鶴丸国永に憑依されて怪異を斬る話


 審神者として本丸に着任してすぐのこと。春一番は桜の花弁を吹き上げて、短刀たちの喉元にこちょこちょとじゃれながら空をぬるく烟らせる。真新しい日々が雲雀と一緒に歌い初めてからちょうど六小節ほどが経つころ。鶴丸国永と私は、目が眩むような春陽の同じ黄金に呼び合わされた。

「かせーん、ちょっと散歩行ってくる」

 共をつけようか、という歌仙兼定の申し出をありがたく断った。思い思いに黄昏の光を撒きながら落ちる花弁を見ていたら、ひとりの軽さが恋しくなったのだ。橙の薄い膜の奥にはまだ、ひんやりとした空気がうずくまって夜を待っている。着物の上にぱりりとした外套を一枚羽織って、黄昏時の縞模様、その名前の知らない色を眺めた。「夕飯までには帰ってくるように」という初期刀との約束が薄く冷える頬をじんわりと暖めていた。

 本丸の裏手から続く木立を歩きはじめてしばらく経ったとき、桜色に塗り潰された地面の上にひと筋の道を見つけた。人ひとり分の幅が、落ち続ける油絵具を弾くようにして向こうへ続いている。気まぐれに引いたしんにょうのような不確かさの、行く先は見えない。見えないものほど見たくなる平凡な私は、ただ手招かれるまま素直に歩を進めた。

「……家?」

 道の先には家があった。本丸よりも小さな和風建築だ。政府より本丸へ派遣されたとき、敷地内の案内を受けたのは歌仙だったから、こんな離れがあるなんて知らなかった。外観は真新しくて小綺麗、建物を囲む塀の向こうで立派な枝垂れ桜が風にたわんで会釈をくれた。それだけでつい嬉しくなって、開け放たれた門戸をくぐった。

 履き物を脱いで建物へと足を踏み入れる。井草のにおいがする。節のない檜の柱のほの白い木目からは一切の時の蓄積を感じられない。屋内に踏み入った廊下の正面に、六面襖。開いてみると空っぽの広い和室があった。室内には入らずに、廊下を辿る。右手にはずっと庭が見えている、春を切って貼ったような整然とした美しさがお行儀よくならぶ庭。つい見惚れて歩いているうちにもとの場所へと戻ってしまった。どうやら最初の和室を囲むように廊下がぐるりと一周しているこの屋敷の間取りは"回"という字のような造りになっているらしい。

 探索は案外すぐに終わってしまった。ほんの少し物足りなさを感じながらも、特にやりたいことも思いつかない。立ち去ろうと広間に背を向けた。そのときだった、背後にかちゃん、と小さく音が転がる。つられて振り向くと、何もなかったはずの部屋の真ん中に、ほくほくと湯気の立つ膳が用意されていた。

 姿の見えない何か、からのもてなしに心臓がどきりと跳ねて足が竦んだ。……知らない人から食べ物をもらっちゃいけない、というのは千九百年代から人類に代々伝わる教えだし。黄泉竈食ひは絶対しちゃだめ、というのは七百年代の書物にもまことしやかに書かれている。

「……せっかく用意していただいたところ申し訳ないんですが、夕飯を作って待ってる人がいるので食べられません」

 はっきりと声に出してお断りして、お辞儀をひとつ。じわ、じわ、とこみ上げる恐怖と焦燥を押し殺して平静を装い出入り口へと向かう。扉に手をひっかけて、指先が白くなるほど力を込めた。もちろんお察しのとおり、よくある怪談のセオリーに忠実なこのての扉は総じて開かない。

 テンプレ怪奇乙、と思いながら詰んだ瞬間である。怖さを誤魔化すためにわざとふざけた言葉を頭の中で使っているけど、事態の好転はない。絶望感に打ちひしがれているところへ、声がかかった。

「なんだなんだ、食わないのかい?」
「……へ?」

 広間の中に、真っ白な人が胡座をかいてこちらを眺めている。この人、いや、この刀をわたしは知っていた。本丸配属時に押し付けられた膨大な資料、そのうちの刀帳に載っていた付喪神の一振り、名前はたしか。

「…つるまる、くにながさん…?」

 半信半疑のまま口にする。時の政府、審神者とともに戦う契約を結んだ付喪神ならば、おそらく害されることはないはずだ。どうしてこんなところにいるのか、なんて疑問はすっかり抜け落ちていた。一人きりで怪奇に立ち向かう術を持たない私は、すがるような思いで名前を呼んだ。情けなく震える声を聞き遂げて、彼はおおらかに破顔する。

「俺の名を知っているということは…きみ、審神者だな?」
「え、っとはい。一応は、審神者ですが…」
「そうかそうか。ようやく迎えが来たというわけだな」

 相当自由な性分であるらしい鶴丸国永は、第三者目線でもかなりわかりやすく動揺してるであろう私を差し置いて、んーっと伸びをしている。

「さて、共にここから出るために、頼みたいことがあるんだが」
「ここから出る方法を知ってるんですか?」
「知ってるもなにも、半分くらいは俺の記憶で出来ているからなぁ。飯もうまいぞ、なにせ光坊手製の料理の味だ。本当に食べておかなくていいのかい?」
「……いや、いらないです」

 燭台切光忠と呼ばれる太刀は、私の本丸にはまだ顕現していない。それ以前に、半分は記憶で出来ているというのもよく分からない。彼の思惑なのか、鶴丸さんと話していると微妙に話の論点をずらされて、質問のタイミングを奪われてしまう。

「そうか、ならとっとと終わらせるとしよう」
「どうすればいいんですか?」
「あの、壁に描かれている鬼を斬るんだ」

 鶴丸国永が指し示した先、部屋に入って左奥の壁には禍々しい鬼のような四つ足のいきものが描かれている。取り憑かれたかのような筆致のおぞましさ、ぎょろりとこちらを見据える目玉からは生気さえ感じる。そこに在るだけで恐ろしい、と思う絵を、私はこのとき初めて見た。息を飲んで立ち竦んでいると、鶴丸国永が近くに歩み寄ってくる。隣に立って、同じように壁を見た。

「だが俺一人では壁を斬ることはできても、鬼は斬れない」
「……トンチなら苦手です」
「きみならできるだろう。物の心を励起する。それこそきみが審神者たる所以じゃないか」
「もしかして、あの壁画を顕現しろって言ってます?」
「ああ。飲み込みがはやくて助かるな」

 本気で言ってるんだろうか。あれを励起するなんて、どう考えても嫌な予感しかしない。

「……顕現したら秒で食べられそうなんですが」
「そこで、だ。俺がきみに入って鬼を斬ろう」
「自分で斬れば良いのでは?」
「それが出来れば苦労はないが、あいつを斬れば俺はこの屋敷ごと消えてしまう。せっかくの縁だ、きみの体を貸してくれ」

 ……言ってることがわからなすぎてこわいんですけどなにこの刀…。私の顔色を読んだ鶴丸国永が気安く背中を叩いてくる。平安時代に打たれたからなのか、その顔には年長者の余裕がなみなみと見てとれた。なにが楽しくてそんなに笑って構えてられるのか、まったく真意が読めない。

「だーいじょうぶだ。まあ、不安な気持ちも多少は汲むが…きみだっていつまでもここに居るわけにはいかないだろう?目的は同じだ。ここを出たら、俺もきみの刀になるわけだしな」
「え?私の本丸にくるんですか?」
「ああ、散歩に出た主の手土産が鶴丸国永だというのも、なかなかの驚きだろう?それとも、俺じゃあ不満かい?」
「…不満とかじゃないですけど」
「なら決まりだな。では主、さっそく共闘といこうじゃないか!」

 なんかもうなにを言っても鶴丸さんのペースに飲まれてしまう。この場所でずっと趣味の悪い鬼の絵を眺めながら、掴みどころのない付喪神を相手にするのは疲れる。それに夜ごはんまでに本丸に戻るという約束を破ったら、心配…はしてくれないにせよ絶対に怒られる。就任初日に遅刻をやらかした私は新米審神者ながらすでに学習済みだ。怒った歌仙兼定はその辺の怪奇よりよっぽどこわい。

 壁画へと霊力を送る覚悟を決めて、ひらいた掌を翳した。体温を押し出すように、恐ろしい鬼に呼びかける。謳い文句は、鬼さんこちら、が正しいのだろうか。

「…ほんの少し食わせるだけでいい。美味いもの欲しさに、あとは勝手に出てくるはずだ」

 言いながら、鶴丸さんが私の手を包んだ。そのまま握り込まれて送っていた霊力が途絶える。あの鬼やっぱり食べようとしてくるんじゃないですか…!と抗議しかけたところ、引き寄せられて頬に手がかけられた。

「な、なんですか!?」
「…じっとしていろ、死にたいのか?」
「死にたくないですけど!」
「ならいい子にしていてくれ」

 顎を掴む鶴丸さんの手、その親指が唇を割り入ってくる。んあ、と術もなく開けさせられた口が情けなくて、すぐそばの瞳を睨んだ。鶴丸国永は、へえ?と可笑しそうにこぼして「こういうとき、目は閉じていたほうが可愛げがあるぜ?」と宣った。いけしゃあしゃあとどこまでも食えない態度に不満が募るけれど、口の中の親指に舌を押さえられて話すことができない。是非を問わず近付く瞳の美しさに耐えられず、結局ぎゅうっと目蓋を瞑ってしまう。ふ、とすぐそばの唇が吐息をこぼして弧を描く気配がした。

 湧き水のように冷たい呼気が口の中に入ってくる。飲みこもうとするより先に、体内へすうと流れてくる。熱帯魚の鱗を砕いたような粒子が喉の奥を通って、体中へと行き渡るのを感じた。

 顎を掴んでいた手の感触がふわりと掻き消えて固く瞑っていた目を開けたとき、鶴丸国永は刀の姿になって私の腕の中にあった。突然見えなくなった付喪神の姿に、不安に駆られそうになってすぐ、胸のうちから声が聞こえた。

「落ち着け。落ち着いて、見極めろ」

 背後よりももっと近く。太鼓の音が震わせる胸のどこか、自分のなかに鶴丸国永が居る。姿は見えないけれど、感じられる息遣いやまばたきを、この身が直接知覚する。ただ分かる、という共感覚。不思議と不快感は無くて、私は何故か安心さえ覚えた。

「油断してくれるなよ」

 その声にしたがって周りを見渡すと、ぼこぼこと鬼の絵が膨れ始めている。煮えた溶岩のように、ぶくり、ぶくり。孵化するんだ、と直感的に確信した。鬼のような生き物が壁の絵、その膜のような膨らみを破いて産まれようとしている。あり得ないことを受け止めるにしては、いやに平然とした思考だった。

 鬼を前にして、刀に手を掛けた。太刀なんて振るったこともないはずなのに、なぜだか体によく馴染んだ動作だった。

 体の中、耳の奥に「しー、」と鶴丸が囁いている。私は息をころした。こんなときでさえ、彼は至極楽しそうな声で話す。

「大丈夫だ。俺ときみは結ばれている」 

 そっか、大丈夫だ。と私はすんなり納得した。鶴丸国永がついているなら絶対に大丈夫。先ほど会ったばかりの付喪神にこれほど信頼を置けるのはなぜか?…理由は簡単だった。今や私が鶴丸国永で、鶴丸国永こそが私だからだ。

 顔は見えないはずなのに、勝気に笑んでいるということが手に取るようにわかった。物の怪退治とは、久しぶりだな。つられてこちらまで笑えてくる。ほんと、久しぶりだね。まるで手を引かれて、駆け出す子どものような気持ちだ。

 ーあの公園のブランコは、まだ、空いているかな?と、イメージの背中が走り出した。ふわりと頬を撫でる風の感触を夢想した。風に踊る髪が、持ち上がる瞬間の無重力を追体験した。膝を曲げて、思いっきり漕いだぶらんこが振り切れて、鎖を手放して飛んで、着地した、すとん。ごく僅かな砂埃を立てて、イメージの中の自分が私と重なり着地する。

ーーー顔をあげた。ああ、たまらなく、わくわくする!

 ぶくり、ぶくり。膨張を続ける絵。私のからだ五つ分よりずっと大きいそれを眺めながらさっさと生まれておいでよ、と思った。得体の知れない生き物の誕生に立ち会いながら、一切の怖さを感じない。はやくこいつを斬って、その正体を知りたい。刃を相手の体に差し込んだ瞬間に解る、そのすべてを自分のものにしてしまいたい。

 ただ無邪気な好奇に駆られる。幼い頃にだけ味わうことのできる、シンプルな飢えと渇き。ただ斬りたいという、衝動。この怪物を斬ったその向こうには、何が待っているんだろう。

「一緒に行こうじゃないか」
「……一緒に行きたい」
「楽しいことは好きかい?」
「すき」
「ははっ、そうかそうか。なら、たあんと教えてやろうな」

 鶴丸国永は願い事を叶えてくれる。まるでほんとうの神さまみたいだと思った。

 やがて膨れた膜を破いて、みちみちと糸を引きながら四つ脚の鬼が離脱する。鬼のようにも、蜘蛛のようにも見える生き物は、子どもが描いたでたらめのような荒い解像度で地面に降り立った。鋭い爪が真新しかった畳に突き刺さり、煩わしそうに弾き飛ばされた。ぐるるるうという唸り声に、足元の空気が波立つ。それからゆっくりと、縋るような瞳でこちらを見た。誰にも知られずさみしいと訴えるような眼差しだ。

 仕方ないなぁ、斬ってやろう。お前を一番理解して、物語の中で永遠に生かしてやる。ようやく始まった…それから、ようやく終わる。口の端っこが意図に反して吊り上がってしまう。私はもう、そいつを見てはいなかった。ただ、骨と肉の塊を切り裂いて、駆け出すことしか考えていなかった。わたしたちの行き着く先は何?これを切って、そのあとは?どうなるのか、知りたい。胸を踊らせる新しい物語を、知りたい、死にたくない、知りたい。知りたい!

 ぎゅうと畳を踏み込んだ。…足がある!鯉口に指をかける。…手もある!どこへ行こう?きっと退屈しないんだろうな、この目で見たい。はやく、はやく!続きに向かって駆け出したくてたまらない。上擦りそうになる呼吸を宥めて、高鳴る胸を抑えるように閉じ込める。奥深くに多くの命を隠してせせら笑う、懐かしい海のおもてのように。

「ほぅら、かかってこい。」

 最後に言い放った声は、自分のものだったのか、鶴丸国永のものだったのか、どちらとも判別がつかなかった。振りかぶられた前足を交わして、そのまま鋒を喉元に差し入れて、一閃。あっけなく散る。切り口から吹き出す血飛沫は宙に舞って、頬に触れる頃には桜の花弁に成り代わっていた。屋敷の床も壁も、すべてが眩い黄昏の薄桃に溶け消えて、納刀。かちん、という音にすべてが小さく収束する。薄れる意識の片隅で、枝垂れ桜が労うようにこちらを眺めていた。

「……主、あるじ。」
「う、歌仙…?」

 目を開けたとき、私は歌仙に抱えられていた。名前を呼んで応えると、安心したようなため息が降ってくる。ぜんぶ夢だったのだろうか、と思いかけて、腕の中に抱えたままの太刀、鶴丸国永の存在に気付く。横抱きにされたままぼんやり歌仙の顔を見上げる。ざくざくと無愛想な歩幅からして、わが初期刀殿はなかなかにお怒りのようだ。手持ち無沙汰で心細い気持ちをごまかしたくて、歌仙に声をかけた。

「あれ、なんだったんだろう?」
「……はぁ。……なまじ霊力があるだけで不用心極まりない君がほいほい呑気に招かれたのは、おそらく迷い家というものだよ」
「……まよいが?」
「……迷い家について話す前に。僕は怒っているんだ。共を断っておいて、その身を危険にさらすなんて君にはまだこの本丸の主たる自覚が無いように見受けられる。なにか言い訳があるなら聞くが、今後このようなことがないように一度きちんと話し合いの場を設けなければならないようだね。」

 なかなかにお怒りどころかめっちゃ怒ってた。言葉の節々に忍ばされた的確なトゲが突き刺さる…。けれど、同時にとてもくすぐったかった。打ち水、朝霧、雪晴れ、そんな言葉の結晶を煮詰めて凍らせたような彼の涼しい眼差しが、少し潤んで揺れていたから。そこに滲む感情は、鈍い私にもさすがに伝わる。自分の帰りを待っていてくれる誰かが居ることが、こんなにも胸を暖かくするとは知らなかった。

「ごめんなさい……。」
「……ふん」
「でもお食事とかはちゃんと断ったよ、歌仙が夜ごはん作って待ってるから、帰らなきゃと思って」
「…へぇ?」
「…迎えに来てくれてありがとうございます…心配かけて、ほんとにすみませんでした…。」

 そこまで言うと、長いため息が吐かれた。はああ、と歌仙の口から怒りが抜け落ちる気配がしてひと安心する。

「仕方ないな。無事に戻ったのだからそれでよしとするよ。以後充分に気をつけるように。……まったく。約束、結んでおいて正解だったね」
「……歌仙、ありがとう」

 こちらを見下ろす歌仙の表情が緩む。それを見て、戻ってくることができてよかった、と心の底から思った。

「…しかし、とんでもない土産を押し付けられたものだ」
「俺が土産なら驚くだろうって言ってた」
「彼が顕現したら、みっちり話を聞いてあげることにするよ」

 夕餉のにおいが近付いてくる。顔を向けると明かりの灯った本丸が見えた。離れていたのはほんの少しの時間だったはずなのに、恋しさでいっぱいになって、ようやく気がつく。慣れないばかりだと思っていたこの本丸での日々が、かけがえのない日常へと姿を変え始めていたこと。

 誰かさんの言葉を借りるとすれば、なまじ霊力があるだけで不用心極まりない私は、この日やっと主としての自覚とやらの片鱗を持ち帰ることができたのだ。腕の中で初期刀からのお説教を待っている、真っ白な太刀と一緒に。


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