山姥切国広の神隠し

 神さまを信じるか、と問われたら私は迷わずはいと答える。それは別に宗教に属しているからでも、特別信心深いからでもない。
 幼い頃、私は神さまと隠れんぼをしたことがある。だからサンタクロースを信じるのと同じくらいの気軽さで、私は神さまの存在を信じている。

「あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ、熊本さ、熊本どこさ、船場さ」
 あの日、私は庭で鞠つきをしていた。季節は秋だ。父の本丸の庭のもみじは紅く色付いて、そこに夕陽が差していた。男士たちが良く手入れしているこの庭は、いつだって美しかったけれど、中でも秋は特別好きな季節だった。お昼のあとに掃かれたのだろう、落ち葉の山がぽつぽつとある。折り重なる紅葉の赤に夕陽が差して、橙の光の中で蹲っている様は、まるでちいさな山並みが燃えているようだった。
 「船場山にはたぬきがおってさ、それを猟師が鉄砲で撃ってさ」
 さ、のところで足の下をくぐらせる。鞠つき唄のいちばん難しいところに差し掛かる。てん、てん、てん、と鞠の跳ねる音に息を合わせる。
 「煮てさ、焼いてさ、食ってさ、それを木葉でちょいとかーく、……せ」
 とん、と強く鞠を叩く。頭の上まで跳ねた鞠が戻るまでに、くるんとひとつ回る。宙に浮かんだ白を真ん中に、秋空が一回転。落ちてきた鞠を着物の袖で包んだとき、一切の音が消えた。水の中に潜った時のように、風の音も、皆の足音も、話し声も、ぷつんと消えた。屋敷の縁側を見たけれど、沈黙に佇むばかりで、心細さを拭ってはくれない。ただよそよそしいばかりの静けさの中で、心臓の音だけがどくどくと耳元で鳴っている。たまらなく恐ろしくなって駆け出そうとしたとき、後ろからぐいと腕を掴まれた。
 「待て」
 振り返ったところに、山姥切国広が居た。いつもと変わらない凪いだ海のような眼差しに、強張っていた体から力が抜ける。なにがあったの?と聞こうとした口を、手のひらで塞がれる。
「静かに、これはかくれんぼだ」
 私が鞠つきに夢中になっている間に、みんな隠れてしまったらしい。それでこんなに静かなんだ。鬼はだれ?と聞きたかったけれど、私の口を押さえたまま、山姥切が言葉を続けた。
「御神木の根に、穴があったのを覚えているか?あんたはそこに隠れるんだ。それから俺が迎えに行くまで、誰にも見つからないように、目を閉じて静かに待っていてくれ」
 山姥切には普段から真摯な印象を抱いていたけれど、この時の視線はいつになく固くって、息が詰まったのを覚えている。だから私はただ黙って頷いて、走り出した。

 屋敷から離れて、木立ちを抜ける。頭の上では紅葉が揺れているのに、葉の触れ合う音はしない。自分の足音さえ聞こえない。音を消した映像を見ているような、不思議な感覚だった。目と耳が別のところに居るみたいで、自分のひとつの体がばらけていくような気がした。御神木の根っこにある、小さな窪みに潜り込む。ちょうど体一つ分の虚の中は狭く、まるで守られているような安心感があった。小さく息を吐いてから、目を瞑り、私は山姥切を待った。

 それからどれくらい時間が経ったのか、わからない。ずいぶん長いあいだ息を潜めていた。ともすれば眠っていたかも知れないくらい、長い長い時間だった。だけど「もういいぞ」と背中から山姥切の声がして顔を上げたときも、空はまだ夕焼けの色をしていたから、それほど経っていないのかも知れなかった。虚から出た私に、彼がいつも被っていた布がかけられる。そのまま抱き上げられて、視界が狭い。だけど、さわさわと風に葉が擦れる音や、ざかざかと木葉を踏みしめる音が聞こえた。耳へ戻った音を懐かしい、と思った。気付けば周りを見たことのないスーツ姿の人たちが取り囲んでいた。見知らぬ彼らに続いて、山姥切が歩き出す。この人たちは誰なんだろう。かくれんぼは終わったみたいだけど、どこに行くんだろう。
「みんなは?」
「……すまない。見つけられなかった」
「…一緒に探す?」
「いや、今日はもうお終いだ。少し遠くへ行く」
「どうして?」
「主の…あんたの父さんの頼みだからだ」
ざ、ざ、と歩き続ける足音は止まらない。布と山姥切さんの肩に遮られた視界に、本丸の庭がちらと見えた。鞠が、赤い水溜りにぷかんと浮いていた。
「ねえ、水溜りが赤いのはどうして?」
「…夕焼けともみじが、映っているからだろう」
 いつも迷いなくすとんと話す山姥切の声が震えていた。顔を覗いたら、彼は静かに泣いていた。はらはらと落ちた涙が、私の手の甲を濡らした。秋の夕焼けの中では、水溜りも涙も赤色をしているんだ。
「あまり見るな」
 そう言って、山姥切は抱えたままの私をぎゅうと抱きしめた。燃えるような赤は、肩に押し当てられて閉じた目蓋の裏へ。くらやみに隠れて、もう見ることは叶わなかった。

 あの時、父の本丸に何があったのか、今なら分かる。分かってしまうくらいには、私は大人になった。だけど、言葉にするつもりはない。

「なんだ、ぼうっとして」
「うん、秋がきたなあと思って」

 神さまを信じるか、と問われたら私は迷わずはいと答える。それは別に宗教に属しているからでも、特別信心深いからでもない。

 秋が来ると少しだけ寂しくなる。それは、この季節のどこかに、いまも大切な人たちが隠れている気がするから。

 かくれんぼをしたあの日から変わらず、私は秋が好きだ。それは神さまを信じているから。優しい沈黙を守ったまま、隣に佇む山姥切の瞳に、紅葉の赤が映って揺れた。涙の膜はもう、どこまでも透き通っている。

 



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