離なのだ、と非言語コミュニケーションが煩い。 落ち着け、自分。ここまできたんだ。私の任務はただひとつ。この日本酒を、長谷部に飲ませることだけ。 「はい、どうぞ。」 問答無用で盃に日本酒を注いで、長谷部へ差し出す。当然、長谷部はこちらを伺うように視線を送ってくる。 「…主は、お飲みにならないのですか?」 アルコール度数21%のお酒なんて、飲めるわけがない。一口で自我を失う危険性がある。 「うん、長谷部が飲んで。」 「かしこまりました。」 とても不自然な晩酌だけど、それに関して長谷部がとやかく言うことはない。それが寂しい、なんて矛盾しているだろうか。きっちりと引かれた主従の境界線を越えて、もっとこちらへ来てくれたらいいのに。 遠いなあ、切ない。 好きで、好きで、きらいになれたらいいのに。 「…では、いただきます。」 くい、とまるで水でも飲むように長谷部が杯をあおった。こくりと喉仏が上下して、ひとくちに飲んでしまう。あまり見ることのない男っぽい仕草に、きゅんと胸が締め付けられた。こんなのでいつもいつも好きを思い知らされるんだ、ほんと、たまったもんじゃない。 「…いい飲みっぷりだね。」 「美味い酒ですね!飲みやすいです。」 長谷部がにこやかな笑顔で答える。 アルコール21%のお酒が飲みやすいとかどんな胃粘膜してるんだ。と思ったけれど、これ幸いと続けて杯を潤した。 「よかった、もう一杯どうぞ。」 「ありがとう、ございます。」 もうひとくち、変わらぬ余裕で飲み干して、長谷部が杯を置く。 お酒に混ざる私の後ろめたい気持ちも、長谷部のお腹に落ちていけばいい。 こくん、ひとくち。またひとくち。 長谷部はなんてことのないような顔をしている。どれくらいで酔いは回るものなのだろう。 四杯、五杯。 「いっぱい飲んでね。」 「はい!主命とあらば。」 六杯、七杯。 「すごい、長谷部はお酒も強いねぇ。」 「ありがたきしあわせ。」 そうして八杯目を空にしたところで、長谷部の手が止まった。 「その…主も一杯どうです?」 まだ涼しげな表情のまま、遠慮がちに見上げられた目線。 「…いや、私はいいよ。」 私が酔ってしまっては、元も子もないのだ。 「そうおっしゃらずに、俺ばかり飲んでいては興が醒めてしまいます。」 しかし、長谷部にしては珍しく、引く様子がない。 「う、じゃあ、ひとくちだけもらう。」 折れてしまうのは、惚れた弱みというものだろうか。 「はい!俺がお注ぎします。…主、となりに行ってもよろしいですか?」 返事を待つことなく、長谷部が隣にやってくる。いつになく近い距離にどきどきと胸が高鳴る。 長谷部が丁寧な仕草で酌をする。近過ぎて顔が見れない。なにかがはっきりといつもと違っているけれど、それは得体のしれない些細な違和感のままだ。両手で持った器のなか、酒が清らかに波立つ。 縁のすれすれまで注がれて、手元が少し震えた。 「ちょっと、多い…。」 「すみません、いれすぎてしまいました。」 酌を終えた長谷部の手が、杯を持つ両手にそっと添えられる。そのままゆっくり引き寄せられて、盃は長谷部の口元へ。 ぎょっとして口を噤んだ私に構うことなく、差し出した手のひらに口付けるようにして、長谷部が酒を口に含む。 美しくお辞儀をするように伏せられた睫毛の影や、つるりと綺麗に流れる鼻筋に、心をぐしゃぐしゃに掻き回される。視線が吸い寄せられるように、離れなくて、困ってしまう。 触れたい、触れられたい、そう願って、胸がくるしい。 上澄みを掬うように酒をひとくち飲み込んで、長谷部が顔を上げた。 「…では主もどうぞ。」 嬉しそうに笑った長谷部の顔を見て、罪悪感と、幸福感がないまぜになった。後ろめたくて疚しい、好き、が自分の体のそこら中から零れ落ちてしまいそうだ。 手を添えられたままの妙な格好で、盃を口へ運んだ。 舌の上を流れていく酒は、どこか甘く、喉をすんなり落ちて、身体をゆっくりと温めるように広がった。苦味や渋み、喉をひりつかせるようなアルコールの強さを、ほとんど感じない。 「…ほんとだ、飲みやすい。」 顔を上げてすぐに、杯は再び長谷部の方へ傾く。少し残った酒を長谷部が飲み干して、にこにこと笑いかけられた。 長谷部ってこんなに笑う人だったっけ?こんな無邪気な笑顔、久しぶりに見た気がする。 可愛い。ずるい。 思えば、好きになってから、まともに笑いあえた記憶がなかった。不純な動機でも、こんな時間を持てたことが嬉しい。 ほう、と吐いた息に火が灯った。 「ふふ、三々九度のようですね。」 「…は?」 ばぎゃん、と脳天に雷が直撃したかのような衝撃が走った。長谷部今なんか婚礼の儀みたいなこと言った? 拾った違和感に名前を見つけるようにしてようやく、長谷部のようすがいつもと違うことに気付いた。距離の詰め方に、迷いがないのだ。なんか近いし、素直だ。 もしかしてこれが酔っている状態なのか? いつもより機嫌が良さそうなこと以外は、素面といっても通じるくらい、顔色が変わらない。 長谷部は酔っても表情に出ないのか。心の中で博多に呼びかけた。先に言っててほしかった! 「主、もう一杯飲みたいです。」 「も、もうやめといたほうがいいんじゃない?」 「まだいけますよ…!」 中傷のときの台詞じゃないか!! 「長谷部、だいぶ酔ってるでしょ?」 問いかけると、長谷部はぶんぶんと首を振る。仕草も、普段より幾分か子供っぽい。 「酔ってません。…せっかく主とこうして二人きりでいられるのに、俺が酔い潰れるはずがありません。」 酔ってる人は酔ってないと言うし、酔ってない人ほど酔っちゃったとかいうのが飲み会の真理であり、この世の摂理だ。 目がうるうると潤んでいる。 どうしよう、酔わせておいてなんだけど、面倒な予感がする。 水分を孕んだ長谷部の瞳が、なんだかいつもと違う熱を含んでいるようにみえて、怖気付いた。 何事も引き際が肝心だ。目的は据え置く。今度博多や日本号を交えてみんなでいる時に酔ってもらおうそうしよう。中傷で帰城は我が本丸の基本である。 「…また今度飲もう。」 「…いやです。」 「え?」 長谷部が初めて、いいえ、と言った。 「いやです、主…行かないでください。」 酔わせるだけ酔わせて帰るってそんな必殺仕事人みたいなことはさすがにしない。 まだ行かないよと口にしかけたところで、横から長谷部の胸に引き寄せられた。瞬く間に右肩へと顔が埋められて、首元に熱い長谷部の息がかかる。なす術なく胸元へ枝垂れ掛かってしまい、情けない声をあげた。 「なっ、なに?!」 「……。」 …無視ですかそうですか。 私より大きな体をかがめるようにして、長谷部が抱きついてくる。ぎゅううとしがみつく腕の力は弱まらない。 ぐりぐりと頬や額を擦るように甘えてくる長谷部は無言だ。 予期せぬ急展開に、思考も体も固まる。役得なのか当てつけなのかわからない。 こんな顔して甘え上戸とは、とんだギャップである。長谷部はいったいどれだけ私を虜にしたら気がすむんだろう。どうするの博多、私ばかり、長谷部の沼にどんどん足を取られているこの状況。 好きすぎて気が遠くなる。主やめたい。 「…可愛い。何なの?」 あまりの愛しさにだんだん腹が立ってきた。こちらの気持ちも知らないで、可愛いにもほどがある。 「…俺は可愛くありません。だいたい主は、誰でも彼でも可愛がりすぎです。」 恨みごとのように長谷部が唸った。 それは心外だ。これでも充分にラブとライクを使い分けている自信がある。 「…そう?そんなことないよ。」 「そんなことあります。今日だって皆に菓子を配っていたでしょう!」 言いながら、肩口に埋められた顔が上がる。 体を抱えられたまま、すぐ近くで目が合う。 むっとしたへの字口と、涙さえ浮かんだ瞳。 その表情に、はっと口を噤んだ。 「俺の気持ちも知らないで、主、あなたはずるい人です。」 長谷部のこんな顔を、初めて見る。 囲われた腕の中から、長谷部を見上げたら、主であることだとか好きの種類だとか、そういうのが突然どうでも良いことのように思えてしまった。 自分の意思の頼りなさに情けなくなる。 なにかを堪えて、こらえて、煮詰まった想いが、欲が、長谷部の瞳の中で、私と同じ色を浮かべている。 「こんな感情を抱くのは、主の臣下としてあってはならないことだと思います。…何度も、なんども忘れてしまおうと思いました。」 ただただ好きで、笑っていて欲しくて、幸せの中でひたすら甘やかしたい。 それだけの気持ちが、恋だった。 私の中にある、恋心だったはずなのに。 いつのまにかこんなにも膨れ上がって、欲深くなって、苦しんで。 「…なのに、どうして、あなたは俺の心を離してくれないんですか。」 長谷部の手のひらが頬を撫で上げる。こんなにも近く、こんなにも同じ場所に居たんだと、はじめて気付いたら、鱗のように涙が落ちた。 「好きです、主。だいすきです。あなたのことが愛おしくて…俺は…どうしようもない刀です。」 遠回りして、遠回りして、不器用な策を巡らせて、笑えてくる。ぽたぽた、涙は落ちるのに、可笑しいのだ。ばかみたい、ばかみたいに大好きで、ほんと、救いようがない。 好き。ただそれだけ。 最初から、それだけでよかったんだ。 「…私もすき。…はせべが好き。」 ずっと言えなかった言葉は、持て余した切符みたいに、くしゃくしゃの声になる。 好きと言った途端、あやふやで、信じ難くて、気まぐれで重たい気持ちが、ふわ、と風に舞った。 「…あるじ。」 長谷部の声で目を合わせる。 陽が地平線に落ちるように、どちらともなく顔を寄せ合う。知らないうちに、隙間なく唇がくっついて、ぎゅっと胸がいっぱいになった。 そっと目を開けると、柔らかく滲んだ藤色に落ちてしまいそうになる。たっぷりと歓びを含んで、とろり、帳が降りるように長谷部の目が閉じられる。 頬にあてられた手のひらが滑るように頭の後ろへ回って、もう一方の手が背中を這い上がる、祈るように雄弁な、甘い甘い口付け。 触れた唇から、煮詰まった愛情がないまぜになる。柔らかいところが、溶けて溶けてひとつになる不確かさに、ぎゅうと長谷部の服を掴んだ。 そっと離れた口付けの隙間で、濡れた唇に息がかかる。 「…俺はずいぶん待ちましたよ。」 「私のほうが、ずっと待ってた。」 頬がひどく熱い。長谷部も、そうだろうか。 「ではこれからたっぷり時間をかけて、俺がどれだけあなたに焦がれていたか教えて差し上げます。」 くすぐったくてたまらない唇は、すぐにぷちゅりと塞がれる。 打ちのめされて、へとへとになって、それでも誰かを愛するということは、こんなにも幸せでいっぱいになるものなのか。 思い知ったか、と恋心が胸を張る。 憎らしくて愛おしいこの気持ちに、いつまでもいつまでも、結ばれていたいなんて。
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