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期待されると背きたくなる。 望まれると逃げ出したくなる。 猫を斬った南泉一文字には猫の呪い。 期待を裏切った私にもまた、きっと相応しい呪いが掛けられているのだと思う。 「膝切。」 「膝丸だ。」 「肘丸。」 「…膝丸だ。」 「しつがん。」 「膝丸だ…!」 「膝者。」 「ひじゃ、じゃ、ひざまる、だ!」 間違えたら間違えた分だけ、飽きもせず何度も律儀に訂正してくれる膝丸は優しい。 その優しさにも、きっと果てがあるんだと思ってしまう。終わりが怖くて、こうしていつまでも確かめていたくなる。 面倒くさいと放り投げてくれたら、悲しくとも楽になれるはずなのに、膝丸はそうしない。 優しさに甘えている私に、ずっと付き合ってくれる。 「…はぁ、もう分かったから。夜も遅いし部屋に戻っていいよ。」 「君から仕掛けてきておいて、何を分かったというのだ。…だいたい君は仮にも主なのだから…。」 ぶつぶつと小言を続ける膝丸の背を押して部屋の外へと追いやった。膝丸は抵抗することもなく、私に従って歩を進めてくれる。 「それじゃあおやすみ、膝丸。」 障子の外に踏み出して、こちらを振り返った膝丸と目が合った。 つい、口をついて呼んでしまった彼の名が、ぽん、と膝丸の額にぶつかったように見えた。 まさに鳩が豆鉄砲を喰らった、という顔で膝丸は立ちすくみ、目を見開き「な、な…!」と唇を震わせている。 みるみるうちに紅潮していく彼の頬をなんだか見ていられなくて、私はすぐさま障子を閉めた。 すたん!と音をたてて遮断する。 心も、この部屋のように容易く閉め切ることが出来るのだと、この時の私は本気で信じていた。 * 2月14日。廊下を歩いていると、甘い匂いがした。匂いのもとを辿って部屋を覗くと、髭切がチョコレートのお髭をつけて短刀たちとチョコフォンデュに興じているところだった。 「おはよう主、弟が君のことを探していたよ。」 「そう、」 わかった、と言いかけて、視線を感じた廊下の端、件の膝丸がこちらを凝視していた。 目が合うと、薔薇の花束を抱えてずんずんと歩み寄ってくる。ただならぬ気迫に、短刀たちが怯えないよう部屋の戸をぱたむと閉じて、冷えた廊下を後退りした。 長い足と高い機動で、距離はあっというまに詰められて、膝丸が私の手を握り込む。 後退りなど、なんの意味もなかった。 「好きだ、主。君のことを、誰よりもお慕い申している…!」 頬を、耳まで真っ赤に染めて、気圧されるほどのすごい剣幕で膝丸が宣う。 半ば押し付けられるように差し出された花束からは、溺れてしまいそうなほどの甘いにおいがする。 これで何度目かの、愛の告白。 途中で数えるのをやめてしまうほど、膝丸は何度も何度も思いを告げに来た。 まるであの日、飽きもせずに名前を訂正しつづけたように。律儀にも、執念深く。 応えてしまうと、すべて失ってしまうような気がして恐ろしく、毎度毎度すげない返事ばかりしているというのに、どうしてこうも想いを寄せてくれるのだろう。 誰かを好きになるのがこわい。 いつか訪れるはずの終わりがこわい。 だからいっそ、嫌いになってほしい。膝丸が差し出す薔薇の赤に、目眩がした。 私は幼い頃から、人の顔色を読むのが得意だった。 家は代々続いてきた審神者の家系である。この家に生まれ、物心ついたときにはもう、将来すべきことが決められていた。 他にやりたいことがあったのかと問われるとそうじゃない。 ただただ、幼い私は両親に褒められたい一心で、審神者としての素質を磨くことに専念した。 彼らに認められることが、自分の価値のすべてで、それだけで完結する世界はとても狭かった。 「あなたは真面目で、出来が良いわ。ほんとうに手のかからない、いい子ね。」 狭い世界で与えられた言葉は呪いみたいだった。たとえ褒め言葉であっても、それに心を縛られる。 真面目で、出来良く、手間を掛けさせない、良い子であることが、私の価値だったのだ。 期待を裏切るのがこわい、臆病な私は、自分をすっかり覆い隠した。弱音も甘えも押さえ込んで、そうして、心に口がなくてよかった、と胸を撫でた。 だって想いは、口に出さなければ目には見えないのだから。 寄せられる期待に応えていれば、彼らは私を見てくれる。いくつもの言葉に縛られるようにして、私は育った。 だけど、期待に応えようともがけばもがく程、"手のかからない"私は孤独になった。 出来ることが増える度、当たり前のことは積み上げられるままどんどん高くなって、まるで跳べば跳ぶほどに積み上げられていく跳び箱みたいになって、私の前に立ちはだかった。 そしてついに霊力を扱いきれず倒れた私は、あっけなく家を追い出され、審神者養成所へと引き渡される。 それ以来、苗字を名乗ることを許されていない。名家と呼ばれた一族に泥を塗ったのだから当然だ、と彼らは言った。 「お前には、失望した。」 誰より認めてもらいたかった両親は、終ぞ私のことを視界にも入れずに、施設を去った。 私はいい子なんかじゃなく、彼らにとっての都合のいい子、でしかなかったのだ。 そう知った絶望の淵で、どこか安堵している自分が居た。なにも望まなければ、もう何かに追い立てられることもない。 重くのしかかる呪詛のような言葉に、苛まれることもなくなったのだと。 今しがた、幾度めかの愛の告白を言い切った膝丸はむんずと口を結んで、私の返事を待っている。 好きで居てもらうためには、期待に応え続けなきゃいけない。 膝丸が、何をもって私を好いているのかさっぱりわからないけれど、今好きだと思われたとしても、きっとこの先、私は彼の期待を裏切るだろう。 好きなままで居てもらえる自信がない。 いつか厭われ捨てられるならば、いっそ初めから好意など向けて欲しくない。 あたたかさを知らなければ、寒さを知ることもないのだから。 膝丸は、とても優しい。 その優しさへ淡い想いを抱いてしまう前に、どうか私を見限ってほしかった。 心を悟られないように、ふい、と目を逸らす。 「…もう、いい加減にして。…しつこいよ。」 一つ一つ、拒絶を言葉にする度に、まるで斬られるみたいに胸が痛んだ。 やめて、構わないで、迷惑だから 私が傷付く道理なんてないはずなのに、まるで自分で自分に刃をを突き立てているみたいだ。心を殺す、というのは、ほんとに痛みを伴うらしい。 じくじくと痛む胸に比例して、声は小さくしぼんでいく。 最後に絞り出した「きらいになって、」は、ほとんど息みたいな薄っぺらさで、白く空気に溶けた。寒くて、たまらなかった。 膝丸の顔を見られずに俯いて、つま先を見ていたら、つむじへぽん、と声がかかった。 「…ようやく応えてくれたな。」 どうしてこの人の声は、泣きたくなるほど優しいのだろう。 膝丸は撫でるような優しい声で、じくじく痛む心のひとつひとつを、丁寧に塞ぐように言葉を紡ぐ。 「俺は、真面目で直向きな君が好きだ。愛しいと思う。」 耳の淵もツンと冷えるほどの、澄んだ冬の空気へ放たれる、膝丸の声だけが温かい。 「だけど、そればかりではないところも見たい。どんな君だとしても、俺は変わらず好きだ。」 つま先に落ちていた視線は、とても重たかったはずなのに、どうしてか、ふわ、ふわ、と風を受けた旗みたいに、ゆっくりと引き上げられていく。 手を伸ばせば触れられそうな距離に、膝丸は居た。 ぎゅうと握られた拳や、呼吸に合わせて膨らむ胸や、強張った肩を見た。 心とは、目に見えないとばかり思っていた。 どうやらそれはとんでもない勘違いだったらしい。こんなにもありありと全身で好きを突きつけられて、私はすっかり参ってしまった。 「…不器用で、甘え下手で、どうしようもなく意固地で強がりで、痛いほどまっすぐで、分からず屋な君を…っ、そんな君が、いっとう好きだ。」 目が合う。 視線は絡まったように離せなくて、鋭いとばかり思っていた瞳は、恐ろしいほど柔らかに滲んでいた。 「…すき、なのだ。」 不器用で意固地で分からず屋って、そんな告白ってあるのだろうか。本当に私のどこがいいんだろうとますます分からなくなった。 それなのに、そんな良いとこ無しの私を曇りなく好きだと言う膝丸がとても幸せそうで、諦めにも似た笑いが口許に浮かんでしまう。 ああ、見透かされていたことが嬉しいなんて、どうかしている。 「……貶してる?」 「け、けなしてなどいない!」 「…ふふ。」 やっと笑えて、それなのに涙が出て、からかうように言ったら、真っ赤な顔で言い返される。 「お慕いしている。」 「…うん。」 「そ、それは、想いを遂げたと受け取っても良いのだろうか…?」 花束を掴んだままの膝丸の腕が背中にまわって、ぎゅうと胸の中に閉じ込められてしまう。良いのだろうか?などと言っておきながら、私がもうあらがう術など持ち合わせていないのを、すっかり見透かされている。 頬が熱い、薔薇の赤なんて似合わないのに、移ってしまったみたいだ。 「だって、嫌いになってはくれないんでしょう?」 「…ああ。そうだな。俺の傍に、ただ居てくれるだけでいい。」 顔を見ることも叶わなくなって、あんなに恐れていた幸せが、胸に詰まる。祈るように縋って、ただ膝丸のうるさいほど鳴る心臓の音を聞いた。 強い力で抱き込まれた腕の中は暖かくて、見捨てられたくない、失望されたくない、嫌わないでほしい、そうして心を閉じ込めていた鎖さえ解ける、溶ける、ほどけていくほど。 喜ばせたかっただけ、褒められたかっただけ、必要とされたかっただけ、撫でて、抱きしめて、ただ、愛して欲しかっただけの、まるで幼い子どもみたいな胸の奥が、ほころんだ隙間から、ぽろぽろ溢れていく。 「私も、好きだよ。」 やわらかくたわんだ心のまま、言葉にしたら、長い長い潜水を終えて、やっと息継ぎをしたような気持ちになった。 ぎゅうっと苦しいくらいに抱きしめられる腕の中で「俺も、愛している。」という声を聞いた。 可笑しい、ついさっきまで恐れていたはずなのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。好き、は止まない雨みたいに心に降り積もって、溢れてしまう。 「…きらいにならないで。」 口などないと撫で下ろしたはずの心からこぼれた願いは、泣きたくなるほど幼稚で、無垢で、情けなかった。そんな声も、膝丸はきちんと掬い上げてくれる。手にとって、大切に撫でるように、返事をくれる。 「ふ、嫌いになどなるものか。たとえ君が嫌いになれと乞うたとしても、俺は君を好きなままだぞ。」 私にだけ届くようにと耳にそそがれた声は、少し掠れていて、慈しむような色をしている。 息で曇った温かいままの言葉は、胸の中をぽうと照らす。 無償の愛なんてなくて、ましてや永遠などないのかも知れない、だけどもう、それでいいやと思えた。たとえいつか失うのだとしても、この人を知って、愛に触れてみたいと、思ってしまったのだ。 言葉は、呪いだ。 褒め言葉にさえ、時に心を縛られる。だけど心を解くのもまた、それは言葉に過ぎなかった。 「おお、主もようやく観念したんだねぇ。弟はねちねちしててしつこいけれど、これからも、よろしく頼むよ。」 そのあと、部屋から顔を覗かせた髭切に私たちは二人して揶揄われてしまう。 赤い顔を隠せないままでいる私たちを、短刀たちが似たもの同士だ、と笑った。
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