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試行錯誤の果てに、キッチンは荒れ果てた戦火の地と化していた。 タイルに飛び散ったチョコレートはダイイングメッセージみたいだし、レシピ本の通りに砕いたはずのビスケットは砂漠の砂のごとく風に舞い踊る。地獄絵図を顕現させてしまったのかと、自分の霊力を疑った。 歌仙に気付かれないように、夜中にこっそり始めたお菓子作り。いまや遠くには雀が飛んで、空は白く光りを吸いはじめた。明ける空とは裏腹に、私の胸は重く沈んでゆく。つらい。 だいたい、バニラエッセンス少々、の少々ってどこを標準にしたときの少々なんだろう。大さじ山盛り一杯の、山盛りっていったい何センチ盛ればいいんだろう。夜通しレシピ本との睨めっこをしていたせいで、眉間がずぅんと重い。 材料だったはずの死屍累累とレシピ本の写真"※盛り付けは一例です。"を見比べて、途方に暮れた。 私が錬金術師だったら、危うくキメラを量産しているところだな、と頭の片隅で思った。審神者でよかった。 …こんなんじゃ、歌仙に好きって伝えるなんて、できない。 ぐしゃぐしゃのキッチンに、心までがぽろぽろと砕けてしまいそうになる。悲しい。 「まったく雅じゃないね。」 ずっとずっと隣に居てくれたから、歌仙がなんていうかなんて簡単に想像できる。 「…私もそう思う。」 声を出してみて、涙が滲んだ。不甲斐ないなぁ。私のいちばんの愛刀は、あんなに美味しいごはんを作れるのに。料理の神様は、きっと私のことが嫌いなんだ。 「はぁ。どういう風の吹き回しかは知らないが、厨を荒らすのはやめてくれ。」 …とうとう歌仙のため息まで聞こえてきた。寝てないからかな、ひょっとすると赤疲労が付いてるかも知れない。諦めて、掃除をして、今からでも市販のものを買いに行こうかな。このまま足掻くより、その方が喜んでもらえるかもしれない。潔さってきっと大事だ、桜って雅だし。 …本当なら、手作りのものをあげたかったけれど。 「何とか言ったらどうなんだい?」 「…へ?」 すっと横に立った影を見上げると、歌仙がいる。 うそだ。 「夢…?」 一縷の望みを賭けて問いかける。自分でも、こんなあほみたいな質問をする日が来るなんて、思わなかった。 「おや、どうやら僕の主は寝惚けているらしいね。」 薄ら寒い声で言って、頬をぐにっと摘まれた。 …痛い、いたいいたい! 「いたい!」 ぱっと手が離れる。今度は両手で頬を挟んで、むぎゅうと上を向かされた。じとりと棘を含んだ翡翠色に見つめられる。花のような、大好きな匂いがする。かせんがいる。 「…歌仙、おはよう…?」 「ああ、おはよう。主。」 うっそりとした笑顔だ。 とてもよく分かる。怒っている。 状況がやっと飲めたところで、ひんやりと背中を冷たい何かに撫で上げられるのを感じた。 見つかってしまった、台無しだ。 ぐしゃぐしゃのキッチン、叱られる。 もはや料理じゃない、幻滅される。 雅じゃないって、きっと、きっと…、嫌われたらどうしよう。 「料理がしたいのなら、僕を頼ればいいものを。どうして君は勝手にやりたがるんだい。」 「…うっ。」 歌仙に嫌われるぐらいなら、馬の餌にでもなりたい。目頭がじゅわっと熱くなる。泣くなんてみっともなくて、涙腺を叱咤する。それなのに、一度溢れた涙は止まらない。表情が情けなく歪むのに、歌仙が頬を掴んだまま離してくれないから、いま人生でいちばん不細工な顔を見られてる。とても悲しい。 「まったく…泣きたいのはこちらのほうだよ。」 溢れた涙が歌仙の手に伝う。 止まらないのなら、爪の先から歌仙に染み込んで、この言葉にならない気持ちをしゅわりと運んでよ、と涙にお願いしたくなった。 「こんな時は、なんて言うんだい?」 優しい顔をされると、もっと涙が出る。歌仙といると、自分が幼い子どもにでもなってしまったように感じるときがある。 「うっ…ごめんなさい。」 「…ああ、もう怒ってないよ。」 安心させるような声だ。歌仙の声に表情に、すんなり動く私の心は、まっすぐに飛ぶツバメみたいに素直だ。呆れる。 私のよりも一回り大きな親指が、涙の跡をそっとぬぐってゆく。 その仕草に、昔の光景がそっと重なる。 『君は僕の主なんだろう?こんなところでくじけるような子じゃないさ。』 なにもかもうまくいかなかった時も、歌仙はずっと傍で、諦めないでいてくれたこと。 躓く度に立ち上がる理由をくれるこの人のことを、いつのまにか大好きになっていた。 伝えたかったなぁという思いを、こくり、静かに飲み込んで、乱れた息を整えるように深呼吸をした。 「…歌仙、ありがとう。」 「泣き止んだね。それじゃあ、続きをやろうか。」 一瞬、なんのことだっけ、と思ったけれど、あげられた歌仙の視線を追ってすぐに察した。そう、雅な眼差しは凄惨な調理現場を凛々しく見据えている。 「うん?」 「厨をこんなにしてまで、食べたかったものがあったんだろう?」 歌仙は、諦めや妥協を良しとしない。 軍議でも、納得出来るまでとことん話し合うし、カレーは必ず一晩寝かせる。おやすみ前のカレーに手を出そうものなら、万死だ。翌日に具なしのルーしかもらえなくて泣いたこともあった。 なにか目的とずれてしまうような気がしたけれど、言ってもきっと引いてくれない。おそるおそる、レシピ本を歌仙に差し出した。 ザッハトルテというお菓子だ。この盛り付け例の金箔に、彼の部屋の硯箱を思い出したのだ。歌仙が好きそう、一目でそう思った。 「君はほんとうに身のほど知らずだね。知っていたけれど。」 「へへ。」 「はあ、かしてごらん。」 片手でひょいと本が取り上げられる。ふむ、と文字を追う綺麗な横顔を見上げた。 やっぱり馬の餌はやめて、レシピ本になりたいな、と思った。そうすれば、歌仙の美しい睫毛のまたたきや、透き通る異国の海のような瞳をずっとずっと見ていられるのに。 「はじめようか。」 穏やかな表情の向こうで、勝気な自信とキラリ、目が合った。さすが、厨のお殿様という通り名を欲しいままにしているだけのことはある。 * …開いた口が塞がらない。 歌仙に言われるがまま、材料を混ぜたり、溶かしたり固めたりしたら、目の前にはいつの間にか、レシピ本のそれに引けを取らないザッハトルテが出来上がっていた。 「すごい。……すごい!出来た!」 「ふ、やれば出来るじゃないか。」 「うん!歌仙、ありがとう!」 きらきらと光りを浴びて艶やかにきらめくチョコレート。ケーキ屋さんがひらけそうなぐらい、すごく美味しそうだ。 よくわからない「少々」にも「山盛り一杯」にも歌仙は一切惑わされなかった。あくまで私に作らせてくれる、なんて心強い人なんだろう。 最初の事故現場が嘘みたいだ。自分の手からこんなに綺麗なものが出来上がるなんて、感動した。 …これなら、言えそうだ。 ぴかぴか光るザッハトルテも、頼もしく胸を張っているように見える。 そっと、ひとつをお皿に乗せて歌仙に差し出す。一歩近付いて、不思議そうに首を傾げた歌仙を見上げた。息を吸い込む。 「歌仙、大好き。」 大きく出したはずの声は、上擦るように震えて、自分の気持ちの大きさを思い知った。 歌仙が息をのんで、私の言葉を祈るように聴いている。 「一緒に食べて。」 想いは、言葉に変えてこそだ。 だけど、世界中の言葉を集めてもきっと、この苦しくて、あまくて、切なくて、愛おしい気持ちをすべて渡すことはできない。 だから、チョコレートに手伝ってもらおう。 まっすぐに、揺れるまなざしに見つめられて瞳がにじむ。窓から朝日が差して、まばたき。朝顔の花がほどけるように、呆気にとられていた歌仙の顔が綻ぶ。 「ありがとう。…うれしいよ、とても。困ったな、言葉が見つからない。」 歌仙でも、言葉に出来ないことがあるらしい。それでもうっとりと、水飴みたいなあまい視線から、とても雄弁に、気持ちは香り立つ。 「僕は君を、あいしている。」 たっぷり気持ちが染み込んだ、チョコレートも霞むような甘いあまい声で、歌仙が言う。 こちらの胸までぎゅうと絞られて、きゅんと痛い。それなのに、ひどくくすぐったくて、笑ってしまう。不思議だ。 歌仙がザッハトルテを指でくずす。 一緒に食べて、なんて、どちらにも取れるようなずるい言葉。キッチンで、立ち食い。ましてや手で食べるなんてお行儀が悪いといつもなら怒るはずなのに、今はもう、一秒も惜しいみたいだ。 ぐしゃり、いびつな塊を乗っけた指先が口もとへ差し出される。開いた口に、甘い甘いチョコレートが押し込まれる。ほんとうに食べさせる気があるのかと疑ってしまうぐらい、乱暴で、下手くそな仕草だ。顔をしかめると、額がそっと寄せられて、息がかかるくらい近くで歌仙が笑う。 ああ、この笑顔が好き、と気付いた時には、唇ごとすっかり食べられていた。 言葉にならない、涙が出そうなほどの幸せに、まぶたの上で花火が散った。 愛してる、あいしている。 この想いを伝えるためには、どうしたらいいのか。ずっと前から知っていたように、夢中で唇をあわせる。 くっついた口の中で、チョコもことばも溶けてしまって、砂金のような愛だけが、きらきらと、胸に降り積もる音が聞こえた。
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